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第2話 修復士


桐谷羽菜の心の中は、言葉にできないほど複雑だった。


どう返事をすればいいのか、わからない。


ゆっくりと振り返り、桐谷智也を見つめる。

彼は簡単に笑顔を出さない。

けれど――

笑ったときは、本当に美しい。


春風がそっと頬をなでていくような優しさ。

黒く澄んだ瞳は、星空のようにきらめいていた。


もうすぐ、想い人と一緒になれる――彼は、きっと幸せなはずだ。


羽菜も、笑った。

それは、心が粉々に砕けたあとの、どうしようもない笑みだった。


「……あなたも、幸せになってね」


そう言って彼に背を向け、車に乗り込む。

ドアが閉まった瞬間、涙が溢れた。

新しい傷と、古い痛み。

すべてが重なって、胸が張り裂けそうだった。


運転席の佐藤秀樹が、無言でスーツケースをトランクに積み、エンジンをかけた。



涼宮家に戻ると、羽菜はスーツケースを引きながら玄関に入った。


母・涼宮由美子は彼女の腫れた目元と、手にしたスーツケースを見て、目を丸くした。


「……どうしたのよあんた、それ…」


羽菜は下を向いて靴を履き替えながら、できるだけ平静を装う。


「……お母さん、今日からしばらくここで暮らすね」


「えっ!? 智也さんと別居するってこと!?」


「うん……元カノが戻ってきたんだって」


その言葉を聞いた瞬間、由美子は怒りで顔を真っ赤にした。


「はあ!? 三年前、あの桐谷智也が事故にあって、もう一生車椅子って言われたとき……

 あの女逃げたんじゃない!

 逆にあんたは!? 国内外、あちこち病院まわって、リハビリ手伝って、マッサージもして、看護師みたいに世話して……夜も寝ずに尽くしてたじゃない!

 それなのに、元カノが戻ってきたら、あんたを捨てるって? バカにしてんの!?目、節穴かっての!」


羽菜は静かにスーツケースを開け、中から一枚の小切手を取り出して、母の手に押し込んだ。


「彼がくれた、お別れの補償」


由美子は小切手を見て、目を見開いた。

ゼロが――

……八つもある!


少しだけ怒りの温度が下がったようだった。


「……いや、金の問題じゃないのよ。金があれば何でも許されるってわけじゃないんだから!」


羽菜は伏し目がちに、静かに答えた。


「でも……離婚した夫が一銭も払わないなんて、よくある話。財産分けたくなくて、妻を殺す男もいるくらい。……そう思えば、智也はまだましな方かもしれない」


「でも……あんた、それで気が済むの?」


羽菜はかすかに笑った。けれど、それは苦笑だった。


「気が済まないからって、泣きわめいたり騒いだりしても、意味ないでしょ?

