そう言うと、彼は助手席のシートベルトに手を伸ばし、ゆっくりと引き寄せてくれた。
奈央はその時になって自分の勘違いに気づき、頬が一気に赤くなった。ますます落ち着かなくなり、体がこわばった。
「カチッ」と音を立ててシートベルトが固定され、奈央は密かにほっと息をついた。
てっきり隼人がすぐに車を発進させると思ったのに、意外にも彼はすぐそばにいるまま、じっと奈央を見つめていた。
奈央は身動き一つできず、やっと緩んだはずの神経が再び緊張で張りつめた。
結婚して二年、子どももできたというのに、隼人がこんなふうに真剣に奈央を見つめることはほとんどなかった。
最近になって二人の関係が少し和らいできたが、それでも隼人はなぜか奈央をじっと見つめてしまう。そして見ているうちに、彼女の姿が心に深く刻まれていった。
以前は、たとえ出張で半月家を空けても、隼人の脳裏に奈央の顔が浮かぶことなどなかった。まるで、奈央が最初から存在しなかったかのように。
しかし今では、会社でどんなに忙しくても、ふとした隙間に彼女の表情が思い浮かぶ。おとなしく、悩み、時に意地っ張りで、時に傷ついた顔――
どの表情も、隼人の心を簡単に揺さぶり、気が散ってしまった。今すぐ会いたい、何かしてあげたい、そんな衝動に駆られるのだ。
いまも、奈央のきめ細かな顔立ちと、アーモンドのような瞳に浮かぶ不安げな光を見つめていると、まるで獲物を見つめる鹿のよう――再び心が大きく動き、思わず手が伸びて、そっと彼女の頬に触れた。
突然のタッチに、奈央はまるで火傷でもしたかのように身をすくめ、細い眉を寄せた。「隼人……なに?」
この男がどうしてしまったのか、奈央には分からなかった。彼の深い瞳には、まるで愛情や未練があふれているように見えた。
そんなはず、あるわけがない。
彼の優しさも愛情も、すべて玲奈に向けられていたはず。
もしかして……また玲奈のことを思い出して、私のことを身代わりにしているんじゃないか。
玲奈が隼人の子どもを身ごもっているかもしれない――そう考えると、奈央の中の拒絶がますます強くなり、彼が返事をする前に手を振り払ってしまった。声は冷たく突き放した。「早く運転して。できるだけ早く帰りたい。子どもが泣くわ。」
隼人の中に渦巻く複雑な思いは、奈央の冷たい拒絶によって一気に消し飛んだ。彼はまばたきをし、すぐに冷静さを取り戻した。
訳の分からない苛立ちが胸の奥から湧き上がったが、これまで自分がしてきたことを思い出すと、ぐっと堪えて何も言わず、ハンドルを握って静かにエンジンをかけた。
奈央は横を向き、窓の外を見ながら、押し殺したように静かに息をついた。なんとか自分を落ち着かせようとした。
離婚を決めたはずなのに、さっきの一瞬だけは、隼人が何か説明してくれるのを期待してしまった。
でも、それも叶わなかった。
胸の奥が詰まるようで、呼吸すら苦しかった。まばたきをして、にじむ涙を無理やり追い払い、心の中で自分を叱った。「ここまできて、まだ何を期待してるの?」
彼が離婚を拒むとしても、どうせ子どもたちのため。都合のいい乳母や家政婦が欲しいだけ。
それに、きっとお義父さんとの約束や、遺産を少しでも多く分けてもらうために違いない。
絶対に、愛なんかじゃない。
彼が愛しているのは、最初から自分じゃなかった。
車の中は、終始沈黙が続いた。
隼人が意図的に冷たくしているわけではない。ただ、口を開けばまた言い争いになり、もっと雰囲気が悪くなるのが怖かった。
彼は考えていた。実家に着いて、黒幕を突き止め、自分の無実を証明できれば――奈央もきっと分かってくれるはず。そうなれば、もう離婚なんて言い出さないだろう、と。