目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第6話 心に忍ばせた策略


瘦せた長身の男が、銃声とともに――ドサリと、地面に崩れ落ちた。


痙攣を数度繰り返し、

脚をピンと突っ張ったかと思えば、瞼を閉じたまま、動かなくなった。


赤黒い血が、ゆっくりとコンクリートの地面に広がっていく。


――庭の番犬も吠え始めた。

けたたましく、狂ったように。


坊主の男が逃げ出そうとしたが、

警官たちがすぐに駆け寄り、地面に組み伏せた。


彼の手から古画を奪い、手錠をかける。


桐谷羽菜は、まだ窓枠にしがみついたままだった。

呆然と、銃を撃った桐谷智也を見つめていた。


――三年間の結婚生活の中で、彼が銃を撃つ姿なんて、見たことがなかった。


しかも――あれほどの至近距離、

少しでも遅かったり、ズレていたりしたら、自分が死んでいた。


彼は銃を投げ捨てると、駆け寄って彼女をそっと抱き下ろし、

首元の傷を丁寧に確認する。


それから、ぎゅっと――抱きしめてくれた。

震える頬を優しくなぞりながら、彼は囁く。


「……怖かったな。大丈夫、もう大丈夫だから」


羽菜は、ぼんやりとしたまま頷いた。


ほんの数分前まで、死を覚悟していた。

けれど、今こうして、生きている。


鼓動が速すぎて、耳鳴りが止まらない。

サイレンサーがついていたとはいえ、銃声は脳裏に焼きつくほど衝撃的だった。


まるで映画のワンシーンのよう――

命がけの、恐ろしい夜だった。


全身から冷や汗が噴き出す。

警察は古画を慎重に袋へ入れ、金庫に収めて持ち帰った。


羽菜は機械的に事情聴取を受け、そのまま桐谷智也と一緒に車へ。


足がふらつき、意識もぼんやりしていた。

夜は更けて、車は狭い田舎道をゆっくりと走り出す。


羽菜は、彼の腕の中に身を委ねた。

彼は彼女の背中を何度もさすりながら、柔らかな声で言う。


「……もう大丈夫。怖くないよ、俺がそばにいるから」


その声が、あまりに優しくて。


羽菜は本能的に彼にすがった。

ぬくもりが心に沁みて、胸がきゅっと締めつけられるように痛いのに――

なぜか、甘くて、温かかった。


彼女の反応を感じたのか、智也の腕はさらに強く彼女を抱きしめた。


そして、髪に顔を埋めながら、震えるような声で囁く。


「……なんで、俺に電話しなかったんだ……

 母さん鈍感だから、昨日やっと異変に気づいた」


その声が、喉の奥でかすれていた。

衣服の端を握る指が、微かに震えている。


「……君に何かあったら、俺……どうすればいいんだ……」


羽菜の目に、涙が滲む。

こんなにも想ってくれていたなんて、思わなかった。


彼女はそっと、彼を抱き返した。

顔を彼の首元に埋めると、そこから漂う彼の香りが、やけに安心感を与えてくれる。


心が、少しずつ解けていった。



そのとき、智也のスマホが震えた。

彼は画面をちらりと見ると、無言で切った。


羽菜には誰からか、察しがついた。

……きっと、有栖川玲奈。


助手席にいた、智也のアシスタント――島田翔太のスマホが鳴った。

彼は電話に出たあと、振り返って智也に言う。


「社長、有栖川様からの電話です」


智也は無表情で受け取って、応じた。


「どうした?」

「智也、羽菜さん……見つかったの?」


玲奈の声は甘く震えていた。


「見つかったよ」


「よかった……。羽菜さん、きっとすごく怖かったはず。今はそばにいてあげて。

 ……病院には、しばらく来なくていいから」


智也は「うん」とだけ答え、通話を終えた。


車内には静けさが戻る。


そのすべてを聞いていた羽菜の胸に、冷たいものが落ちた。


まだ離婚していないのに――

なぜ夫が、第三者から「そばにいていいよ」なんて許可をもらわなければならないの?


