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第13話 ダメ男の決定的証拠——五年間の裏切りと隠し子

「冗談なんかじゃないよ。養子縁組の手続きは全部僕がやったんだ。子どもの名前は高橋美紀っていうんだ。」

電話越しの声は、抑えた喜びを隠しきれず、針のように千雪の耳に突き刺さった。


スマホが手から滑り落ち、床にぶつかって甲高い音を立てる。ひび割れた画面の模様が、今にも崩れそうな彼女の心と重なった。


「千雪さん?聞こえてる?」

大翔の声はどこまでも白々しく、電波の向こうから響いてくる。「このことは絶対、他の人には言わないでね……」


「慎一が子どもを好きなわけない。隠し子なんて、あり得ない……」

千雪は呆然とつぶやき、指先が氷のように冷たくなっていく。頭の中に浮かぶ過去の記憶が、今は鋭い刃となって胸を突き刺す――


母・淑蘭が亡くなったとき、千雪を壊れかけた家庭から救い出してくれたのは慎一だった。

結婚したばかりの頃、義母・雅が孫を心待ちにしていたのに、慎一は彼女の手首をそっと握って言った。「二人きりの時間が一番だよ。結婚は家を継ぐためじゃない。君さえいればいいんだ。」


翔太を出産したとき、丸一日も苦しんだ千雪のために、慎一は病室の前で膝をつき、立ち上がれなくなるほどだった。産後に彼女がICUへ運ばれた時、彼は息子を抱きしめて冷たい声で言った。「千雪に何かあれば、この子は高橋家にいられない。」


その後、義母・雅からさりげなくも強く「二人目を」と促されても、慎一は「君の体が心配だから。いい子が一人いればそれで十分。もし親不孝だったら、何人いても意味がない」と繰り返した。でも千雪がどうしても娘を望んで妊娠すると、お腹に手を当てて優しく笑った。「もしこの子が君を困らせたら、生まれたらお尻をぺんぺんしてやる。」


「ねえ、子どもの名前を決めて?」

千雪が甘えると、慎一は彼女の顔に指を滑らせて考える。


「高橋千雪、ってどう?」

同じ名前は嫌だと千雪が拗ねると、彼は唇にキスしてから、こう言った。「じゃあ高橋美紀にしよう。千雪みたいに賢く育ってほしい。僕は絶対に大切にするから。」


あの頃の優しさは、昨日のことのように思い出せる――

だが今、目の前にある養子縁組の書類。「高橋慎一」の名前と「高橋美紀」の文字が、これ以上ないほど残酷な皮肉だった。偶然なんかじゃない、最初から仕組まれていた裏切りだったのだ。


こめかみが脈打ち、目の前の景色が歪んでいく。バスケットコートの喧騒、茂みの陰、遠くから駆けてくる二つの人影――すべてがぼやけて色の塊になった。千雪はよろめきながら後ずさりし、誰かの腕の中へ倒れ込んだ。


「千雪?」

驚いた声がした。久しぶりに会う宮本だった。彼は蒼白な千雪の顔を見て、眉をひそめる。「慎一は君に何をしたんだ?」


そばにいた小さな男の子が宮本の服を引っ張り、無邪気な顔で言う。「パパ、お昼に会ったお姉さんだよ。すごく悲しそうだった。」


宮本は千雪を連れて行こうとしたが、結局近くの交番まで送ることにした。「拓哉、僕たちのことは秘密だよ。お姉さんをここに届けるのが一番安全だ。」

男の子は小さくうなずき、落ちていた千雪のスマホを拾って後ろをついてきた。


千雪が目を覚ましたとき、宮本の姿はもうなかった。礼も言わず、警察官に頼んでパソコンを借り、急いで街を出るための航空券を取り、電子証明書で仮の身分証も手配した。交番を出ると、スマホを人工池に投げ捨てた――今や位置情報もなく、どんなに慎一が手を尽くしても、すぐには見つからないだろう。


タクシーに乗り込み空港へ向かう間も、千雪の指先は震えていた。

その約三十分後、慎一のスマホに警報が鳴る。画面の赤い点が、空港の方向へと高速で移動していた。


飛行機の搭乗が始まり、千雪は人の流れに乗って機内へ。

座席に落ち着くと、客室乗務員にスマホを借りて、素早くメッセージを打ち始めた。何重もの通信網を潜り抜け、慎一に三通のメールを送る。


「美羽と五年間も不倫し、隠し子の高橋美紀までいたこと、全部知ってる。」


「慎一、私はあなたを絶対に許さない。」


「翔太の親権はあなたに譲る。高橋家の財産も一切いらない。離婚届は弁護士を通して送る。」


送信完了の表示が出ると、千雪はスマホを返して窓の外を見つめた。

機体が滑走し、空に舞い上がる。雲を突き抜けたその瞬間、空には美しい虹がかかっていた。


千雪は微笑みながらも、止めどなく涙があふれた。

十年の結婚生活――学生服からウエディングドレスまで。信じていた愛は、彼の巧妙な嘘だった。夫、息子、義母、親友……信じてきた全ての人が、今は自分の敵になっていた。


でも、今は一人。なのに心は、風に乗ってどこまでも軽くなっていく気がした。


さよなら、慎一。

さよなら、翔太。


これからは、どこまでも自由に。

高橋千雪は、ただ自分のために生きていく。

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