いつも見せるあの穏やかで落ち着いた姿とはまるで別人だった。
彼女が慌てふためいているのを、桐谷智也は初めて見た。
――どこか、驚いた子猫みたいだ。
智也は口元を緩め、冗談めかして言った。
「自分から入り込んできたくせに、押しても離れないなんてな」
「……そんなはずないでしょ!」
羽菜の耳たぶが真っ赤になる。
「次は録画しておこうかな。証拠があれば言い逃れできないからね」
彼の笑顔がますます深くなる。
羽菜は恥ずかしさに耐えきれず、くるりと背を向けた。
慌ててベッドサイドのシャツをつかみ、ボタンをかけながら着替え始めたが――
焦りすぎて、ボタンの掛け違いにも気づかない。
細い背中がもぞもぞと動き、シャツを着る音だけが微かに響く。
そんな姿を見ながら――
智也の脳裏に浮かんだのは、昨夜のことだった。
彼女は夢の中で何かに怯えて、ぎゅっと丸まって震えていた。
彼が抱きしめてあやしても、彼女は閉じたままの目でぽつりと呟いた。
「……司……にぃ……」
何度目だっただろうか。
その名を、彼女は何度も夢の中で呼んでいた。
どれだけ深く想っていれば、こんなにも……。
「司」という男のことを、智也は調べさせた。
だが、まったく手がかりは得られなかった。
――前回彼女に訊いたときも、答えてくれなかった。
言わないのは自分に対する侮辱。
でも、もし言われても――きっともっと辛いだろう。
智也の顔から笑みが消える。
腕時計を手に取り、淡々と告げた。
「今夜は遅くなるかも。……ばあちゃんには適当に言い訳してくれ」
羽菜の指先がピクリと止まる。
――そうか。今夜も、有栖川玲奈のもとへ行くんだ。
胸が詰まる。
耐えきれないほどの屈辱が、込み上げてくる。
「……離婚のこと、ちゃんとおばあさまに話してみる。
……ごめんね、あなたにも無理させて」
智也は、じっと彼女を見つめ返す。
「……君にも、無理させたな」
***
朝食を終えたあと、屋敷の運転手・佐藤秀樹が羽菜を工房まで送る。
忙しく一日が過ぎ――
退勤時刻。
羽菜のスマホが鳴る。
「羽菜様、すみません。車が飲酒運転の車にぶつけられて……警察が来るまで少しかかりそうで……」
「わかりました、自分で帰ります。お気をつけて」
バッグを掛け、街を出たところで――
ふたりの男が前に立ち塞がった。
「桐谷羽菜さんですね。……ちょっと、ついてきてもらえますか?」
ひとりは背が高く痩せた男。
年の頃は二十代後半。夜なのにサングラスをしていて、どこか血なまぐさい臭いがした。
「どこに?」
「古画の修復をお願いしたいんです。報酬は市価に準じます。……ご安心を」
羽菜は少し警戒を解いた。
「でしたら、勤務先の工房に届けてください」
だがその瞬間、もう一人の坊主男が乱暴に言った。
「めんどくせぇ。連れてけ!」
羽菜は直感的に走り出す。
けれど、数歩もいかないうちに捕まった。
――黒い車に、引きずり込まれる。
車が発進。
背の高い男が羽菜のバッグからスマホを取り出し、命じた。
「家族に連絡して、“友達と出かけるから心配しないで”って言え」
――智也に電話しようか? いや、きっと今夜も病院だ。
彼が私のことなんて、気にするはずがない。
彼女は母に電話することにした。
「……母さん。ちょっと友達と旅行に出るね。あの、糖尿病……ちゃんと薬飲んでね……」
スマホはすぐに取り上げられ、電源を切られた。
そして――
目隠しをされる。
***
どれほど走ったのか分からない。
到着したのは、古びたビルだった。
連れてこられたのは三階。
真っ赤なテーブル、その上には金庫。
中から取り出されたのは、一枚の古画。
その絵はおよそ一メートル半の長さ。
かなり傷んでいて、画面のあちこちに損傷があり、筆致も途切れていた。
羽菜は、じっと目を凝らしてその画を見つめた。
重厚で深みのある筆致。
堂々たる山嶺、連なる峰々、密集した樹木、そして奥深い山間には、茅葺き屋根の庵がひっそりと建ち、その中には膝を抱えて床に座る人の姿があった。
——これは、「墨心流四大家」の一人・荻野先生による「隠者」。
その名画の中でも、最高峰の一つで、かつて百億円で落札された記録もあるという。
修復が成功すれば、数十億円の価値にはなるだろう。
これを表に出さず、こうして彼女をここへ連れてきて修復させようとしているということは——この絵の出どころが“黒”であることは明白だった。
「……この画、修復にどれくらいかかる?」
「画幅も大きく、損傷も激しいです。しかも筆意がところどころ失われている……。最低でも二週間は必要です」
「了解。必要な道具と材料をリストに書いてくれ」
羽菜は無言で紙を取り、必要なものを丁寧に書き出して渡した。
男たちは頷き、部屋を出ていく。
「用意してくる。しばらく休んでいてくれ」
男たちは出て行き、ドアは「ガチャリ」と外側から鍵を掛けられた。
羽菜は室内をぐるりと見渡す。
ベッド、テーブル、椅子、トイレ、保存食や水……。
……最初から、こうするつもりだったのか。
窓の外には延々と続く山々。人家の灯りはまばらで、都心からはかなり離れているのが分かる。
空腹に耐えきれず、カップ麺を開け、少し口にして水を飲んだ。
洗面台で顔を洗い、ベッドに横たわる。
――静まり返った夜。
眠れるはずがなかった。
自分がいなくなって、桐谷智也は……心配してくれているのだろうか。
――きっと、していない。
彼の頭の中にあるのは、有栖川玲奈のことばかり。
今ごろ、彼女の入院先で付き添っているのでは。
玲奈が自殺未遂を起こしたとき、取り乱して病院へ駆け込んでいった智也の姿が頭をよぎり、胸がズキズキと痛んだ。
深夜。
トイレに立ったとき、外から声が聞こえた。
——「おい坊主。何してんだ?」
「……眠れなくてさ。ちょっとあの娘の様子を見ようかと。なあ、本当に直せると思う?
