桐谷羽菜は外に出て、助手席に乗り込んだ。
シートベルトを引いて、カチリと締める。
数日ぶりに顔を合わせた桐谷智也は、少し痩せたように見えた。
もともと彫りの深い顔立ちはさらに鋭さを増し、目鼻立ちの整った横顔は、思わず目を奪われるほど。
……やっぱり、私はまだ彼のことが好きなんだ。
――忘れられるわけがない。
「はい、入社祝い」
彼が差し出したのは、深い青色のベルベットのジュエリーボックスだった。
羽菜はそっと受け取り、蓋を開けた。
中には、一つの勾玉が静かに収められていた。
透明感のある翡翠、もしくは穏やかな光を宿す瑪瑙から、丹念に彫り出されたもの。
勾玉は、古来より日本で「霊力を宿す護符」とされてきた神聖な宝器であり、厄災を祓い、平穏を守るお守りとして、大切に扱われてきた。
その勾玉は、流れるように滑らかなフォルムをしており、ふっくらとした頭部から、鋭く尖った尾部へと曲線を描く、水滴のような形状。
磨き抜かれた表面は、指先に触れるとまるで体温のようなぬくもりがあり、しっとりと優しく手のひらに馴染んだ。
羽菜はジュエリーボックスを両手で抱えたまま、首を少し傾けて智也を見上げた。
「……どうして、こんな高そうなものを…?」
桐谷智也は穏やかに微笑みながら、彼女の瞳をじっと見つめた。
「古美術品の修復をしてると、古なものや墓から出たものにも触れるだろ。
――だから、守ってくれるものを身に着けたほうがいいと思って」
そう言って、彼は勾玉をそっと取り出し――
「……ほら、つけてあげる」
手元で光を反射する勾玉を、羽菜の首元へと慎重にかけた。
その仕草には、思いやりと、言葉にしきれない想いが、静かに宿っていた。
指先が髪を払うとき、指の腹が首筋にふれた。
ひやりとした感触に、思わず肌がピクリと震える。
心の奥まで、小さな震えが走る。
――この人の指先、昔から敏感に感じてしまう。
いまの関係を思うと、羽菜の胸は痛んだ。
平静を装いながらも、声が少し揺れる。
「……もう、こういうのやめてね」
期待してしまうから。
――まだ、想ってくれてるかもしれないって。
……もっと、ほしいって、願ってしまうから。
智也は、ハンドルに手をかけながら、淡々と答える。
「ただのお祝いプレゼントだ。気にすることじゃない」
エンジンがかかり、車は静かに走り出す。
三十分後、桐谷家の本邸に到着。
玄関を開けると――
白髪の祖母・桐谷静江が、よたよたと歩いてきて、羽菜を抱きしめた。
「まあまあまあ、羽菜ちゃん……! 数日見なかっただけで、ばあば、寂しくて死にそうだったよぉ!」
――いつもは上品で凛とした祖母が、今日はずいぶんとオーバーな気がする。
羽菜は少し戸惑いながらも、笑って返す。
「おばあさま、何かご用があるって……」
「いいのいいの、まずはご飯! 食べてから話しましょ」
食卓には山海の珍味がずらりと並び、食事はとても豪華だった。
静江はにこにこと羽菜の皿に料理を取り分けながら、語りかけてくる。
「三年前、智也の嫁を探してた時にね。いろんな子の写真を見たのよ。その中で、私が一目で気に入ったのがあなた。目が優しくて、耳たぶがふっくらしていて……
“この子はきっと、家を繁栄させる顔だ”って、ピンときたのよ!
ほら見てごらん、智也があなたと結婚してから、足は治るし、会社もうなぎ上り!」
そう言ったあと――
突然、彼女は激しく咳き込みはじめた。
羽菜は慌てて背中をさする。
咳き込みながらも、静江は手をしっかりと羽菜の手に重ねた。
「本当に、あなたみたいな子は、もういないのよ。
あの頃の智也は、足が動かなくて、すごくイライラしてて……
何人も介護の人がやめたのに、あなただけずっとそばにいてくれた」
涙が、彼女の目からぼろぼろとこぼれ落ちた。
羽菜は急いでハンカチを取り出して、目元をそっと拭う。
智也は黙って箸を握ったまま、深く考え込んでいるようだった。
静江は彼をちらりと見やりながら、苦しそうに息を吐く。
「ばあばの願いはただ一つ。ふたりが仲良く暮らして、早くかわいいひ孫の顔が見たいのよ……」
羽菜は目を伏せて、チラリと智也の顔を見る。
――まだ、おばあさまに離婚の話はしていないようだ。
「……私ね、年だし、いつどうなるか分からないの。
でも死ぬまでに、あなたたちの子どもを見れたら、もう思い残すことはないわ……」
羽菜の鼻の奥がツンとした。
「おばあさま、そんなこと仰らす、どうかお元気で、長生きしてください」
「もう八十よ。身体がしんどくて仕方ないの。
ちょっと横になるわね……」
彼女は胸を押さえて、立ち上がろうとした。
羽菜も急いで立ち上がり、静江を支えながら寝室まで付き添った。
寝室の扉の前で、静江がふと振り返る。
「今夜から、ふたりはここに泊まってちょうだい。羽菜ちゃんが妊娠したら、そのとき引っ越していいわよ」
智也が何か言いかけたが、静江はそれを遮るように、腰を折ってベッドへと向かった。