……どれほど惨めな立場か、思い知らされる。


彼女はそっと彼の腕を押しのけ、身を起こした。

まっすぐ前を向き、窓の外の街の灯を見つめながら――

ふっと、冷たい笑みを浮かべた。


さっきまでの温もりなど、ただの夢だった。


***


車が市内に入った頃。

羽菜は小さく告げた。


「……母さんの家に送って。おばあさまにはそれっぽい理由つけておいて」


智也はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


***


帰宅すると、由美子が娘を抱きしめて泣き出した。


「無事でよかった……智也くんが必死で探してくれなかったら……」


羽菜は母をそっと撫でながら、囁くように言った。


「……大丈夫。もう、終わったから」


***


それから一週間後の深夜。


桐谷智也は酔いつぶれて運転手に抱えられるようにして帰宅した。

そのままリビングのソファに横たえられると、彼はうわごとのように桐谷羽菜の名前をつぶやいた


その声を聞いた運転手は、すぐに羽菜に連絡を入れる。


電話口で事情を聞いた母・由美子が、静かに娘へ言った。


「……まだ離婚してないんだから、今は夫婦でしょ?

 こんなときぐらいちゃんとしてあげなさい」


羽菜は迷いながらも、静かにうなずいた。


***


運転手がコップに水を注ぎ、智也に飲ませようとしたそのとき――

玄関のチャイムが鳴った。


ドアを開けると、そこには有栖川玲奈が果物かごを手に立っていた。


運転手が応対し、智也の酔いを伝えると、

玲奈は微笑みながら答えた。


「ちょうどいいわ。私が看病するから」


ソファに座る智也に水を飲ませようとすると、彼がうっすら目を開け、玲奈を見て驚いたように眉をひそめた。


「智也……」


彼はうっすら目を開け、彼女を見ると驚いたように言った。


「……なんで来たんだ?」


「どうしても会いたくて……ごめんなさい。抑えきれなかったの」


「……酔ってるから、ちゃんともてなせない。帰ってくれ。」


玲奈は涙をにじませながら、訴えるように言った。


「……まだ、ちゃんと許してくれてないんだね。

 三年前、あの別れのメッセージは私じゃなくて母が勝手に送ったの。

 私は海外に軟禁されて、監視までつけられて、連絡もできなかった。

 ……この三年間、地獄だったのよ。うつ病にもなって……」


彼女は嗚咽を漏らした。

智也の声が少し優しくなる。


「……もう泣くな」


玲奈は潤んだ瞳で見上げる。


「だったら……追い返そうとしないでよ……」

「……まだ、離婚してないんだ。こんな時間に君がいるのは良くない」


玲奈がそっと身体を寄せてきたが、彼は反射的に距離を取った。


一瞬の静寂。。


玲奈が話題を変えるように、目を向けて尋ねた。


「ねえ、この水墨画……本物?」

「いや……羽菜が模写したものだ」

「……すごい。あんなに上手いなんて、想像以上」


智也はうなずき、ふっと目を細めて言った。


「……ああ。彼女は、本当に優秀だ」


彼の声には、どこか誇らしげな響きがあったが、

視線はふと落ち、思い出していたのは――

「司」の存在だった。



玲奈の目に、悔しさと嫉妬の光がかすかに浮かぶ。


そんなとき、外から足音が聞こえてきた。

桐谷羽菜が来る。


玲奈の目がきらりと光る。

とっさに彼の腕を取って寄りかかり、甘えた声でささやく。


「ねえ智也、お風呂手伝うよ。 あなたが寝たら帰るから」


智也は不機嫌に彼女を押し返した。


「……いい。自分で入る」

「他人行儀ねぇ……わたし、あなたのものじゃなかったの?」


「帰れ」


そのとき――

玄関の鍵が「カチャリ」と開く音。


玲奈はわざとらしくよろめき、智也の胸へ倒れ込み、両腕で腰を抱きしめた。

そしてそのまま唇を彼に近づける――


酔っていた智也は振り払おうとしても力が入らず、うまくできなかった。


――そして、羽菜が玄関を開けて部屋へ足を踏み入れた。


目の前に飛び込んできたのは、

智也と玲奈が、抱き合い、キスしている姿――


あの手。

かつて自分の腰をやさしくなぞったその手が、

今は、玲奈の首をしっかりと抱えていた。


羽菜は雷に打たれたように立ち尽くした。

背筋が、凍りつくように冷えた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?