桐谷羽菜の心の中は、言葉にできないほど複雑だった。
どう返事をすればいいのか、わからない。
ゆっくりと振り返り、桐谷智也を見つめる。
彼は簡単に笑顔を出さない。
けれど――
笑ったときは、本当に美しい。
春風がそっと頬をなでていくような優しさ。
黒く澄んだ瞳は、星空のようにきらめいていた。
もうすぐ、想い人と一緒になれる――彼は、きっと幸せなはずだ。
羽菜も、笑った。
それは、心が粉々に砕けたあとの、どうしようもない笑みだった。
「……あなたも、幸せになってね」
そう言って彼に背を向け、車に乗り込む。
ドアが閉まった瞬間、涙が溢れた。
新しい傷と、古い痛み。
すべてが重なって、胸が張り裂けそうだった。
運転席の佐藤秀樹が、無言でスーツケースをトランクに積み、エンジンをかけた。
涼宮家に戻ると、羽菜はスーツケースを引きながら玄関に入った。
母・涼宮由美子は彼女の腫れた目元と、手にしたスーツケースを見て、目を丸くした。
「……どうしたのよあんた、それ…」
羽菜は下を向いて靴を履き替えながら、できるだけ平静を装う。
「……お母さん、今日からしばらくここで暮らすね」
「えっ!? 智也さんと別居するってこと!?」
「うん……元カノが戻ってきたんだって」
その言葉を聞いた瞬間、由美子は怒りで顔を真っ赤にした。
「はあ!? 三年前、あの桐谷智也が事故にあって、もう一生車椅子って言われたとき……
あの女逃げたんじゃない!
逆にあんたは!? 国内外、あちこち病院まわって、リハビリ手伝って、マッサージもして、看護師みたいに世話して……夜も寝ずに尽くしてたじゃない!
それなのに、元カノが戻ってきたら、あんたを捨てるって? バカにしてんの!?目、節穴かっての!」
羽菜は静かにスーツケースを開け、中から一枚の小切手を取り出して、母の手に押し込んだ。
「彼がくれた、お別れの補償」
由美子は小切手を見て、目を見開いた。
ゼロが――
……八つもある!
少しだけ怒りの温度が下がったようだった。
「……いや、金の問題じゃないのよ。金があれば何でも許されるってわけじゃないんだから!」
羽菜は伏し目がちに、静かに答えた。
「でも……離婚した夫が一銭も払わないなんて、よくある話。財産分けたくなくて、妻を殺す男もいるくらい。……そう思えば、智也はまだましな方かもしれない」
「でも……あんた、それで気が済むの?」
羽菜はかすかに笑った。けれど、それは苦笑だった。
「気が済まないからって、泣きわめいたり騒いだりしても、意味ないでしょ?
彼の心にもう私なんかいないの。無理に繋ぎとめても無意味だよ。
…もういい、ちょっと眠いかも」
羽菜は、ふらりと自室へ入っていった。
そして――
そのまま、二日二晩、眠り続けた。
心配した由美子は、何度も部屋に入ってきて、彼女の呼吸を確認した。
実際、羽菜はあまり眠れていなかった。
ただ、身体が重くて起き上がれなかった。
お腹も空かず、全身がだるく、胸の奥にはぽっかりと空洞があった。
三日目、ようやく羽菜は身体を起こした。
顔を洗い、髪を整えたあと――
桐谷智也に電話をかけた。
「……離婚届、もう準備できた? いつ手続きに行く?」
智也は、少しの沈黙のあと答えた。
「今出張中なんだ。戻ったら改めて話そう」
「わかった。……今日から仕事に行くから、行くときには連絡して」
「もう仕事決まったの? どこ?」
「古宝修復工房。前から誘われてたの」
「無理はするなよ。お金が必要なら、いつでも言ってくれ」
その声は、まるで月明かりのように、静かで優しい。
一瞬、胸が締めつけられた。
「……大丈夫。ありがとう」
朝食を済ませ、羽菜は古宝修復工房へ向かった。
迎えてくれたのは、若き当主――
淡いブルーのシャツに、ベージュのパンツ。
すらりとした体つきと、穏やかな微笑み。
まずはスタッフたちに羽菜を紹介し、それから上階の修復室へ案内する。
「高橋さん、こちらが“修復の神”と呼ばれた森先生の弟子、桐谷羽菜さんです。
彼女は古美術品の修復が一番得意そうで、これから、うちの修復士としてお世話になります」
六十歳くらいの鑑定士――高橋茂明は、老眼鏡越しに羽菜をじろじろと見た。
――二十歳そこそこの娘が、修復士? 冗談だろう。
この年頃じゃ、まだ見習いが関の山だ。
「…わかった」とまで言う始末。内心、納得できるはずもない。
月城が立ち去ると、高橋がすぐに声をかけてきた。
「桐谷くん、君、相当若いけど、何年この業界に?」
羽菜はあくまで穏やかに、微笑みながら答えた。
「十年以上になります」
「ほう……君、かなり若く見えるが」
「もう二十三歳なんです」
高橋は鼻で笑った。
――ほらきた。ハッタリかましやがって。
いいさ、いずれ恥をかくのは自分だ。
ちょうどその時、受付の者がやってきた。
「お客さんが修復依頼を持ち込まれました」
高橋と羽菜は階下へ降りていく。
そこには三十代の男性が、ボロボロの古い絵画を手にして立っていた。
高橋が一目見て、すぐに口元を歪めた。
――こんなの、もはや絵画と呼べない。
真っ黒、ヨレヨレ、虫食いだらけ……国家級レベルの修復家でも厳しい案件だ。
彼はニヤリと羽菜を見る。
「さあ、桐谷くん。みんな見てるから、期待に応えないとね?」
羽菜はその絵を手に取り、慎重に何度も眺めた。
そして、真っ直ぐに依頼人へ告げた。
「修復可能です」
「本当ですか!? ……誰が修復するの? どれくらいかかる?」
「わたしがやります。三日で仕上げます」
「君が? ……たった三日で?」
男は、二十代そこそこの彼女をまじまじと見つめた。疑いの目は隠せない。
「……これ、“墨心流四大家”の一人、荻野先生の真筆なんだよ!?
