高橋千雪は車を走らせ、ひそかにここまで尾行してきた。そして、目の前の光景に思わず手の関節が白くなるほどハンドルを握りしめてしまう。信じられない――なぜ佐藤晴がここにいるの?
千雪の脳裏には、これまでの佐藤晴との思い出が次々とよぎる。自分のためにダメ男と浮気相手を怒鳴りつけてくれたこと、美羽優のことを容赦なく罵ったこと、「会うたびにぶん殴ってやる」とまで言ってくれたこと――一番の親友だった彼女が、なぜ自分の家庭を壊したあの女と、まるで親しい友人のように談笑しているの?
千雪は目をぎゅっと閉じた。涙はもう枯れているのに、瞳はまだ熱い。信じたくない!
車のドアを開けた瞬間、体のこわばりでバランスを崩し、アスファルトの上に倒れ込んだ。膝も手のひらも擦りむいて血が滲んでいるのに、その痛みさえ感じない。何とか立ち上がって、よろよろと別荘へ近づいていく。
リビングからは、かすかに声が聞こえてきた。
「晴、ちょっと教えてよ、奥さんこの二日間どうしちゃったのさ?慎一さん、心配でたまんないみたいだよ」
小野の声だ。
「千雪に隠れて美羽優と五年も続けておいて、今さら彼女の気持ち気にする意味ある?」
佐藤晴の声には、どこか皮肉な響きがあった。
「お前分かってないな。奥さんは慎一さんがちゃんと結婚した相手だろ?さっきだって、奥さんが慎一さんを無視してたのを見て、通行人も慎一さんが悪いって思うだろうし。こういう噂が広まって株価に響いたら大変なんだよ、龍神グループの!」
千雪は、騙していたのは小野だけじゃなかったと悟る。
晴の言葉は毒針のように千雪の心に突き刺さる。みぞおちに激しい痛みが走り、思わず体を折り曲げた。もう彼らが何を話しているのか、耳には入らない。晴は最初から全部知っていた――そして皆で自分を騙していたのだ。全てを分かち合ったはずだったのに……晴の裏切りは、慎一の不倫よりも遥かに深く千雪を傷つけた。
なぜ、こんなことに……!
痛みはどんどん増し、額には冷や汗が浮かび、全身が冷えて意識が遠のいていく。ここで倒れてはいけない――そう自分を奮い立たせ、千雪はなんとか車へ戻ろうとした。
千雪が去った後、美羽優は彼女のよろめく背中を見送り、ほくそ笑みながらキッチンのブラインドを下ろし、用意していたお茶とお菓子を持ってリビングへ戻った。
晴が自分の肩を持つふりをし、小野が「もっともらしい理由」を作るのも、すべて聞こえていた。慎一が千雪を気にかけるのは、会社の株価と自分の評判のため――もはや愛なんてない、と美羽優は満足げだった。
普段は慎一の前では従順な美羽優は、茶菓子を置いた後、二階へ上がり身支度を整える。寵愛を受ける準備だ。
美羽優が姿を消すと、小野が続けた。
「どんな大物でも愛人の一人や二人いるだろ?慎一さんには美羽優しかいないんだし。奥さんにバレても……」
「千雪には絶対に知られちゃいけない」
慎一が鋭い声で遮った。冷たい視線が一同を射抜く。
小野はハッとし、慌てて言い直した。
「もちろん、絶対にバレません!慎一さん、ご安心を。誰にも口外しません」
だが千雪はすでに全てを知っていた。しかも、もうここから去ろうとしていた。晴は、美羽優がここまで事態を壊すとは思っていなかったし、慎一が彼女に溺れて子どもまでできていたとは夢にも思わなかった。千雪の絶望する表情を思い出し、晴はほんのわずかに唇の端を吊り上げた。
「晴、慎一さんにちゃんと説明してあげてよ。奥さん、どうしてるの?」
小野が催促する。
「理由なんて、生理前で気分が落ち込んでるだけよ」
晴は適当にごまかした。千雪の計画を慎一に言うつもりはない。慎一が千雪を本気で愛しているからこそ、千雪が完全に離れるしか、元の彼に戻らない。自分にチャンスが巡ってこないのだ。
小野はホッとした様子で言った。
「慎一さん、これで安心ですね。奥さんはちょっと体調が悪いだけです。二、三日経てば、また元通りですよ」
だが慎一は、眉間にしわを寄せたまま動かない。千雪の生理周期を忘れたことなんて、今までなかった。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼します」
小野は晴の手を取り、「終わったらまた美羽優を迎えに来るよ」と言い添えた。
「慎一さん、本当に美羽優を海外に行かせるつもりですか?もし翔太の世話で別荘に来てなければ、奥さんと会うこともなかったでしょうし。五年もバレなかったんですから、これからも大丈夫じゃないですか。無理に送る必要ないでしょう?」と、慎一の気持ちを探るように口にした。美羽優への執着を知っているからこそ、彼女がいなくなったら慎一が耐えられないのでは、と心配していた。
千雪の体が弱いことを思い出すと、小野は内心で慎一に同情した。
「千雪に約束したことは、必ず守る」
そう言って、慎一は手を振った。小野と晴は空気を読み、その場を去った。
ドアが閉まる頃には、美羽優がセクシーなナイトウェアに着替えて階段を下りてきた。晴の目は氷のように冷たく、美羽優を今にも引き裂きそうなほどの憎しみを宿している。しかし、こんな女に嫉妬する気はない――自分が欲しいのは、高橋財閥の社長夫人の座だけだ。
二人が去った後、美羽優は慎一の胸元に身を寄せ、指先で彼の胸から下へゆっくりと撫で、大腿の内側に手を滑らせた。
「慎一さん、私のお茶、飲んでみて?」
そう囁き、口に含んだお茶をそのまま慎一の唇に運ぶ。
慎一の喉がごくりと鳴り、目が暗く深くなり、美羽優の唇を噛んだ。
広い車道の向かい側、運転席に座る千雪は、澄んだガラス越しに室内で絡み合う二人を見つめていた。その顔は血の気が失せ、まるで白紙のようだった。腰の下から真っ赤な血が流れ出し、シートを濡らしていく。体も心も限界を超え、ついに千雪の意識は暗転し、その場で倒れ込んだ。
別荘の外には人だかりができ、ざわめきが広がる。
物音に気づいた慎一は、弾かれたように美羽優を突き放し、別荘を飛び出した。
「千雪!」