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第12話 脱出まで、あと28日

高橋千雪は、ドアの鍵が回る音を耳にし、指先を無意識に握りしめた。壁に背を向け、呼吸さえも意識的に静かにする。高橋慎一の偽りに満ちた優しい顔など見たくもないし、これ以上関わり合いたくもなかった。


あと28日。組織が用意した迎えの日はすぐそこまで迫っている。一秒一秒が、刃の上を歩くような忍耐だ。


慎一がベッドの端に腰掛けると、マットレスがわずかに沈む。ひんやりとした指先が千雪の手の甲に触れ、動きが止まった後、そっと彼女の冷たい手を包み込んだ。「千雪…」と、いつもの低く柔らかな声がする。「まだ怒ってるの?」


千雪は睫毛を震わせ、唇を噛みしめた。脳裏には小野大翔が会員制クラブで言った言葉がよぎる。「奥さんにバレたら、絶対に離婚して出ていくと思いますよ。」実際、彼女は今まさに去る準備をしている。泣き喚くためではない、完全に彼の世界から消え去るためだ。


「お願いだから、僕から離れないで。」慎一の掌が彼女の下腹に重なり、指先で優しく撫でる。「全部ちゃんと片付ける。もう君に辛い思いはさせない。」


その温もりに、千雪は思わず鼻の奥がツンとした。翔太を産んだときに体を壊し、それ以来、生理のたびに激しい腹痛に悩まされてきた。以前の慎一は、夜通しそばにいて、温かいタオルでお腹を温め、生姜湯を飲ませてくれた。しかし今、その手はさっきまで美羽優を抱いていた。その優しささえ毒のように感じ、胃の中がかき乱される。


涙は静かに枕を濡らした。痛みは体ではなく、心からあふれていた。


次に目を開けた時には、外はすっかり暗くなっていた。千雪は自分が慎一のセダンの中にいることに気づく。車は幼稚園のイチョウの木の下に停まっていた。バッグが隣に置かれ、スマートフォンの画面には着信履歴が表示されている。


佐藤晴からだった。


電話を取ると、晴の声が少し慌ただしかった。「千雪、ごめん。さっき取締役会で、電話に出られなかった。」


千雪は携帯を握りしめ、幼稚園の門の方を見つめる。慎一は翔太を迎えに行っているはずだ。深く息を吸い、話そうとしたその時、近くから言い争う声が聞こえてきた。


「パパ、なんで美羽さんを行かせるの? 海外に行ったら、もう会えなくなるじゃん!」


翔太の声は今にも泣き出しそうだった。


「大人のことに首を突っ込むな。」慎一の声は冷たくきつい。


千雪は声の方にそっと近づき、柊の生け垣の陰に身を隠した。美羽優がしゃがんで翔太の涙をティッシュで拭いている。「翔太、いい子ね。おばさんが海外に行っても、ハガキ送るから。お休みの時は遊びにおいで、ね?」


翔太は急に慎一の方を向いた。「パパ、じゃあ僕も美羽さんと一緒に海外に行く! パパ、僕を留学させるって言ってたでしょ? 今すぐ行きたい!」


千雪の心は冷たく沈んだ。大事に育ててきた息子が、家庭を壊した女のために親から離れようとしている。美羽優は一体何を吹き込んだのか。


美羽優は慎一に背を向け、口元に勝ち誇った笑みを浮かべたが、振り返ると心配そうな顔に戻った。「翔太、パパとママを置いて行っちゃダメよ。特にママ。ママが翔太のことで悲しむの、見たくないから。」


「ママが美羽さんを追い出したんでしょ!」翔太は声を張り上げ、怒りで顔を赤くした。「美羽さんが家に来なくなってから、パパは全然笑わなくなった! ママなんか、大っ嫌いだ!」


パシン――。


澄んだ音が空気を裂いた。慎一の手が空中で止まり、指先が白くなっている。千雪は初めて、彼が子どもを叩くのを見た。胸が締め付けられるように痛んだ。


翔太は頬を押さえ、涙が次々とこぼれるが、声を上げて泣くまいと必死に堪えていた。美羽優が慌てて彼を抱きしめ、「翔太、大丈夫よ。パパも悪気はないの……」と優しく慰める。


「なんで彼女にそんなこと言うんだ!」慎一は声を震わせて怒鳴った。「君を産んだ時、彼女は命がけだったんだぞ。それなのに……」


千雪はもう耐えられず、ふらつきながら後ずさった。木漏れ日が慎一の肩に降り注ぐ。その姿はかつてと同じだったが、浮気の事実の前では、その庇う姿さえ皮肉に映った。


「美羽さん、」翔太が美羽優の手を握りしめて言った。「じゃあ美紀ちゃんは? 一緒に行くの?」


美紀?


千雪ははっと顔を上げた。美羽優の娘? あの資料に載っていた、翔太と遊園地で写っていたショートカットの女の子?


その時、再び携帯が震えた。小野大翔からだった。千雪が応答すると、彼の声はどこか迷いを含んでいた。


「千雪さん、言うべきか迷ったんだけど……」


「言って。」


「うちの母が病院の記録室で働いてて、五年前、ある女性が病院で女の子を産んだんだって。出生証明の父親欄、そこに高橋慎一の名前があったって……その子、多分、高橋美紀って名前。」


千雪の目の前が暗くなり、倒れそうになった。少し離れたところで、翔太は左手で美羽優の手を、右手で慎一の手を握り、三人で駐車場に向かって歩いていく。翔太は美紀の話を楽しげにし、頬の涙の跡も乾かぬうちに、もう笑顔を見せていた。


やはり、あの写真は偶然じゃなかった。美羽優の娘は本当に存在した。慎一は五年も浮気し、子どもまで作っていたのだ。


風が吹き、千雪はコートをぎゅっと抱きしめた。あと28日。この28日で、必ずここを去る。嘘と裏切りに満ちたこの家には、もう何も未練はなかった。


彼女は自分のポルシェ911に向かい、エンジンをかける。バックミラー越しに、慎一が何かに気づいたようにこちらを振り返った。千雪はアクセルを踏み込み、車は矢のように走り出す。「父と子」とその偽りの温もりを、きっぱりと置き去りにして。


カーナビの画面には、脱出までのカウントダウン――28日が静かに刻まれていた。

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