羽菜はそっと手を添えながら、静江を寝かせる。
ベッドに横になった彼女は、羽菜の手を握ったまま、ささやくように言う。
「……あなたが実家に戻ったの、知ってるのよ。
でも大丈夫。私がいる限り、あなたたちを離婚なんてさせない。智也はいい子だから、私の言うことは聞くわ」
「でも……」
「“でも”じゃありません。有栖川玲奈って子は、苦しみを共にできない人。
そういう人間が、うちに入る資格なんてないのよ」
羽菜は少し間を置いて尋ねた。
「お医者さまに診てもらいませんか?」
「必要ないわよ。年寄りなんて、どこかしら悪いの。
先に戻って大丈夫よ、お腹空いたでしょ?」
「わかりました。……おやすみなさい、おばあさま」
羽菜が部屋を出たあと。
布団の中で静江は、サッと起き上がった。
――その姿は、さっきまでの弱々しい老女とはまるで別人のように、しゃんとしていた。
羽菜がダイニングに戻ると、桐谷正一郎が焼き鳥のもも肉を彼女の皿にのせた。
「ほれほれ、羽菜ちゃん。あったかいうちに食べな」
「ありがとうございます、おじいさま」
智也は箸を置き、祖父に目を向ける。
「……じいちゃん。前に来たとき、ばあちゃんまだ元気そうだったのに。
急にこんなに弱って……大丈夫なの?」
「年寄りってのはな……元気に見えても、ある日突然ぽっくり逝くもんなんだ。
だからこそおまえら、無茶だけはするな。……絶対に、ばあちゃんを刺激するなよ」
智也の顔がぐっと引き締まった。
食事を終え、二人は客間へ戻った。
ドアを閉めたところで、羽菜が口を開いた。
「……どうするの? 本当にここに住むの?」
智也はネクタイをゆるめながら答える。
「しばらくは仕方ない。ばあちゃんの身体心配だし……様子を見よう」
羽菜はちらりと後ろのベッドを見る。
「……ベッド、一つしかないよ?どうやって寝るの…」
智也は口元を緩めた。
「目を閉じて寝ればいい」
「……ねえ、真面目な話してるの」
彼は腕時計を外し、ぽんとベッドサイドに置いた。
「先に風呂入っていいよ」
「……うん」
羽菜はお風呂に入り、急いで身支度を整える。
戻ってくると、今度は智也がバスルームへ。
羽菜はベッドに横になったものの、目は冴えたままだった。
――離婚目前のふたりが、同じベッドに寝るなんて、どう考えてもおかしい。
そんなとき――
智也のスマホが鳴った。ベッドサイドに置かれたまま。
羽菜は彼のプライバシーに触れずにそのままにしておく。
着信は二度ほど鳴って止んだ。
しかしすぐに、今度は羽菜のスマホが鳴る。
画面に表示されたのは、見覚えのない番号。
「はい……?」
「桐谷羽菜さんですか? え…智也さん、一緒にいます?」
――妙に甘ったるい声の女性。
「あなた、どなたですか?」
「えっと……妹なんです」
羽菜は彼の親戚かなと思い、
「今、お風呂に入ってます。出たら伝えますね」と伝えた。
「ありがとうございます」
やがて、智也がバスルームから出てきた。
腰にバスタオルを巻いただけの姿で、髪をタオルで拭きながら――
……広い肩幅、引き締まった身体、くっきりとした腹筋。
橙色の灯りが、彼の肉体を美しく照らしていた。
羽菜の心臓が跳ねた。
顔が熱くなる。耳まで真っ赤。
彼から目を逸らしながら、小さな声で告げた。
「……さっき、あなたの妹さん?から電話があったわ。伝えておいた」
「わかった。ありがとう」
智也はスマホを手に取り、しばらく画面を見てから、無言で部屋を出て行った。
戻ってきたとき――彼の表情は、驚くほど険しかった。
「……わざとだろ」
「……え?」
「有栖川玲奈が自殺未遂した。……お前、何を言った?」
脳が真っ白になった。
「は?わたし、その人が有栖川さんだなんて知らなかったよ!
“妹”って言われたから、てっきり親戚かと思って……」
智也は口をつぐみ、服を取り出して身支度を整える。
そのままドアに向かって――
外で待っていた祖父が、彼の行動に気づいて声をかける。
「こんな夜中に、どこ行くんだ?」
「……玲奈が入院した。様子を見てくる」
祖父は、鋭く言い放った。
「羽菜ちゃん! 一緒に行きなさい!」
祖父の言葉に逆らえず、羽菜は頷いた。
「…はい、おじいさま」
服を着替えて、ふたりで出発する。
車が交差点を越えたところで、羽菜が口を開く。
「……適当なホテルで降ろして。私行かなくていいから」
「一緒に来て。……玲奈に、ちゃんと説明してくれ」
――胸が詰まる。
もともと、私が悪いわけじゃないのに――なぜ、説明しなければいけないの?
羽菜が黙っていると、智也は片手で彼女の頭をやさしく撫でた。
「……玲奈は重度のうつ病なんだ。……頼むよ」
一時間後――
病院の個室に入ると、玲奈はちょうど胃洗浄を終えたばかりだった。
ベッドの上でぐったりと横たわり、顔色は真っ青。
髪は乱れて、体は細くやせ細っている。
その顔を見た瞬間――
桐谷羽菜は、思わず目を見張った。