瘦せた長身の男が、銃声とともに――ドサリと、地面に崩れ落ちた。
痙攣を数度繰り返し、
脚をピンと突っ張ったかと思えば、瞼を閉じたまま、動かなくなった。
赤黒い血が、ゆっくりとコンクリートの地面に広がっていく。
――庭の番犬も吠え始めた。
けたたましく、狂ったように。
坊主の男が逃げ出そうとしたが、
警官たちがすぐに駆け寄り、地面に組み伏せた。
彼の手から古画を奪い、手錠をかける。
桐谷羽菜は、まだ窓枠にしがみついたままだった。
呆然と、銃を撃った桐谷智也を見つめていた。
――三年間の結婚生活の中で、彼が銃を撃つ姿なんて、見たことがなかった。
しかも――あれほどの至近距離、
少しでも遅かったり、ズレていたりしたら、自分が死んでいた。
彼は銃を投げ捨てると、駆け寄って彼女をそっと抱き下ろし、
首元の傷を丁寧に確認する。
それから、ぎゅっと――抱きしめてくれた。
震える頬を優しくなぞりながら、彼は囁く。
「……怖かったな。大丈夫、もう大丈夫だから」
羽菜は、ぼんやりとしたまま頷いた。
ほんの数分前まで、死を覚悟していた。
けれど、今こうして、生きている。
鼓動が速すぎて、耳鳴りが止まらない。
サイレンサーがついていたとはいえ、銃声は脳裏に焼きつくほど衝撃的だった。
まるで映画のワンシーンのよう――
命がけの、恐ろしい夜だった。
全身から冷や汗が噴き出す。
警察は古画を慎重に袋へ入れ、金庫に収めて持ち帰った。
羽菜は機械的に事情聴取を受け、そのまま桐谷智也と一緒に車へ。
足がふらつき、意識もぼんやりしていた。
夜は更けて、車は狭い田舎道をゆっくりと走り出す。
羽菜は、彼の腕の中に身を委ねた。
彼は彼女の背中を何度もさすりながら、柔らかな声で言う。
「……もう大丈夫。怖くないよ、俺がそばにいるから」
その声が、あまりに優しくて。
羽菜は本能的に彼にすがった。
ぬくもりが心に沁みて、胸がきゅっと締めつけられるように痛いのに――
なぜか、甘くて、温かかった。
彼女の反応を感じたのか、智也の腕はさらに強く彼女を抱きしめた。
そして、髪に顔を埋めながら、震えるような声で囁く。
「……なんで、俺に電話しなかったんだ……
母さん鈍感だから、昨日やっと異変に気づいた」
その声が、喉の奥でかすれていた。
衣服の端を握る指が、微かに震えている。
「……君に何かあったら、俺……どうすればいいんだ……」
羽菜の目に、涙が滲む。
こんなにも想ってくれていたなんて、思わなかった。
彼女はそっと、彼を抱き返した。
顔を彼の首元に埋めると、そこから漂う彼の香りが、やけに安心感を与えてくれる。
心が、少しずつ解けていった。
そのとき、智也のスマホが震えた。
彼は画面をちらりと見ると、無言で切った。
羽菜には誰からか、察しがついた。
……きっと、有栖川玲奈。
助手席にいた、智也のアシスタント――島田翔太のスマホが鳴った。
彼は電話に出たあと、振り返って智也に言う。
「社長、有栖川様からの電話です」
智也は無表情で受け取って、応じた。
「どうした?」
「智也、羽菜さん……見つかったの?」
玲奈の声は甘く震えていた。
「見つかったよ」
「よかった……。羽菜さん、きっとすごく怖かったはず。今はそばにいてあげて。
……病院には、しばらく来なくていいから」
智也は「うん」とだけ答え、通話を終えた。
車内には静けさが戻る。
そのすべてを聞いていた羽菜の胸に、冷たいものが落ちた。
まだ離婚していないのに――
なぜ夫が、第三者から「そばにいていいよ」なんて許可をもらわなければならないの?
