夢でも見ているようだった。
桐谷羽菜は手足が冷たくなり、立ち尽くしていた。
頭が真っ白で、何も考えられなかった。
彼女の姿に気づいた桐谷智也は一気に酔いが冷めたのか、
有栖川玲奈を力強く突き放し、ソファに手をついて立ち上がる。
玲奈は振り返り、わざとらしく驚いた声をあげた。
「羽菜さん? いつからいらしたの?」
誰かに叩き起こされたように、羽菜の意識が急に現実に引き戻された。
心臓がバクバクと音を立てて跳ねる。
彼女は踵を返して歩き出す。
玄関の扉すら閉め忘れた。
――想定外の出来事というのは、ときに感情よりも先に体が動いてしまう。
涙も出なければ、叫びもしなかった。
ただ、足元がおぼつかなく、視界がにじんでいた。
冷たい春風が頬を刺すように吹きつける。
その風にさらされながら、羽菜の頭の中はだんだん冷静さを取り戻していった。
……桐谷智也はわざわざ運転手に電話させて自分を呼び寄せた。
まさか、あんな場面を見せるためだったのか?
別れたいと言ったとき、自分は何も言わずに応じた。
なのに――なぜ、こんなふうに辱める?
……愛していないから、何をしてもいいとでも思ってるの?
怒りが全身の毛穴から噴き出すようにこみ上げてきた。
歩くほどに、足取りはしっかりし、背筋が伸びていく。
外で待っていた運転手が車のドアを開けて声をかける。
「奥さま、社長からお送りしますようにと指示を受けております」
羽菜はしばらく黙っていたが、やがて無言で車内に腰を下ろした。
運転手が扉を閉め、電話を取り出して報告する。
「社長、奥さまをお乗せしました。これからお送りします。ご安心を」
「……ああ」
通話を終えた智也は、冷たい視線で玲奈を見据えた。
「……わざとだったな、今のは」
玲奈は眉を下げ、いかにも反省したような表情で弁解する。
「羽菜さんがいらっしゃるなんて思わなかったの。
さっき、ちょっと足を滑らせちゃって……偶然、転んだだけ」
「……俺は酔ってたが、バカじゃない」
玲奈の唇が震え、瞳に涙が溢れる。
「……ごめんなさい。今すぐ羽菜さんに電話して、ちゃんと説明するから……」
手をポケットに伸ばす玲奈を、智也が制止した。
「もういい。余計にこじれるだけだ。……帰ってくれ」
「でも……智也は?」
「……酔ってるだけだ。死にゃしない」
智也はソファに沈み込むように腰を下ろし、眉間を押さえる。
心底からうんざりしているようだった。
玲奈はその場から動けず、肩を震わせながらうつむいた。
泣き声を必死に抑えながら、捨てられた小動物のように見える。
そんな彼女の姿を見て、智也は少しだけ罪悪感をにじませた。
「……別に、お前を責めてるわけじゃない。
羽菜に非はないのに、俺があんなふうに傷つけるべきじゃなかった」
玲奈がぽつりと呟く。
「……でも、離婚を言い出した時点で、もう傷つけてるよ」
「だからこそ、これ以上、あんな形で追い討ちをかけるべきじゃなかった」
玲奈は小さな声で囁いた。
「……それって、羽菜さんだけじゃなくて、私のことも傷つけてるんだよ」
「……まだ離婚できない。祖母が強く反対してる。
それに……お前のことを理由にしたのも、あくまで口実だ」
その一言が、玲奈にとっては雷鳴のようだった。
顔色が一気に蒼白になり、唇がわななく。
「……智也、それ……本気で言ってるの? 酔ってるだけ、だよね?」
智也は額を押さえたまま、苦しげに吐き捨てる。
「酔ってるから、つい本音が出たんだろ。……もう帰れ」
これ以上言葉を交わせば、取り返しがつかない気がして。
玲奈は唇を噛み、涙を溜めながら、悔しそうにその場を後にした。
彼女が出ていくのを見届けた後、智也はすぐに玲奈の父親に電話をかける。
「……玲奈のこと、少し注意して見ててください。……また、あんなことが起きないように」
***
翌日の昼――
古美術品修復の店――「古宝修復工房」にて。
桐谷羽菜のもとに、桐谷智也から人が遣わされてきた。
その人物は、手渡された一枚のカードを差し出す。
「奥さま。こちら、社長からの補償です。パスワードは、奥さまのお誕生日です」
羽菜はそのカードを見つめて、ふっと自嘲気味に笑った。
お金は確かに便利だ。
でも、状況によっては、それは立派な“侮辱”にもなり得る。
彼女はそっとカードを押し戻した。
「……彼に伝えてください。私、お金には困っていません」
「それでも、社長からのお気持ちです。
それに……“目に見えたものがすべてとは限らない。あなたがどんな決断をしても、俺は受け入れる“と、社長が……」
「……そうですか」
使者が去った後。
羽菜はしばらくその場で静かに座っていた。
やがて、荷物をまとめて、近くのレストランに向かう。
その途中――
目の前に、純白のワンピースを着た有栖川玲奈が立っていた。
腕には花束。
「羽菜さん……少し、お話、できますか?」
羽菜は感情を抑えながら、冷たく数秒見つめてから返した。
「……いいわ」
二人は近くのレストランへ入る。
テーブルに花束を置きながら、玲奈はうっとりと花びらをなぞった。
「……智也って、ほんとロマンチストよね。今朝、わざわざ人を遣わせて、私にマリーゴールドを贈ってくれたの。
マリーゴールドの花言葉は“変わらぬ愛”……時を経ても、彼は私を忘れていなかったの」
羽菜の胸に、苦い想いが込み上げる。
三年間の結婚生活で、彼から花をもらったことは一度もなかった。
祝日だろうと、誕生日だろうと、送られてきたのはカードばかり。
――ロマンチックな男じゃないんじゃなくて、
自分に対しては“その気がなかった”だけ。
マリーゴールド。変わらぬ愛。
……なんて感動的な演出なのかしら。
ウェイターがコーヒーを運んでくる。
玲奈はスプーンでカップをくるくる回しながら、
甘えた声で語り続ける。
「私と智也って、幼なじみなの。小さい頃から、彼は私をとっても大事にしてくれたの」
羽菜はカップを手に取り、一口啜ってから淡々と返す。
「……要点を話して。こっちも暇じゃないから」
玲奈は肩をすくめた。
「へぇ〜、羽菜さんって怒ることもあるんだ。
智也の前では猫かぶってただけ? 上手いね、演技」
羽菜は笑った。
「私、まだ彼の妻よ?
