高橋慎一は勢いよく車のドアを開けた。運転席に残った血痕が目に入り、瞬間的に瞳孔が収縮する。しかし、千雪の姿はどこにもなかった。心臓を急に冷たい手で掴まれたような感覚に襲われ、彼は苛立った声でボディーガードたちに叫んだ。
「すぐに探せ!このエリア全体をくまなく調べろ!」
護衛たちは、千雪が慎一にとってどれほど大切な存在かをよく知っていた。号令が下ると、全員が即座に動き出した。
その頃、千雪は病院のベッドで静かに目を覚ました。目の前には真っ白な天井が広がっている。
「千雪さん、やっと目が覚めましたね!」山本医師が手を握り、信じられないような興奮の面持ちで告げた。「おめでとうございます、妊娠六週目です。」
千雪はそっとお腹に手を当てた。五年間、子どもを願い続けてきた苦しみが一気に胸に押し寄せる。しかし、次の瞬間、全身を凍らせるような冷たさが支配した。彼女は山本医師をまっすぐ見つめ、微かな喜びはすぐに消え、決意の色に変わった。
「この子、いらない。」
「千雪さん!」山本医師は驚いて半歩後ずさった。「ここまで子どもを授かるためにどれだけ苦労してきたか——漢方薬も、鍼灸も、痛い検査も、全部耐えてきたじゃないですか。なのにどうして急に……」
「彼にはその資格がない。」千雪の声は羽のように軽かったが、そこには強い冷たさがあった。慎一の首筋についた見慣れないキスマーク、美羽優と別荘で過ごした情景が頭をよぎる。「妊娠中に五年も浮気していた男なんて、この子の父親になる資格なんてない。」
山本医師は言葉を失った。院内で密かに囁かれる噂——高橋社長が別の女性の出産記録に父親としてサインしたという話——まさか本当だったのか。千雪の顔は紙のように青白く、その決意の理由をやっと理解した。
山本医師がためらう様子を見て、千雪は彼女が慎一の権力を恐れているのだと思い、シーツを握りしめた。
「もし無理なら、公立病院に行きます。でも、お願いです、このことは誰にも言わないで。とくに慎一には絶対に。」
「だめです!」山本医師は急に声を強めた。「妊娠準備のために体はもう限界です。さっきの失神も軽い出血が原因ですし、今、中絶なんてしたら危険すぎます。まずは体を休めて、ひと月後に考えましょう。」
彼女は一度区切ってから、さらに低い声で続けた。
「それに……高橋社長には、もう一人子どもがいるかもしれません。」
「え?」千雪は驚いて顔を上げ、杏のような瞳にショックが広がる。山本医師の言葉は鈍いナイフのように、千雪の壊れかけた心をさらに深く傷つけた。
その時、病室のドアが「バン」と大きな音を立てて開いた。慎一が険しい顔で入って来て、山本医師を押しのけるようにして千雪を強く抱きしめた。
「千雪、心配で死にそうだった。どうして急に倒れたりしたんだ?」
シャツ越しに伝わる体温。しかし千雪が嗅ぎ取ったのは、よく知るデイジーの香水の匂い——それは美羽優がいつもつけている香りだった。彼女は思わず慎一を突き放し、彼の首筋に浮かぶ赤い跡を見つめて、氷のように冷たい声で言った。
「放して。あなたに私のことは関係ない。」
慎一はさらに強く抱きしめ、いつもの優しい口調でなだめる。
「ごめん、遅くなった。怒らないで、な?」
その優しさが、千雪にはますます皮肉に感じられた。
「高橋さん」と山本医師が控えめに口を開いた。「千雪さんは情緒不安定と低血糖で倒れました。しばらく安静が必要です。」
慎一は山本医師を一瞥し、すぐに千雪を見つめ返して声を冷たくした。
「五年も担当していながら、体調管理もできないとは。もう君は必要ない。今日から来なくていい。」
そして、指を鳴らす。
「伊藤先生を呼んで、千雪の身体をしっかり検査させろ。」
「先生は変えません!」千雪はベッドに起き上がったが、腹部の痛みで顔色がさらに悪くなる。「高橋慎一、出て行って。あなたなんて見たくない。」
ボディーガードたちは互いに顔を見合わせ、社長の命令にも奥様の言葉にも逆らえず困惑していた。慎一はため息をつき、声を和らげた。
「わかった、先生は変えない。検査もしない。俺は廊下で待ってるから、どこにも行かない。」
そう言うと、オフィスの机と椅子まで病室の外に運ばせ、その場で仕事を始める勢いだった。
慎一が部屋を出ると、千雪はすぐに山本医師の手をつかみ、切羽詰まった声で問いただした。
「さっき言ってた……もう一人の子どもって、どういうこと?」
山本医師は躊躇いながらも小声で答えた。
「小児科の回診で、ある児童養護施設の子の健康診断書を見たんです。父親の欄に『高橋慎一』と書いてあって……その子は五歳くらいで、翔太くんによく似ていました。」
千雪の心臓は、目に見えない手で締め付けられるような痛みに襲われ、呼吸すら苦しくなった。五年前、自分が必死に妊活に励んでいた頃、慎一と美羽優の間にはすでに子どもがいたという事実。信じていた「愛」は、彼が巧妙に仕組んだ嘘だったのだ。
その時、再び病室のドアが開いた。慎一が男物のコートを手に、暗い表情で入って来る。
「千雪、君を病院に運んだ男は誰だ?それに、奥多摩の別荘には何しに行った?」
その目には疑念と独占欲が渦巻いている。千雪はそれを見て、泣きながら微笑んだ。涙を流しながら、静かに目を閉じ、吐息のような声で答える。
「高橋慎一、あなたに知る資格なんてない。」
お腹の痛みは続いていたが、心の虚無感に比べれば、そんな痛みは取るに足らないものだった。千雪ははっきりと理解していた。この子は、嘘と裏切りに満ちた世界に生まれてくるべきじゃない。一ヶ月後、必ず全てに終止符を打つと心に誓った。