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第34話 俺は運転手じゃない

翠はそんな奈央の様子に気づき、少し心配そうに声をかけた。

「奈央……大丈夫? 月島さん、ちゃんと説明してくれた? ケンカしてないよね?」


奈央は我に返り、静かに答えた。

「うん、特に問題ないよ」


「ならよかった。けどネットじゃ、あの人と玲奈さんが幼なじみで仲がいいとか噂されてるし…… 今こそちゃんと線引きしてもらわなきゃ」


「うん……」

奈央は上の空だった。


「遠慮しなくていいんだよ。あなたは正真正銘の奥様なんだから、もっと自信を持たないと! だって、双子まで産んでるんだし、それだけ大きな役割を果たしたんだから、彼にしっかりしてもらわなきゃ。外で浮気なんて絶対ダメだよ」


翠の言葉は正論だったが、奈央にはどこか皮肉に聞こえた。


もし自分にそんな自信があれば、隼人はとっくに玲奈と縁を切っていたはずだし、そもそもこんなスキャンダルも起きなかっただろう。


本当は親友にまで隠しておきたかった。こんな話は、傷口を自分で広げるようなものだから。


けれど、離婚や部屋探し、仕事探しなど、すべてを自分一人で進めるのは難しい。


翠の夫は弁護士だから、離婚のことでもきっと力になってくれるはずだ。


しばらく考えた後、奈央は意を決して言った。


「私、離婚するつもり。でも隼人が応じてくれないから、必要なら法的手段を取ることになるかも。翠、あなたの旦那さんに弁護士を紹介してもらえる?」


「離婚……?」

翠はあまりのことに声が震えた。しばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。


「ど、どうして?さっきまで夫婦仲は悪くないって言ってたじゃない。喧嘩もしてないのに、なんで急に離婚なんて……」


「今は詳しく話したくないんだけど、お願いがあるの。旦那さんに相談してもらえないかな。できれば、弁護士さんと一度会って話したいの。」


翠は慌てて声を上げた。「奈央、離婚は簡単なことじゃないよ。子どもも二人いるんだし、もう少し考えてみて!」


同じ母親として、子どもの存在がどれほど大きいかは痛いほど分かっている。


離婚そのものは決意できても、子どもを置いていく痛みは、きっと一生消えない。


「分かってる。私は本気だよ。細かいことは、また会ったときに話すね……」


ちょうどその時、子どもの泣き声が電話越しに聞こえてきた。奈央はそれを口実に電話を切った。


ようやく一歩を踏み出したその瞬間、不思議と心が少し軽くなった。長い間膿んでいた傷をようやく絞り出したような、痛みと同時に安堵が広がった。


午後、奈央は書斎で簡単な離婚協議書を書き上げた。


内容は至ってシンプル。財産は一切いらない、子どもも連れて行かない。ただ、週に一度は子どもと会わせてほしい――それだけだった。


本当は子どもと離れたくない。でも、今の彼女にはどうしても連れていく力がない。


それに、隼人が許すはずもない。もし裁判になっても、収入のない自分に親権が渡るとは思えなかった。


だから、せめて週に一度会えれば、それだけで十分だと自分に言い聞かせた。


いつか仕事を見つけて生活が安定したら、もっと子どもと過ごせるようにしたい。今はそれが精一杯だった。


夕方、隼人が仕事から帰ってきた。


奈央は部屋で待っていた。机の上には二通の離婚協議書。何度も頭の中で切り出し方を練習しながら、落ち着かない気持ちを抑えていた。


ところが、隼人は家に入らず、そのまま車から電話をかけてきた。


「下に降りてきてくれ。今から本家に行く。大事な話がある。」


低く真剣な声が、奈央の不安をさらにかき立てた。


本家に……?

大事な話って……?


思わず身構えて、「どうして?行かないとダメなの?」と聞き返した。


「うん。」


本当なら叔母や従妹を呼び寄せるだけでもいい。でも、それだけでは月島家の他の者たちに十分な示しがつかない。


本家で事を片付けることで、誰にも逆らえない威厳を示したい――そんな思いが隼人にはあった。


「三分待つ。それまでに降りてこなければ、俺が迎えに行く。」


そう言い放ち、電話を切った。


奈央はしばらく鳴り続けるスマホを見つめ、唇をかみしめた。仕方なく離婚協議書を引き出しにしまい、着替えて階段を下りた。


運転手がいると思い込んで後部座席に向かった奈央に、運転席の隼人が声をかけた。


「前に座れ。俺は運転手じゃない。」


奈央は気まずそうに座り直した。


心ここにあらずで、シートベルトを締めるのも忘れていた。


隼人はじっと奈央を見つめていた。言いたいことが喉元まで込み上げているのに、何も言えず、ただその目に複雑な思いが滲んでいた。


突然、彼が身を乗り出して手を伸ばした。


「きゃっ……!」奈央は思わず身を引いた。


隼人はその反応に呆れたように言った。「何をそんなに怖がってるんだ。別に食い付いたりしないよ。」

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