有栖川玲奈――その小さな顔立ち。血の気の引いた白い肌。
どこがどうとは言えないけれど、桐谷羽菜と、とても似ていた。
じっくり見比べないと、区別がつかないほど。
よくよく観察すると、玲奈のほうはどこか儚げだった。
眉は柔らかくカーブを描き、ほんのり寄った眉間。
小さな鼻に、桜色の口元――その顔立ちは、まるでガラス細工のように壊れやすそうで。
一方の桐谷羽菜には、静けさと落ち着きがあった。
そして、芯からにじみ出るような「強さ」。
その瞬間、羽菜は悟った。
――自分は、桐谷智也にとって「代用品」だったのだと。
彼女は、ひとり笑った。
自嘲と共に。
三年前、彼がたった一目で「結婚しよう」と言ってきた理由が、今さらわかってしまった。
「智也くん、来てくれたのね」
玲奈の母、有栖川美津子が、精一杯の笑顔で出迎える。
しかし、その目線が羽菜に向くと――明らかに敵意がにじんでいた。
智也は軽く頷くだけで応じた。
美津子は病室のベッドへ向かい、玲奈の肩にそっと手を添える。
「玲奈、智也くんが会いに来てくれたわよ」
玲奈はゆっくりと目を開ける。
羽菜の顔に視線が止まるが――特に驚いた様子はなかった。
似ていることを最初から知っていたかのように。
そのまま、彼女は智也を見上げて――涙を溜めた目で、か細い声を出す。
「智也……わたし、自殺なんてしてないよ。
ただ、眠れなくて……つい、睡眠薬を多く飲んじゃっただけなの。
ママが大げさに心配して、病院に連れて来ちゃって……
こんな夜中に、ごめんね。羽菜さんまで巻き込んじゃって……」
「眠れない? 玲奈、あんた……何錠飲んだと思う!?」と美津子が声を詰まらせる。
「20以上飲んだのよ?私が気づかなかったら、今ごろ……!」
彼女は口を押さえて、すすり泣き始めた。
智也はベッドの脇に腰かけた。
玲奈の顔を見下ろしながら、優しいが少しだけ叱るような口調で言う。
「……もう、こんな馬鹿な真似はしないでくれ。わかったな?」
「……うん」
玲奈は唇をきゅっと結び、涙目で頷いた。
しおらしくて、いじらしい仕草だった。
智也はポケットからハンカチを取り出し、玲奈の頬をそっと拭う。
その仕草は、壊れものに触れるように慎重で、そして優しかった。
――宝物に触れるような目つきだった。
桐谷羽菜は呆然と、それを見つめていた。
三年間、結婚生活を共にしたが――
彼は、一度だって自分にあんな眼差しを向けたことはなかった。
……これが、「愛している」か、「愛していない」かの違いなんだろう。
玲奈は、彼が最も苦しい時に彼を捨てて逃げた。
けれど――それでも、彼は彼女を愛している。
ある種の男にとっては、きっと「傷つけてくれた女」だけが、永遠に特別なのだ。
喉の奥に、魚の小骨が刺さったような痛みが走る。
羽菜はもうこれ以上ここにはいられなかった。
「……ごゆっくり。私は帰ります」
立ち上がろうとした瞬間――
智也が後ろを振り返る。
その顔に、特に表情はなかった。
「玲奈にちゃんと説明してから行ってくれ」
羽菜は深く息を吸い込み、喉に詰まった言葉を絞り出す。
「……有栖川さん。私と智也、さんは、彼の祖母を刺激したくなくて、形だけ夫婦を続けてるだけで……」
けれど、言葉の途中で声が詰まり、最後まで言いきれなかった。
彼女はそのまま背を向け、病室を出た。
――これが、智也に対して初めての「反抗」。
そして、自分でも驚くほどの、取り乱しだった。
***
扉が閉まったあと。
玲奈は小声で言った。
「智也、羽菜さん……怒ってるんじゃない?早く追いかけてあげて」
智也は一瞬黙ったあと、淡々と答えた。
「平気だよ。あの人は怒らないから」
玲奈はつぶやくように返す。
「羽菜さん……本当に素敵な人ね。おっとりしてて、上品で……全然、田舎出身には見えない。最初は、あなたには釣り合わないと思ってたけど」
智也は、わずかに顔をしかめた。
「彼女の母親も祖母も教師だったし、祖父は博物館で古美術品の修復をしていた人だ。それなりの家系だよ」
「……なるほどね」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちる。
玲奈が、そっと様子をうかがうように口を開いた。
「羽菜さん、あんなに綺麗で性格も良くて……智也は彼女のこと、好きなんでしょ?」
智也はスマホを見つめていたが、玲奈の声に顔を上げた。
「……今なんて?」
玲奈は、目に一瞬失望の色を浮かべながら微笑んだ。
「……彼女、一人で帰ったら危ないよ。送ってあげて」
「わかった。送ってからまた来る」
「うん、いってらっしゃい」
智也が出ていったあと――
美津子がすかさず口を挟んだ。
「何してるのよ!せっかく来てくれたのに、どうして引き留めなかったの!」
玲奈は眉をひそめた。
「……彼、ずっと羽菜さんのことを気にしてたでしょ?今ムリに引き留めても、意味ないよ。
もしあの女が途中で事故にでも遭ったら、智也は罪悪感で潰れる。それが私のせいだなんて思われたら、全部終わりよ」
「ほんとに……あんた、ママよりよっぽど計算高いわね」
***
そのころ――
桐谷羽菜は、ちょうど病院の正面ゲートに差しかかっていた。
夜風はまだ冷たく、彼女の細い影がゆらゆらと揺れている。
絵の中の一枝の竹のようだった。
そこへ、智也が追いついてきた。
ふたりは言葉も交わさず、ただ並んで歩く。
病院を出ると、羽菜は右に折れてタクシーを拾おうとする。
その手を、智也が突然つかんだ。
無言のまま、彼女の腕を引いて、自分の車へと向かう。
車内。
智也はカバンからカードを取り出し、羽菜のコートのポケットに押し込んだ。
「……さっきは俺の態度が悪かった。これ、詫びだ。
暗証番号は君の誕生日」
羽菜は軽んじられたような気がした。
――謝りもせずに、金で済ませる気?
