東京の十月。
昼間の蒸し暑さがまだしぶとく残っていて、ほんのり秋らしさを感じられるのは早朝の涼しい風だけだった。
芦田有咲は、夜が明ける前から起き出していた。
静かにリビングに散らばったおもちゃを片付け、丁寧に床を拭き上げ、朝食をきちんとテーブルに並べる。
すべてを終えてから、テーブルの上にあった温かいおにぎりを二つ手に取る。最後にもう一度、お姉ちゃんの家の閉ざされたドアを見て、そっと玄関のドアを閉めた。
「これからは全部割り勘だからね!生活費も、ローンも、一円たりともごまかせないよ!妹もここに住むなら、ちゃんと半分負担してもらうから!月に四万円で何になるの?タダみたいなもんだろ!」
昨夜、お姉ちゃんと義兄が口論していた時、義兄が放った言葉が有咲の耳に残っていた。
このままでは、お姉ちゃんの暮らしはますます落ち着かなくなる。
出ていくしか道はない。でも、お姉ちゃんに心配をかけたくない。
となれば……結婚するしかない。
短期間で結婚相手なんて、どこで見つければいいのだろう。
佐藤おばあさんの頼みで、結婚に苦労している孫・佐藤司と結婚することを引き受けるしかなかった。
バス停まで歩いていくと、ちょうどバスが停まった。
有咲は路線を確かめ、区役所行きだと分かると、閉まりかけるドアに急いで駆け込んだ。
窓側の席に座って車窓を眺めると、東京の高層ビルが朝日に照らされ、冷たく忙しない雰囲気を漂わせていた。
二十分ほどで、バスは区役所の前に到着した。
有咲がバスを降りると、聞き覚えのある明るい声がした。
「有咲ちゃん、こっちよ!」
佐藤おばあさんだった。
彼女の隣には、背の高い男性が立っている。仕立ての良いダークスーツに身を包み、どこか冷たい雰囲気で、目つきも鋭い。
この人が佐藤司なのだろう。
有咲が近づき、顔をはっきりと見た瞬間、心の中で少し身構えた。
佐藤おばあさんは、司が三十歳で大企業の管理職をしているのに、いまだに彼女ができないと、よく有咲に愚痴っていた。
話を聞く限り、仕事ばかりで冴えないか、もしくは見た目がイマイチなのかと想像していた。
条件の良い男性が独身なのは、理想が高すぎるか、何か難があるかだと思っていたからだ。
でも、目の前の司は、背筋が伸びていて顔立ちも整っている。ただ、表情が硬く、唇を引き結び、近寄り難い雰囲気をまとっていた。
確かに格好いいけれど、その冷たい空気感に、思わず距離を取りたくなる。
少し離れた場所に、黒いセダンが一台停まっていた。特別目立つ高級車ではない。
それだけで、有咲は少し安心した。彼との距離がそれほど遠くない気がしたからだ。
有咲がお姉ちゃんの家に住んでいるのは、決して自立できないからではない。
彼女は大学の同級生と一緒に、東京の有名大学の近くで文房具と書籍の店を営んでいる。
暇な時は、手作りの小物をネットで売り、こちらも好評だった。
経費を引いて、ネットの売り上げも合わせれば、月に四十万円以上は安定して稼げていた。
そのくらいの収入があれば、東京で十分にやっていける。
義兄はそのことを知らず、文房具店はなんとか食いつないでいるだけだと思い込んでいるから、何かと文句を言うのだ。
有咲は毎月十万円をお姉ちゃんに渡していたが、半分はお姉ちゃんに貯金させていた。
お姉ちゃんは「もっと自分のために使いなさい。将来のために貯金して、小さな家でも買ったほうがいい」と有咲に何度も言った。
佐藤おばあさんは、有咲の手をしっかり握り、隣で無愛想な孫の肩を軽く叩いた。
「これがうちの孫、佐藤司だよ。ちょっと冷たそうに見えるかもしれないけど、気が利くし優しい子なんだよ!あなたはおばあさんの命の恩人だし、ここ数ヶ月で色々分かったから、絶対に変な子は紹介しないよ。孫がダメだったら、あなたに押しつけたりしないからね!」
司はおばあさんの"売り込み"を聞きながら、有咲を冷静な目で見つめていた。その視線はどこか無表情で、何も語らない。
おばあさんに日頃から色々言われ慣れているのだろう、もう気にしていない様子だ。
有咲は、佐藤家には三人の息子と九人の孫がいるが、女の子は一人もいないことを知っていた。
三ヶ月前、おばあさんが外で転んだ時、有咲が病院まで送り届けた。それがきっかけで親しくなり、おばあさんは有咲を本当の孫のように可愛がってくれた。
こんな状況に、有咲は少し頬を赤らめながらも、落ち着いて司に手を差し出した。
「はじめまして、芦田有咲です。」
司はその手をじっと見つめ、一瞬だけ全身をさりげなく観察するような目線を送った。
おばあさんが軽く咳払いすると、渋々といった様子で右手を差し出し、軽く握手する。
手はひんやりしていて、低い声で淡々と名乗った。
「佐藤司です。」
握手を終えると、腕時計を見て、端的に言った。
「忙しいので、できるだけ早く済ませましょう。」
有咲はうなずいた。
「はい。」
おばあさんが慌てて口を挟む。
「二人とも、早く手続きしてきなさい。おばあさんはここで待ってるから!」
「おばあさんは、車で待っててください。外は暑いですから。」
司は有無を言わせない口調で、おばあさんを車まで丁寧にエスコートした。
有咲は、その姿を見て、おばあさんが言っていた「気が利く」という言葉に納得した。
彼とはほとんど赤の他人だが、佐藤おばあさんによれば、司の名義でマンションも持っているらしい。
彼と結婚すれば、堂々とお姉ちゃんの家を出られる。お姉ちゃんも安心して、もう自分のことで義兄と揉めなくて済む。
自分の結婚なんて、所詮は一緒に生活するための手段にすぎない。
司はおばあさんを車に乗せると、すぐに戻ってきた。
「行きましょう。」そう言って、有咲を促す。
有咲は静かに彼について、区役所の中に入った。
婚姻届のカウンターで、職員が書類を差し出す。
司はペンを手に取り、少しだけ動きを止めて有咲に目を向けた。
「芦田さん、」
控えめだがはっきりとした声で言う。
「今なら、まだやめることもできます。おばあさんのために無理をしなくていいです。結婚は遊びじゃありません。」
彼は、本当は有咲に断ってほしいのだ。
そもそも結婚する気などなかったし、今日初めて会う女性と結婚など、到底受け入れられなかった。
有咲は、おばあさんの話通り、若くて、きれいで、どこか知的な雰囲気があった。
でも、二人は見知らぬ他人なのだ。
子どもの頃、共働きの両親に代わって司を育ててくれたのはおばあさんだった。だからこそ、おばあさんの頼みを断れず、今日ここに来た。
有咲はペンを手に取り、冷たい感触に一瞬とどまりながらも、まっすぐに司を見つめて静かに言った。
「約束した以上、私は後悔しません。」
有咲も、何日も考えた末に出した答えだ。決めたからには、もう迷いはなかった。