翠はそんな奈央の様子に気づき、少し心配そうに声をかけた。
「奈央……大丈夫? 月島さん、ちゃんと説明してくれた? ケンカしてないよね?」
奈央は我に返り、静かに答えた。
「うん、特に問題ないよ」
「ならよかった。けどネットじゃ、あの人と玲奈さんが幼なじみで仲がいいとか噂されてるし…… 今こそちゃんと線引きしてもらわなきゃ」
「うん……」
奈央は上の空だった。
「遠慮しなくていいんだよ。あなたは正真正銘の奥様なんだから、もっと自信を持たないと! だって、双子まで産んでるんだし、それだけ大きな役割を果たしたんだから、彼にしっかりしてもらわなきゃ。外で浮気なんて絶対ダメだよ」
翠の言葉は正論だったが、奈央にはどこか皮肉に聞こえた。
もし自分にそんな自信があれば、隼人はとっくに玲奈と縁を切っていたはずだし、そもそもこんなスキャンダルも起きなかっただろう。
本当は親友にまで隠しておきたかった。こんな話は、傷口を自分で広げるようなものだから。
けれど、離婚や部屋探し、仕事探しなど、すべてを自分一人で進めるのは難しい。
翠の夫は弁護士だから、離婚のことでもきっと力になってくれるはずだ。
しばらく考えた後、奈央は意を決して言った。
「私、離婚するつもり。でも隼人が応じてくれないから、必要なら法的手段を取ることになるかも。翠、あなたの旦那さんに弁護士を紹介してもらえる?」
「離婚……?」
翠はあまりのことに声が震えた。しばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。
「ど、どうして?さっきまで夫婦仲は悪くないって言ってたじゃない。喧嘩もしてないのに、なんで急に離婚なんて……」
「今は詳しく話したくないんだけど、お願いがあるの。旦那さんに相談してもらえないかな。できれば、弁護士さんと一度会って話したいの。」
翠は慌てて声を上げた。「奈央、離婚は簡単なことじゃないよ。子どもも二人いるんだし、もう少し考えてみて!」
同じ母親として、子どもの存在がどれほど大きいかは痛いほど分かっている。
離婚そのものは決意できても、子どもを置いていく痛みは、きっと一生消えない。
「分かってる。私は本気だよ。細かいことは、また会ったときに話すね……」
ちょうどその時、子どもの泣き声が電話越しに聞こえてきた。奈央はそれを口実に電話を切った。
ようやく一歩を踏み出したその瞬間、不思議と心が少し軽くなった。長い間膿んでいた傷をようやく絞り出したような、痛みと同時に安堵が広がった。
午後、奈央は書斎で簡単な離婚協議書を書き上げた。
内容は至ってシンプル。財産は一切いらない、子どもも連れて行かない。ただ、週に一度は子どもと会わせてほしい――それだけだった。
本当は子どもと離れたくない。でも、今の彼女にはどうしても連れていく力がない。
それに、隼人が許すはずもない。もし裁判になっても、収入のない自分に親権が渡るとは思えなかった。
だから、せめて週に一度会えれば、それだけで十分だと自分に言い聞かせた。
いつか仕事を見つけて生活が安定したら、もっと子どもと過ごせるようにしたい。今はそれが精一杯だった。
夕方、隼人が仕事から帰ってきた。
奈央は部屋で待っていた。机の上には二通の離婚協議書。何度も頭の中で切り出し方を練習しながら、落ち着かない気持ちを抑えていた。
ところが、隼人は家に入らず、そのまま車から電話をかけてきた。
「下に降りてきてくれ。今から本家に行く。大事な話がある。」
低く真剣な声が、奈央の不安をさらにかき立てた。
本家に……?
大事な話って……?
思わず身構えて、「どうして?行かないとダメなの?」と聞き返した。
「うん。」
本当なら叔母や従妹を呼び寄せるだけでもいい。でも、それだけでは月島家の他の者たちに十分な示しがつかない。
本家で事を片付けることで、誰にも逆らえない威厳を示したい――そんな思いが隼人にはあった。
「三分待つ。それまでに降りてこなければ、俺が迎えに行く。」
そう言い放ち、電話を切った。
奈央はしばらく鳴り続けるスマホを見つめ、唇をかみしめた。仕方なく離婚協議書を引き出しにしまい、着替えて階段を下りた。
運転手がいると思い込んで後部座席に向かった奈央に、運転席の隼人が声をかけた。
「前に座れ。俺は運転手じゃない。」
奈央は気まずそうに座り直した。
心ここにあらずで、シートベルトを締めるのも忘れていた。
隼人はじっと奈央を見つめていた。言いたいことが喉元まで込み上げているのに、何も言えず、ただその目に複雑な思いが滲んでいた。
突然、彼が身を乗り出して手を伸ばした。
「きゃっ……!」奈央は思わず身を引いた。
隼人はその反応に呆れたように言った。「何をそんなに怖がってるんだ。別に食い付いたりしないよ。」