……どれほど惨めな立場か、思い知らされる。
彼女はそっと彼の腕を押しのけ、身を起こした。
まっすぐ前を向き、窓の外の街の灯を見つめながら――
ふっと、冷たい笑みを浮かべた。
さっきまでの温もりなど、ただの夢だった。
***
車が市内に入った頃。
羽菜は小さく告げた。
「……母さんの家に送って。おばあさまにはそれっぽい理由つけておいて」
智也はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
***
帰宅すると、由美子が娘を抱きしめて泣き出した。
「無事でよかった……智也くんが必死で探してくれなかったら……」
羽菜は母をそっと撫でながら、囁くように言った。
「……大丈夫。もう、終わったから」
***
それから一週間後の深夜。
桐谷智也は酔いつぶれて運転手に抱えられるようにして帰宅した。
そのままリビングのソファに横たえられると、彼はうわごとのように桐谷羽菜の名前をつぶやいた
その声を聞いた運転手は、すぐに羽菜に連絡を入れる。
電話口で事情を聞いた母・由美子が、静かに娘へ言った。
「……まだ離婚してないんだから、今は夫婦でしょ?
こんなときぐらいちゃんとしてあげなさい」
羽菜は迷いながらも、静かにうなずいた。
***
運転手がコップに水を注ぎ、智也に飲ませようとしたそのとき――
玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには有栖川玲奈が果物かごを手に立っていた。
運転手が応対し、智也の酔いを伝えると、
玲奈は微笑みながら答えた。
「ちょうどいいわ。私が看病するから」
ソファに座る智也に水を飲ませようとすると、彼がうっすら目を開け、玲奈を見て驚いたように眉をひそめた。
「智也……」
彼はうっすら目を開け、彼女を見ると驚いたように言った。
「……なんで来たんだ?」
「どうしても会いたくて……ごめんなさい。抑えきれなかったの」
「……酔ってるから、ちゃんともてなせない。帰ってくれ。」
玲奈は涙をにじませながら、訴えるように言った。
「……まだ、ちゃんと許してくれてないんだね。
三年前、あの別れのメッセージは私じゃなくて母が勝手に送ったの。
私は海外に軟禁されて、監視までつけられて、連絡もできなかった。
……この三年間、地獄だったのよ。うつ病にもなって……」
彼女は嗚咽を漏らした。
智也の声が少し優しくなる。
「……もう泣くな」
玲奈は潤んだ瞳で見上げる。
「だったら……追い返そうとしないでよ……」
「……まだ、離婚してないんだ。こんな時間に君がいるのは良くない」
玲奈がそっと身体を寄せてきたが、彼は反射的に距離を取った。
一瞬の静寂。。
玲奈が話題を変えるように、目を向けて尋ねた。
「ねえ、この水墨画……本物?」
「いや……羽菜が模写したものだ」
「……すごい。あんなに上手いなんて、想像以上」
智也はうなずき、ふっと目を細めて言った。
「……ああ。彼女は、本当に優秀だ」
彼の声には、どこか誇らしげな響きがあったが、
視線はふと落ち、思い出していたのは――
「司」の存在だった。
玲奈の目に、悔しさと嫉妬の光がかすかに浮かぶ。
そんなとき、外から足音が聞こえてきた。
桐谷羽菜が来る。
玲奈の目がきらりと光る。
とっさに彼の腕を取って寄りかかり、甘えた声でささやく。
「ねえ智也、お風呂手伝うよ。 あなたが寝たら帰るから」
智也は不機嫌に彼女を押し返した。
「……いい。自分で入る」
「他人行儀ねぇ……わたし、あなたのものじゃなかったの?」
「帰れ」
そのとき――
玄関の鍵が「カチャリ」と開く音。
玲奈はわざとらしくよろめき、智也の胸へ倒れ込み、両腕で腰を抱きしめた。
そしてそのまま唇を彼に近づける――
酔っていた智也は振り払おうとしても力が入らず、うまくできなかった。
――そして、羽菜が玄関を開けて部屋へ足を踏み入れた。
目の前に飛び込んできたのは、
智也と玲奈が、抱き合い、キスしている姿――
あの手。
かつて自分の腰をやさしくなぞったその手が、
今は、玲奈の首をしっかりと抱えていた。
羽菜は雷に打たれたように立ち尽くした。
背筋が、凍りつくように冷えた。