 彼の心にもう私なんかいないの。無理に繋ぎとめても無意味だよ。

 …もういい、ちょっと眠いかも」


羽菜は、ふらりと自室へ入っていった。


そして――

そのまま、二日二晩、眠り続けた。


心配した由美子は、何度も部屋に入ってきて、彼女の呼吸を確認した。


実際、羽菜はあまり眠れていなかった。

ただ、身体が重くて起き上がれなかった。

お腹も空かず、全身がだるく、胸の奥にはぽっかりと空洞があった。


三日目、ようやく羽菜は身体を起こした。


顔を洗い、髪を整えたあと――

桐谷智也に電話をかけた。


「……離婚届、もう準備できた? いつ手続きに行く?」


智也は、少しの沈黙のあと答えた。

「今出張中なんだ。戻ったら改めて話そう」


「わかった。……今日から仕事に行くから、行くときには連絡して」


「もう仕事決まったの? どこ?」


「古宝修復工房。前から誘われてたの」


「無理はするなよ。お金が必要なら、いつでも言ってくれ」


その声は、まるで月明かりのように、静かで優しい。

一瞬、胸が締めつけられた。


「……大丈夫。ありがとう」


朝食を済ませ、羽菜は古宝修復工房へ向かった。


迎えてくれたのは、若き当主――月城悠真つきしろ ゆうま

淡いブルーのシャツに、ベージュのパンツ。

すらりとした体つきと、穏やかな微笑み。


まずはスタッフたちに羽菜を紹介し、それから上階の修復室へ案内する。


「高橋さん、こちらが“修復の神”と呼ばれた森先生の弟子、桐谷羽菜さんです。


彼女は古美術品の修復が一番得意そうで、これから、うちの修復士としてお世話になります」


六十歳くらいの鑑定士――高橋茂明は、老眼鏡越しに羽菜をじろじろと見た。


――二十歳そこそこの娘が、修復士? 冗談だろう。


この年頃じゃ、まだ見習いが関の山だ。


「…わかった」とまで言う始末。内心、納得できるはずもない。


月城が立ち去ると、高橋がすぐに声をかけてきた。


「桐谷くん、君、相当若いけど、何年この業界に?」


羽菜はあくまで穏やかに、微笑みながら答えた。


「十年以上になります」

「ほう……君、かなり若く見えるが」

「もう二十三歳なんです」


高橋は鼻で笑った。

――ほらきた。ハッタリかましやがって。

いいさ、いずれ恥をかくのは自分だ。


ちょうどその時、受付の者がやってきた。


「お客さんが修復依頼を持ち込まれました」


高橋と羽菜は階下へ降りていく。

そこには三十代の男性が、ボロボロの古い絵画を手にして立っていた。


高橋が一目見て、すぐに口元を歪めた。

――こんなの、もはや絵画と呼べない。


真っ黒、ヨレヨレ、虫食いだらけ……国家級レベルの修復家でも厳しい案件だ。


彼はニヤリと羽菜を見る。


「さあ、桐谷くん。みんな見てるから、期待に応えないとね?」


羽菜はその絵を手に取り、慎重に何度も眺めた。

そして、真っ直ぐに依頼人へ告げた。


「修復可能です」


「本当ですか!? ……誰が修復するの? どれくらいかかる?」


「わたしがやります。三日で仕上げます」


「君が? ……たった三日で?」


男は、二十代そこそこの彼女をまじまじと見つめた。疑いの目は隠せない。


「……これ、“墨心流四大家”の一人、荻野先生の真筆なんだよ!?

 オークションなら億単位の価値がある。ヘタにいじって壊されたら……!」


周囲もざわついた。

三日!? ――大口叩きすぎじゃないか?


高橋はわざとらしくため息をついた。


「まあまあ、若いってのはいいことだ。勢いもあるし、怖いもの知らずで……でもなぁ。

 この程度の損傷、トップの修復家でも数ヶ月、場合によっちゃ年単位かかる。無理するなって」


――つまり「身の程を知れ」ってことだ。


羽菜は、静かに、だが揺るがない声で答えた。


「三日で終わります。もし壊したら、市場価格の二倍で弁償します」


客はそれを聞いて、逆に喜んだ。

――元々修復して儲けたいと思っていたから、保証までつくなら話が早い!


契約書にサインを終え、金額の確認も済んだ頃――

桐谷羽菜は、手に古画を抱えて階上の修復室へと向かった。


扉を押し開けると、室内には腰ほどの高さがある木製テーブルが二台、並べて置かれていた。


刷毛、絵具、竹べら、切出刀、和紙など、修復作業に必要な道具が、整然と揃っている。


古画の修復作業には、大きく分けて「洗・剥・補・固」の四つの工程がある。


羽菜はお湯を沸かすようスタッフに頼み、温まった湯を含ませた刷毛を用いて、慎重に古画を“洗い”始めた。


そして刷く――神経を張りつめるような作業。

汚れを落としつつも、繊細な紙の繊維を痛めないよう、水の加減や力には最大限の注意を払う。


言葉で言えば簡単だが、実際にやるとなると至難の業だ。

けれど彼女は、幼い頃から祖父の傍で古画修復に携わってきた。

この手の作業は、すでに身体に染みついている。


桐谷智也の祖父母もまた骨董収集に熱心で、彼らの所蔵品を長年にわたり修復してきた。

経験の蓄積が、羽菜の指先に宿っている。


この程度の古画など、もっと傷みの激しい、もっと古い画を手がけた経験さえある。


納期も迫っていたため、羽菜はその数日間、文字通り息つく暇もなく修復作業に没頭した。


……忙しいのは、悪くない。


忙しくしていれば、一時でも桐谷智也のことを考えずに済む。

悲しみさえ、どこかへ流れていってしまう気がした。


三日後――


依頼主が古画を受け取りに来た。

羽菜は、修復を終えた古画を丁寧に布に包み、一階まで運んでくる。


古画を目にしたその客は、しばらく言葉を失っていた。


「……これ、本当に俺が持ってきた絵? もしかして、すり替えたんじゃないの?」


高橋、店長、そしてスタッフたちも集まってきて、思わず目を見張った。


画面には、重なり合う山並みが立体的に描かれ、険しい峰々と、山間に茂る木々の鮮やかさ。

それはまるで、今にも風に揺れそうなほど生き生きとしていて――


あの、ボロ雑巾のように破れ、ほとんど絵柄も見えなかった画とは、まったく別物にしか見えなかった。


羽菜は静かに言った。

「鑑定をご希望でしたら、お受けします」


調査の結果、確かに元の画であると証明され、依頼主は目を見開いた。


「すごい……本当にありがとうございました!」


そのまま料金を支払い、満足そうに絵を持ち帰っていった。


こうして、「古宝に凄腕の若い女性修復家がいる」という噂が、あっという間に街中に広まった。


まだ二十代前半という若さで、

その腕前は国宝級修復家に匹敵する――


そんな評判が、骨董街のあちこちで囁かれるようになった。


夕暮れ時。

桐谷智也から電話がかかってきた。


「今、工房の前に車を停めてる。出てきてくれる?」


その声を聞いた瞬間――

羽菜の胸が、ドクンと痛みを伴って跳ねた。


腕時計に目を落とし、小さく息を整える。


「もうすぐ日が暮れるし……今からじゃ間に合わないと思う。明日の朝にしない?」


智也は一瞬、黙り込んだ。

そしてこう言った。


「……ばあちゃんが、どうしても俺たちに会いたいって言ってる。“大事な話”があるそうだ」

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