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第14話 シャツに残る口紅の跡

奈央を愛している?隼人は眉をひそめ、その考えがどこから来たのか自分でも分からなかった。


「私も明彦の子どもが欲しいのに……でも、彼はいつもはぐらかすの。私なんてまだ子どもっぽいって……きっと子どもに縛られるのが嫌なんだわ……最初からずっと一緒にいるつもりなんてなかったのよ……」


玲奈は泣きじゃくり、言葉もなかなか出てこなかった。


隼人の胸には、冷たい痛みがじわじわと広がる。慰める言葉も見つからず、黙ってペットボトルの水を手渡し、車のそばでじっと待っていた。


十分ほどして、明彦の車が急停止した。


彼は車から降り、座席でぐったりしている妻を見て、苛立たしげに眉間を押さえた。


隼人は小声で言った。「酔ってるから、静かにしてやれ。酔いがさめてから話そう。」

明彦はうなずき、玲奈を抱き起こそうとした。


だが、玲奈は半分意識が朦朧としながらも、急に夫の手を振り払って叫んだ。「触らないで!隼人!私は明彦のところに戻りたくない!」


明彦は顔をしかめて言い放った。「もういい加減にしろ。隼人は家族を置いて夜中にお前を迎えに来てくれたんだぞ。満足したか?お前は子どもの頃からそうやって人を振り回すんだ。」


あまりに辛辣な物言いに、隼人は驚きを隠せなかった。


「明彦……」と取りなそうとしたが、明彦は聞く耳を持たない。


彼は玲奈のスマホを取り上げ、何度か操作して見せた。「また俺の連絡先消したのか?LINEまでブロックして。玲奈、もう二十代後半だぞ。いつまで子どもみたいなことしてるんだ!」 その瞬間、隼人はなぜバーの店員が自分に連絡してきたのか理解した。


隼人は心の中でため息をつき、長年の甘やかしが玲奈をここまでにしたのかと自問した。


ぼんやりしている間に、明彦は抵抗する玲奈を乱暴に持ち上げて連れて行った。


「隼人、もう帰ってくれ。俺たちのことは自分たちで解決する。」明彦は隼人を見ることもなく、玲奈を抱えたまま車へ向かった。


長年思い続けてきた女性がこんな扱いを受けているのを見るのは、隼人にとってつらかった。


だが、これ以上関われば、さすがに友情まで壊れてしまいそうだった。


秋の夜風が冷たく、最後の迷いを吹き飛ばした。


隼人は車に乗り込み、アクセルを踏んでその場を離れた。


月島家の本邸に戻ったのは、すでに深夜二時半を回っていた。


リビングの灯りはついており、奈央は赤ん坊に授乳していた。


目が合った瞬間、空気が凍りついた。隼人はそばに寄り、小声で「見つけたよ。明彦が連れて帰った」と伝えた。


奈央は顔を上げず、「もう寝て」とだけ言って、赤ん坊を見つめ続けていた。その心はすっかり冷めきっていた。


翌朝、隼人が出勤の準備をしている頃、奈央はすでに目を覚ましていた。


だが、彼と顔を合わせたくなくて、目を閉じて眠ったふりをしていた。エンジン音が遠ざかるのを聞いて、ようやくベッドから起き上がり、ぼんやりと窓の外を眺めた。


下の階から赤ん坊の泣き声が聞こえ、彼女は洗面所へ向かった。


バスルームでふと目に入ったのは、ラックに掛けられた隼人のシャツだった――昨夜彼が着替えたものだ。


真っ白な肩口に、ファンデーションと混じった口紅の跡がくっきりと残っている。


少なくとも、抱きしめ合ったのは間違いない。さらに親密なことがあったかどうかは分からない。


奈央の口元に、自分への嘲笑が浮かんだ。


隼人は明彦の目の前で玲奈を抱きしめたのだろうか?それなのに顔に傷一つないなんて、よく無事だったものだ。いや、きっとあの人たちの世界ではこれが普通なのだろう。怒りが込み上げてくる。


彼女は、その高級なシャツを乱暴に丸め、ゴミ箱に放り込んだ。


自分にとって、それはゴミよりも汚らわしいものだった。


階下で朝食を取ろうとすると、リビングに飾られた華やかな花束がひどく目についた。


昨夜は、一瞬だけこの家が安らぎの場所になるかもしれないと夢を見てしまった。


現実は、そんな甘い幻想を容赦なく打ち砕いたのだった。


「高橋さん、その花、捨ててください。」


席に着くと、奈央は執事にそう命じた。


執事の高橋は困った顔で、「奥様、それは昨日、月島様が……」と言いかけた。


「この家で、私には物を捨てる自由すらないんですか?」


奈央は目を上げ、静かながらも一切の妥協を許さない口調で言い放った。


高橋弘はもう何も言えず、慌てて使用人に指示を出した。


その一件は、すぐに隼人の耳にも入った。


花を「ゴミ」として捨てられたと知り、彼は奈央が昨夜のことを気にしているどころではなく、怒っているのだと悟った。


明彦が「女なんてみんな細かい」と言っていたが、自分の妻も例外ではなかった。


田中が報告に来たが、隼人は上の空だった。


報告を聞き終えても黙ったまま。田中は様子を伺いながら、「社長、奥様のご機嫌はまだ……?」と遠慮がちに尋ねた。


隼人は苛立ちを隠せず、思わず口を開いた。「お前のアドバイスのせいだ。花粉症だから捨てたんだよ。」


都合よく言い訳をした。


田中は呆れたように、「社長、奥様と結婚してもう二年ですよ。花粉症なのをご存じなかったんですか?」と返した。


それは、夫としてあまりに無関心ではないかという意味だった。


隼人の顔はさらに険しくなり、田中を睨んで彼女はさっさと出た。オフィスは静まり返ったが、胸のつかえは晴れなかった。


家のこともうまくいかず、玲奈の方もどうなったか気がかりだった。以前ならすぐに電話をかけて様子を聞いただろうが、今はもう下手に踏み込むことができなかった。


すべてが狂い始めていた。


玲奈の酔った勢いでの「子どもができて奈央を好きになったのか」という問い――そんなこと、ありえない。彼女の人柄には疑問があるし、結婚生活を続けているのも、ただ小さな子どもたちのためだけだ。


子どもがもう少し大きくなったら、どんなに遅くても一年以内には、必ずこの関係に終止符を打つつもりだった。


午後三時過ぎ、玲奈から電話がかかってきた。


画面を見つめ、隼人は一瞬迷ったが、結局電話に出た。


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