オークションなら億単位の価値がある。ヘタにいじって壊されたら……!」
周囲もざわついた。
三日!? ――大口叩きすぎじゃないか?
高橋はわざとらしくため息をついた。
「まあまあ、若いってのはいいことだ。勢いもあるし、怖いもの知らずで……でもなぁ。
この程度の損傷、トップの修復家でも数ヶ月、場合によっちゃ年単位かかる。無理するなって」
――つまり「身の程を知れ」ってことだ。
羽菜は、静かに、だが揺るがない声で答えた。
「三日で終わります。もし壊したら、市場価格の二倍で弁償します」
客はそれを聞いて、逆に喜んだ。
――元々修復して儲けたいと思っていたから、保証までつくなら話が早い!
契約書にサインを終え、金額の確認も済んだ頃――
桐谷羽菜は、手に古画を抱えて階上の修復室へと向かった。
扉を押し開けると、室内には腰ほどの高さがある木製テーブルが二台、並べて置かれていた。
刷毛、絵具、竹べら、切出刀、和紙など、修復作業に必要な道具が、整然と揃っている。
古画の修復作業には、大きく分けて「洗・剥・補・固」の四つの工程がある。
羽菜はお湯を沸かすようスタッフに頼み、温まった湯を含ませた刷毛を用いて、慎重に古画を“洗い”始めた。
そして刷く――神経を張りつめるような作業。
汚れを落としつつも、繊細な紙の繊維を痛めないよう、水の加減や力には最大限の注意を払う。
言葉で言えば簡単だが、実際にやるとなると至難の業だ。
けれど彼女は、幼い頃から祖父の傍で古画修復に携わってきた。
この手の作業は、すでに身体に染みついている。
桐谷智也の祖父母もまた骨董収集に熱心で、彼らの所蔵品を長年にわたり修復してきた。
経験の蓄積が、羽菜の指先に宿っている。
この程度の古画など、もっと傷みの激しい、もっと古い画を手がけた経験さえある。
納期も迫っていたため、羽菜はその数日間、文字通り息つく暇もなく修復作業に没頭した。
……忙しいのは、悪くない。
忙しくしていれば、一時でも桐谷智也のことを考えずに済む。
悲しみさえ、どこかへ流れていってしまう気がした。
三日後――
依頼主が古画を受け取りに来た。
羽菜は、修復を終えた古画を丁寧に布に包み、一階まで運んでくる。
古画を目にしたその客は、しばらく言葉を失っていた。
「……これ、本当に俺が持ってきた絵? もしかして、すり替えたんじゃないの?」
高橋、店長、そしてスタッフたちも集まってきて、思わず目を見張った。
画面には、重なり合う山並みが立体的に描かれ、険しい峰々と、山間に茂る木々の鮮やかさ。
それはまるで、今にも風に揺れそうなほど生き生きとしていて――
あの、ボロ雑巾のように破れ、ほとんど絵柄も見えなかった画とは、まったく別物にしか見えなかった。
羽菜は静かに言った。
「鑑定をご希望でしたら、お受けします」
調査の結果、確かに元の画であると証明され、依頼主は目を見開いた。
「すごい……本当にありがとうございました!」
そのまま料金を支払い、満足そうに絵を持ち帰っていった。
こうして、「古宝に凄腕の若い女性修復家がいる」という噂が、あっという間に街中に広まった。
まだ二十代前半という若さで、
その腕前は国宝級修復家に匹敵する――
そんな評判が、骨董街のあちこちで囁かれるようになった。
夕暮れ時。
桐谷智也から電話がかかってきた。
「今、工房の前に車を停めてる。出てきてくれる?」
その声を聞いた瞬間――
羽菜の胸が、ドクンと痛みを伴って跳ねた。
腕時計に目を落とし、小さく息を整える。
「もうすぐ日が暮れるし……今からじゃ間に合わないと思う。明日の朝にしない?」
智也は一瞬、黙り込んだ。
そしてこう言った。
「……ばあちゃんが、どうしても俺たちに会いたいって言ってる。“大事な話”があるそうだ」