彼女はポケットに手を入れ、カードを取り出そうとする。
だが智也が手を覆いかぶせ、低く、そして拒絶を許さない口調で言った。
「……持ってろ。俺には金以外、もう何も渡せないんだ」
羽菜の胸に、ざらざらとした違和感が広がる。
――欲しかったのは、そんなものじゃないのに。
***
その後、智也の携帯が鳴った。
桐谷静江からだった。
「……あんた、ばあばの言ったこと、聞き流してるの? 今すぐ帰ってきなさい!」
「……もうすぐ家に着くよ」
電話を切ると、車は静かに桐谷家へ滑り込んだ。
玄関の扉を開けてすぐ、リビングのソファにぐったりと腰を下ろしている桐谷静江の姿が目に飛び込んできた。
顔色は蒼白だが、その瞳は鋭く光を宿し、二人の姿をじっと見つめている。
彼女は手を伸ばした。
「……携帯貸しなさい」
智也は黙ってスマホを取り出し、彼女に差し出した。
静江はそのまま、有栖川玲奈の番号を探し出し、即座に発信。
コール音が鳴るとすぐに繋がった。
「有栖川さん、智也はもう所帯持ちです。どうか節度を持ってください。何かにつけて電話をかけてくるのは控えてください。
過去は過去。三年前に別れたのなら、もう未練がましく付きまとうのはやめていただけますか!」
有栖川が何か言う前に、静江は通話を一方的に切り、スマホをテーブルの上に放り投げた。
「……玲奈は重度のうつ病なんだ。刺激が強すぎるとまずい」
智也が眉をひそめながら言った。
静江は冷笑しながら返す。
「たとえがんだって、もう関係ないわ。あなたが一番気にかけるべきは、目の前にいる奥さんでしょう!」
その瞬間、智也の目がわずかに陰を帯びた。
「……ばあちゃん、それは――」
しかし、彼が言いかけた途端、静江は激しく咳き込み、口元を手で押さえた。
羽菜は慌てて駆け寄り、彼女の身体を支えながら寝室へと連れていった。
布団へ横にならせ、背中をさすり、落ち着かせてから、そっと客間へと戻った。
部屋に入ると、ちょうど智也がスマホを置くところだった。
おそらく、有栖川玲奈を宥めていたのだろう。
羽菜は黙ってリビングのソファから抱き枕を持ってきて、ベッドの真ん中に横たえた。
そして、クローゼットからもう一枚の掛け布団を取り出し、それぞれに分けた。
上着を脱ぎ、布団をめくって滑り込む。
時刻はすでに三時。
心も体も限界だった。
思考も霞んで、もう何も考えたくない。
ただ眠りたい――。
枕に頭を預けた瞬間、彼女はすとんと深い眠りに落ちた。
――そして次に目覚めたのは、朝日が高く昇った頃だった。
目を開けた瞬間、目の前に見知らぬほど美しい彫刻のような顔があった。
桐谷智也が、眉間にわずかな皺を寄せながら、じっとこちらを見つめている。
二人の距離は恐ろしいほど近く、互いの呼吸が重なり合う。
彼の熱を帯びた吐息が額にかかり、深い眼差しは、抑制と欲望のあわいで揺れていた。
そして――
羽菜の両腕は、彼の腰をぎゅっと抱きしめ、
しなやかな足は、彼のに絡まっていた。
言葉にならないほど親密で、肌が触れ合うほどの体勢だった。
甘く、狂おしく、空気が熱を帯びていく。
「……っ!!」
桐谷羽菜は電気ショックでも受けたかのように、飛び起きた。
慌てて彼の体から離れ、布団を押しのけながら、ベッドの端に逃げる。
顔を赤らめながら、半ば怒ったように、半ば困ったように言った。
「な、なんで……こんな体勢に……!?」