深夜に他人の家へ押しかけて、私の夫に抱きついてキスまでして……コーヒーをぶっかけなかっただけ、私の“品”を称えてくれてもいいわね?」
「わお〜。メス虎みたいで怖〜い、お姉さま」
羽菜の手が持っていたカップをわずかに震わせる。
本気でぶっかけてやりたい衝動を、なんとか堪える。
玲奈はしばらく待ったが、コーヒーが飛んでこないことに少し残念そうだった。
罠を張ったのに、乗ってこない。
仕方ない。次の一手を。
彼女はじっと羽菜の顔を見つめ、挑発的に言い放った。
「羽菜さんって頭いいんでしょ? 私の顔を見れば気づくんじゃない? あなたは智也にとって、ただの身代わり。
……ご本人が戻ってきたんだから、そろそろ身を引いたらどう?」
「ご本人?」羽菜は小さく笑った。
「有栖川さん、学校行ってなかったの? それとも法律知らない? 私は智也と法的に婚姻関係にある、正式な配偶者よ。私こそが“ご本人”ですが?」
玲奈は舌打ちしながら、あざけるように言った。
「もうすぐ離婚するんでしょ? なに強気になってんの?」
羽菜は背筋を伸ばし、きっぱりと言い返す。
「私たちが離婚しない限り、あなたに出る幕はないわ」
玲奈は鼻で笑い、ついに“切り札”を取り出した。
「三年前、あなたが智也と結婚したのは五千万円のためでしょ? じゃあ、私はその倍、払ってあげる」
財布から取り出した小切手を、テーブルの上にパシッと置く。
「これ、一億円。受け取って、彼から今すぐ手を引いて」
羽菜はちらりと小切手に目をやっただけで、淡々とした声で言った。
「……あのとき、結婚を決めたのは、お金だけが理由じゃない」
「うわ〜出た、正妻アピール。口ではきれいごと言って、実際はちゃっかり金取ってるくせに。嘘くさ~」
羽菜は唇を引き結び、冷ややかに彼女を見つめた。
本気で平手を食らわせたくなるのを、必死に抑え込む。
玲奈は見下すような口ぶりで言い放つ。
「三年前、あんたの祖母が腎不全で移植が必要だったんでしょ? 治療費のために家まで売って、どん底の貧乏。
そんな時に智也が現れた。金目当てでしょ、どう見ても。
少し生活が良くなったからって、出自を忘れた? どう頑張っても、所詮は田舎出の野良娘。上流ぶっても、育ちの悪さは隠せないよ」
そう言って、玲奈は小切手を羽菜の方へ押しやり、傲慢な顔で顎を上げた。
「はい、これ持って、変なプライド捨てたら?」
羽菜は驚くほど冷静だった。
彼女は小切手の印章に視線を落とし、静かに口を開いた。
「……このお金、あなたのお父様からもらったのよね? 頼み込むのに、ずいぶん時間かかったでしょう?
家族ぐるみで愛人ごっこを応援するなんて、なかなかの“名家”ね。
お金があっても、心の醜さは隠せないみたいね」
「っ……な、なによ……!」
玲奈の顔が赤くなったり青くなったりしている。
羽菜は立ち上がり、玲奈を見下ろすように言った。
「私は古美術品の修復士です。この業界で本気で稼ぐ気があれば、一億円なんて難しくない。三年前、たとえ智也と結婚しなかったとしても、自分の手でその金額は稼げました」
そう言って、羽菜は小切手を掴み——玲奈の顔に叩きつけた。
「この金、持ってさっさと消えなさい。見てるだけで気分が悪くなるわ」
小切手が顔に当たり、有栖川玲奈の怒りがついに爆発した。
「この……っ!」
彼女は勢いよく羽菜の前へと詰め寄り、手を伸ばして彼女の顔を掴もうとした――
が、その刹那。
横から突然、誰かが飛び込んできて、玲奈の腕をがしっと掴む。
そして——
彼女の顔面に、容赦ない鉄拳の嵐が炸裂した!