激しい交わりのあと、
強く、まるで彼女を自分の身体の中に閉じ込めようとするかのように。
羽菜の身体は彼の腕の中で溶けそうだった。
胸の奥に、妙なときめきと高揚感、そしてほんの少しの切なさが混じる。
――結婚して、三年。
こんなふうに抱きしめられたのは、初めてだった。
愛されてる、そんな気がした。
羽菜はそっと身体をひねって彼に向き合い、力いっぱい抱きしめ返す。
微笑みながら、この瞬間こそがすべてのように感じた。
ふたりはしばらくそのまま、じっと抱き合っていた。
やがて、智也はゆっくり彼女を離すと、服を身につけ、引き出しからタバコを取り出す。
一本を取り出して火をつけ、深く吸い込んだ。
白い煙が漂い、彼の整った顔立ちをぼやけさせる。
何を考えているのか、その表情は読み取れなかった。
タバコは指先まで燃え尽きそうなのに、彼はまったく気づいていない。
羽菜が咳払いをひとつ。
「……タバコ、やめたんじゃなかったの?」
智也は煙をもみ消し、じっと彼女の目を見つめた。
そして、数秒の沈黙のあと――
「羽菜、離婚しよう」
青天の霹靂だった。
彼女の全身が凍りつく。
熱かった心が、瞬く間に冷え切った。
「わたし……なにか悪いことでもした?」
唇が震える。声もかすれた。
「ううん」
「じゃあ……なんで?」
「玲奈が、戻ってきたんだ。……ごめん」
彼の元カノ――。
刃物で心臓を刺されたようだった。
三年間。
朝も夜も、一緒に過ごしてきた。何気ない日々を分け合ってきた。
それでも、あの女には敵わなかった。
愛されていなかった。
悔しさ、惨めさ、どうしようもない悲しみが、波のように押し寄せる。
羽菜は唇を噛みしめた。
全身が強張り、手が震えながら服を着て、ベッドから下りようとした。
智也が彼女の肩を押さえた。
「どこに行く?」
「朝ごはん……作ろうと思って」
「いつも君が作ってくれてるんだ、今日は俺がやるよ。……もう少し、寝てていいよ」
彼の声は、低くて優しかった。
「うん……」
羽菜は小さく頷いて、布団を引き寄せて目元を隠す。
彼が部屋を出ていったのを見計らって、彼女はベッドから飛び起きて、洗面所に駆け込んだ。
そして、声を殺して泣き崩れた。
涙が止まらない。切れた糸のように次から次へとあふれてくる。
こんなにも痛いとは、知らなかった。
愛するって、心をえぐられるようなことなんだ。
身体を支えるのもやっとで、壁に寄りかかって、嗚咽がこみ上げる。
どれくらい泣いていたのか――階下から、彼が呼ぶ声が聞こえた。
「羽菜、ごはんできたよ」
「……うん」
冷たい水で何度も顔を洗う。
でも、どれだけ洗っても、目は真っ赤に腫れて、泣き腫らした跡が消えない。
階下に降りると、智也はダイニングで待っていた。
ビシッと決まった高級スーツに身を包み、背の高い彼は、それだけで舞台のスポットライトを浴びているかのように輝いていた。
羽菜は黙って席につく。
彼は少しかがんで、彼女の目を見て、ふわりとした声で言った。
「泣いた?」
羽菜は顔を上げて、無理やり笑ってみせる。
「洗顔、目に入っちゃって……すぐ治るよ」
彼は隣に座り、箸を渡してきた。
羽菜はそれを受け取り、視線を落とす。彼の指先が、箸に添えられている。
温かな朝食の香りが広がるけれど――
ふたりとも、箸をつけなかった。
これほどまでに、苦しい朝食はなかった。
三十分後――食事は手つかずのまま。
羽菜はそっと箸を置いて、テーブルに手をかけて立ち上がった。
「荷物、まとめてくるね」
智也の手が、箸を握ったまま小さく震えた。
「……急がなくていいよ」
「もう十分、引き延ばしたから」
そう言って、羽菜は踵を返し、二階へ上がっていった。
ひとつひとつ、私物をスーツケースに詰めていく。
その作業は、永遠のように長く感じられた。
最後に、カチリとファスナーを閉じて、階下へ降りる。
智也が出迎えにくる。
「持つよ」
「……大丈夫」
彼女は真っ直ぐ前を向き、スーツケースを引いて玄関へ向かった。
庭に咲く草花。
揺れる木々。どれも見慣れた光景――
けれど、もう二度と戻ることはない。
人の心は草木と違う。
愛せば、離れるのがつらくなる。
三年間。
日々積み重ねてきた想いは、全部彼女ひとりのものだった。
あんなに愛した。燃えるように、そして穏やかに。
情熱も、絆もあった。なのに。
――意味、なかったんだ。
……もう、手放そう。
扉の前まで来ると、外には車が待っていた。
智也は、ポケットから一枚の小切手を取り出して差し出す。
「三年間、ありがとう」
羽菜は受け取るか迷って、動けなかった。
智也はそれを無理やりスーツケースに差し込む。
「持っておいて。……これから、何かとお金もいるから」
「……うん」
羽菜は乾いた声で答えた。
彼の美しい唇。
高い鼻筋。
整った目元――
じっと見つめて、焼きつけるように心に刻んだ。
思い出す。
ベッドの上、彼の瞳が自分の瞳を覆い尽くしたあの瞬間。
――あれが、星空だった。
苦しくて、胸が裂けそうだった。
きっと、いつか……彼を忘れられる日が来る。
三年後?十年後?
それとも、一生かかるのかもしれない。
愛するのは簡単。忘れるのは、難しい。
智也が、彼女をしばらく見つめたあと――
いきなり、強く抱きしめてきた。
表情は静か。でもその奥にある瞳は、大きく波打っていた。
「これから一人で大変だろうけど、……困ったことがあったら、いつでも連絡して」
涙がこみ上げる。けれど、飲み込む。
「……わかった」
「ここ二年、体調が悪くて、八つ当たりも多かった……ごめん」
「……いいの」
「元気でいて」
「あなたも……ね」
羽菜はゆっくりと、彼を抱き返した。
まるで、永遠の別れを覚悟するように。
そして――突然、彼を突き放す。
顔をぬぐい、スーツケースを引いて、振り返らずに歩き出す。
何歩か進んだそのとき――
「……司って、誰?」
足が止まる。心が震える。
封印していた記憶が、雪崩れのように押し寄せてきた。
「その人、大事なんだろ?三年間、君を独り占めしてごめん。……幸せになって」
智也の声が、優しくも残酷に響いた。