深夜二時、奈央は眠りについたばかりだったが、赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
眠気まなこで体を起こし、産後ケアスタッフの田中和子から娘を受け取ると、ぼんやりとした手つきで胸元を緩める。
ようやく部屋が静かになったと思った矢先、ドアの向こうから物音がした。
和子が息子を連れてきたのかと思い顔を上げると、そこには見慣れた人が立っていた。
奈央の胸がきゅっと締めつけられる。目が合ったその男の顔は、どこか冷たかった。
深夜二時。ようやく夫が帰宅したのだった。
二時間前は、ちょうど結婚二周年の記念日だった。
だが、彼はそのことなどすっかり忘れているようだ。
隼人は奈央の視線を一瞬受け止め、すぐにそらすと、部屋の中へ入ってきた。
酒の匂いが部屋中に広がり、奈央は眉をひそめ、酔った夫に嫌悪感を覚えた。
隼人は近づき、空になったベビーベッドをちらりと見やる。
「息子は?」
「和子さんが連れて行ったわ。」奈央は目線を逸らし、冷ややかに答える。
重い沈黙が部屋に落ちる。奈央の眠気はすっかり吹き飛んでいた。
隼人は何も言わず、ネクタイを外し、シャツのボタンを外し始める。
ふと視線が奈央の授乳中の胸元に向かい、薄暗い明かりの中で白い肌がやけに目を引いた。
赤ん坊が母乳を吸う音が、やけに大きく部屋に響く――その瞬間、思いもよらぬ感情が胸をよぎる。
自分に苛立ちながら、隼人は浴室へと足を向けた。
「バタン」と強くドアを閉める音に、奈央の腕の中の赤ちゃんがびくりと震える。
奈央は眉を寄せ、固く閉まったドアを見つめた――また機嫌が悪いのだろうか。
ちょうどそのとき、スマートフォンが「ピン」と鳴った。
深夜二時、どうせ迷惑メッセージだろうと思いながら手を伸ばした。
が、画面を見た瞬間、奈央の心は鋭くえぐられた。
「隼人、かなり飲んでるから、迎え茶でも作ってあげて。明日の朝、きっと頭が痛くなるわ。」
送信者――九条玲奈。
奈央は画面をにらみ、スマホを握る指が絞まる、手が白くなるほど力が入った。
これはあからさまな挑発であり、侮辱だった。まるで自分が部外者であるかのように。
しばらくして、奈央は胸のもやもやを押し殺し、返事を送った。
「それなら、あなたが月島家の奥様になったら?」
それきり、返信はなかった。
奈央はスマホを放り投げ、表情を崩さない。言い返したところで、心は晴れない。
結婚記念日の夜、夫は想いの人と夜遅くまで酒を酌み交わしていた――
二人は何を話していたのか。黒崎明彦も同席していたのか。それとも、二人きりだったのかーー。
浴室で、男の体から酒の匂いが洗い流されていく。しかし、抑え込んだ欲望は消えない。
目を閉じても、さきほどの光景が頭から離れない――
あんなにしたたかな女なのに、その一瞬だけ母親としての優しさを纏っていた。
馬鹿らしい、と隼人は顔をしかめ、冷水をひねった。
しばらく浴室にこもった隼人が出てきたとき、奈央は息子に授乳を終え、ベッドに横になっていた。
隼人は冷たい空気をまとって近づき、ベッドに腰掛ける。マットレスがわずかに沈む。
その振動に奈央の心も揺れる。
二年間、同じベッドで眠ってきたが、会話はほとんどなかった。
彼が帰宅するたび、奈央はいつ離婚を切り出されるのかと緊張する。だが、隼人は何も言わない。
今夜も、部屋の空気は凍りついたままだ。
息子が眠ったのを確認し、奈央は濡れた下着を拭こうと身を起こして、ついでに電気を消す。
隼人は眠っているのか、呼吸はほとんど聞こえない。
暗闇の中、奈央は静かに身の回りを整える。
そのとき、不機嫌そうな男の声が響いた。
「まだ終わってないのか?」
奈央は驚いて、「もうすぐ……」と小さな声で返した。
子どもを圧迫しないよう、体をずらして隼人の方に寄ろうとした途端、手が彼の腕に触れてしまう。
「痛っ――」
「ごめんなさい、わざとじゃ……」慌てて謝るが…。
「ベッドはこんなに大きいのに、なんで俺にくっついて寝るんだ?」隼人は苛立ちを隠さない。
「子どもを潰さないようにしただけ。窮屈なら、他の部屋で寝てもいいわ。」
それは本音だった。愛のない結婚なら、同じベッドで眠る意味もない。
暗闇の中、隼人の怒りは明らかだった。
「奈央、お前に俺を追い出す権利があると思ってるのか?双子を生んだだけで、もう月島家の奥様気取りか?」
「そんなつもりはないわ。」
「じゃあ、どういうつもりだ?」
深夜三時近く、奈央は疲れきっており、もう言い争う気力もなかった。
しばらく沈黙したあと、ふいに口を開く。
「隼人、離婚しよう。」
部屋の空気が一気に重くなり、息が詰まりそうな静寂が流れる。
隼人は顔をそむけ、氷のような声で言った。
「こんな夜中に、何を言い出すんだ?」
「本気だ。」奈央の声は異常なほど落ち着いていた。頭に浮かぶのは、隼人と九条玲奈が深夜に会っていたこと、そしてあの冷たい挑発的な視線。
こんな結婚に、もう何の意味があるのだろう――
「心配しないで。おじいさんには私から説明する。離婚は私が望んだことにするから、あなたに責任はない。」
淡々とそう言い終え、奈央は布団をめくる。「今夜は別の部屋で寝るわ。」
立ち上がろうとした瞬間、暗闇の中、いきなり強い力でベッドに引き戻される。
「きゃっ!」
奈央は思わず声を上げ、見上げると、怒りを湛えた隼人の大きな影が覆いかぶさってきた。
「隼人!何するの!子どもが隣にいるのよ!」
彼が酒に酔って暴れ、赤ん坊に危害が及ぶのが、奈央は何より怖かった。
男の声は低く、冷たかった。
「離婚?子どもまで産んで、月島家の財産を狙ってるんだろう。今離婚したら、損するだけだろ?」
「そんなことない!妊娠は予定外だった。あなたこそ、なぜ私を責めるの?」奈央は声を抑え、怒りをぶつける。
「予定外?子供が欲しくないなら、方法はいくらでもあるはずだ。」
「ちゃんと薬も飲んでたって言ったでしょ!」
「ふっ。」
隼人は鼻で笑う。まったく信じていない様子だった。
彼はこの女の計算高さを見抜けず、油断したせいで、子どもで自分を縛られたと思っている。
奈央は、隼人が自分を疑い続けていることにもう疲れていた。
これ以上、言い訳する気も起きない。
沈黙の中、隼人は奈央を押さえつけたまま、暗闇に目が慣れてきて、彼女の瞳に怒りの炎が宿るのが見える。
近すぎる距離。奈央の体から漂う香りが鼻をかすめ、さっきの授乳シーンが頭をよぎるーー
得体の知れない空気が、ふたりの間に満ちていった。