あれは億単位の古画だぞ。もし壊れたら…」
「お前知らねえのか? あの子の祖父は“修復の神”と呼ばれる森文雄だよ。あいつの最後の絵の大半は、実は彼女の手によるって噂らしいぜ」
「マジか……なら信じるしかねぇな。
……にしてもあの子、可愛すぎないか?お前、ちょっとくらいその気にならねぇの?」
「バカ言ってんじゃねえよ。くだらねぇ性欲なんかより、修復が最優先だ。絵が売れて、金が手に入れば、女なんていくらでもいるだろ?」
「あの子は金で買える女と違うんだ。
……白くて、でけえ目がキラキラしてて……マジたまんねえ――!
修復終わったら、ちょっとぐらい楽しんでもバチ当たんねぇだろ?」
痩せた男は数秒沈黙した後、小さく吐き捨てるように言った。
「……好きにしろ。
ただし、修復が終わるまでは我慢しろ。手を出したら殺されるぞ」
「わーてるって」
――そのやり取りを聞いていた桐谷羽菜は、全身が嫌悪と恐怖で震えた。
最低だ。
鍵を開けようとするも、道具がない。
窓から逃げようにも、三階の下はコンクリート。
しかも庭には大きな番犬までいる。
――望みは、ただ一つ。
あの電話。
羽菜は母に「糖尿病の薬、忘れず飲んでね」と念を押した。
母に糖尿病などない。
それは、自分が危険に晒されているというサインだった。
気づいてくれるだろうか……
***
翌日、桐谷羽菜は絵の洗い作業を始めた。
洗いが終われば、次は剥がし。
そのまま三日間、寝る間も惜しんで修復作業に没頭した。
けれど、絵が仕上がる日が近づくにつれて、心は不安でいっぱいになっていった。
夜、まともに眠れず、何度もあの坊主の足音が深夜の廊下に響くのを聞いた。
そんなある夜更け、ようやくまどろんできた矢先。
外から突然、犬の吠える声と慌ただしい足音――!
桐谷羽菜は弾かれたように跳ね起き、慌てて服を着始めた。
ガチャッ!
ドアが開き、背の高い男が駆け込んできた。
「出るぞ!」
彼は無言で羽菜の手首を掴み、力強く引っ張った。
坊主はすでに絵の回収へ向かっていた。
彼女が玄関へと引きずられたその瞬間——
階段から、ざわざわと複数の足音が駆け上がってきた。
先頭に立つのは、全身黒に身を包んだ長身の男。
端整な顔立ちに、鋭く深いまなざし——
桐谷智也だった。
その背後には、完全武装の警官たちがずらりと並んでいる。
その光景を目にした桐谷羽菜の胸は、津波のような驚きと安堵で満ちあふれた。
夢でも見ているようで、信じられない思いだった。
震える声で、彼を見つめながら尋ねる。
「智也……?」
「俺だ」
智也は一歩、また一歩と力強く歩み寄る。
その刹那——
羽菜の首筋に、冷たい刃物が突きつけられた。
男がナイフで羽菜の首を押さえ、警官たちに怒鳴った。
「武器を捨てろ!下がれ!さもねぇとこの女刺すぞ!」
刃が肌を裂いた。
羽菜はじんじんする痛みとともに、耳鳴りと目眩に襲われる。
その様子を見た桐谷智也の両拳が、ぎゅっと強く握られた。
瞳は血の色を帯び、今にも怒りが爆発しそうな勢いだった。
「銃を下ろせ!全員だ!早く!」
警察たちは一瞬、智也と視線を交わすと、次々に腰を屈めて銃を地面に置き、後方へと下がっていった。
坊主が銃を片足で蹴り飛ばし、部屋の隅へと追いやる。
「跳べ!今すぐ!」
三階だ。
羽菜は必死に窓枠にしがみついた。
こんな高さから飛べば、命は助かっても、もう二度と歩けなくなるかもしれない。
「飛べって言ってんだろ!死にゃしねぇよ!」
男は苛立ち、羽菜の腕を掴んで、無理やり落とそうとする。
——その瞬間、
パンッ!!
銃声が響き、続いて、凄まじい悲鳴が夜空にこだました――。