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第7話 桐谷羽菜、反撃す


夢でも見ているようだった。


桐谷羽菜は手足が冷たくなり、立ち尽くしていた。

頭が真っ白で、何も考えられなかった。


彼女の姿に気づいた桐谷智也は一気に酔いが冷めたのか、

有栖川玲奈を力強く突き放し、ソファに手をついて立ち上がる。


玲奈は振り返り、わざとらしく驚いた声をあげた。


「羽菜さん? いつからいらしたの?」


誰かに叩き起こされたように、羽菜の意識が急に現実に引き戻された。

心臓がバクバクと音を立てて跳ねる。


彼女は踵を返して歩き出す。

玄関の扉すら閉め忘れた。


――想定外の出来事というのは、ときに感情よりも先に体が動いてしまう。

涙も出なければ、叫びもしなかった。


ただ、足元がおぼつかなく、視界がにじんでいた。


冷たい春風が頬を刺すように吹きつける。

その風にさらされながら、羽菜の頭の中はだんだん冷静さを取り戻していった。


……桐谷智也はわざわざ運転手に電話させて自分を呼び寄せた。

まさか、あんな場面を見せるためだったのか?


別れたいと言ったとき、自分は何も言わずに応じた。

なのに――なぜ、こんなふうに辱める?


……愛していないから、何をしてもいいとでも思ってるの?


怒りが全身の毛穴から噴き出すようにこみ上げてきた。

歩くほどに、足取りはしっかりし、背筋が伸びていく。


外で待っていた運転手が車のドアを開けて声をかける。


「奥さま、社長からお送りしますようにと指示を受けております」


羽菜はしばらく黙っていたが、やがて無言で車内に腰を下ろした。

運転手が扉を閉め、電話を取り出して報告する。


「社長、奥さまをお乗せしました。これからお送りします。ご安心を」

「……ああ」


通話を終えた智也は、冷たい視線で玲奈を見据えた。


「……わざとだったな、今のは」


玲奈は眉を下げ、いかにも反省したような表情で弁解する。


「羽菜さんがいらっしゃるなんて思わなかったの。

 さっき、ちょっと足を滑らせちゃって……偶然、転んだだけ」


「……俺は酔ってたが、バカじゃない」


玲奈の唇が震え、瞳に涙が溢れる。


「……ごめんなさい。今すぐ羽菜さんに電話して、ちゃんと説明するから……」


手をポケットに伸ばす玲奈を、智也が制止した。


「もういい。余計にこじれるだけだ。……帰ってくれ」

「でも……智也は?」

「……酔ってるだけだ。死にゃしない」


智也はソファに沈み込むように腰を下ろし、眉間を押さえる。

心底からうんざりしているようだった。


玲奈はその場から動けず、肩を震わせながらうつむいた。

泣き声を必死に抑えながら、捨てられた小動物のように見える。


そんな彼女の姿を見て、智也は少しだけ罪悪感をにじませた。


「……別に、お前を責めてるわけじゃない。

 羽菜に非はないのに、俺があんなふうに傷つけるべきじゃなかった」


玲奈がぽつりと呟く。


「……でも、離婚を言い出した時点で、もう傷つけてるよ」


「だからこそ、これ以上、あんな形で追い討ちをかけるべきじゃなかった」


玲奈は小さな声で囁いた。


「……それって、羽菜さんだけじゃなくて、私のことも傷つけてるんだよ」


「……まだ離婚できない。祖母が強く反対してる。

 それに……お前のことを理由にしたのも、あくまで口実だ」


その一言が、玲奈にとっては雷鳴のようだった。

顔色が一気に蒼白になり、唇がわななく。


「……智也、それ……本気で言ってるの? 酔ってるだけ、だよね?」


智也は額を押さえたまま、苦しげに吐き捨てる。


「酔ってるから、つい本音が出たんだろ。……もう帰れ」


これ以上言葉を交わせば、取り返しがつかない気がして。

玲奈は唇を噛み、涙を溜めながら、悔しそうにその場を後にした。


彼女が出ていくのを見届けた後、智也はすぐに玲奈の父親に電話をかける。


「……玲奈のこと、少し注意して見ててください。……また、あんなことが起きないように」


***


翌日の昼――


古美術品修復の店――「古宝修復工房」にて。


桐谷羽菜のもとに、桐谷智也から人が遣わされてきた。

その人物は、手渡された一枚のカードを差し出す。


「奥さま。こちら、社長からの補償です。パスワードは、奥さまのお誕生日です」


羽菜はそのカードを見つめて、ふっと自嘲気味に笑った。


お金は確かに便利だ。

でも、状況によっては、それは立派な“侮辱”にもなり得る。


彼女はそっとカードを押し戻した。


「……彼に伝えてください。私、お金には困っていません」


「それでも、社長からのお気持ちです。

 それに……“目に見えたものがすべてとは限らない。あなたがどんな決断をしても、俺は受け入れる“と、社長が……」


「……そうですか」


使者が去った後。


羽菜はしばらくその場で静かに座っていた。

やがて、荷物をまとめて、近くのレストランに向かう。


その途中――

目の前に、純白のワンピースを着た有栖川玲奈が立っていた。


腕には花束。


「羽菜さん……少し、お話、できますか?」


羽菜は感情を抑えながら、冷たく数秒見つめてから返した。

「……いいわ」


二人は近くのレストランへ入る。


テーブルに花束を置きながら、玲奈はうっとりと花びらをなぞった。


「……智也って、ほんとロマンチストよね。今朝、わざわざ人を遣わせて、私にマリーゴールドを贈ってくれたの。

 マリーゴールドの花言葉は“変わらぬ愛”……時を経ても、彼は私を忘れていなかったの」


羽菜の胸に、苦い想いが込み上げる。


三年間の結婚生活で、彼から花をもらったことは一度もなかった。

祝日だろうと、誕生日だろうと、送られてきたのはカードばかり。


――ロマンチックな男じゃないんじゃなくて、

自分に対しては“その気がなかった”だけ。


マリーゴールド。変わらぬ愛。

……なんて感動的な演出なのかしら。


ウェイターがコーヒーを運んでくる。


玲奈はスプーンでカップをくるくる回しながら、

甘えた声で語り続ける。


「私と智也って、幼なじみなの。小さい頃から、彼は私をとっても大事にしてくれたの」


羽菜はカップを手に取り、一口啜ってから淡々と返す。


「……要点を話して。こっちも暇じゃないから」


玲奈は肩をすくめた。


「へぇ〜、羽菜さんって怒ることもあるんだ。

 智也の前では猫かぶってただけ? 上手いね、演技」


羽菜は笑った。


「私、まだ彼の妻よ?

 深夜に他人の家へ押しかけて、私の夫に抱きついてキスまでして……コーヒーをぶっかけなかっただけ、私の“品”を称えてくれてもいいわね?」


「わお〜。メス虎みたいで怖〜い、お姉さま」


羽菜の手が持っていたカップをわずかに震わせる。

本気でぶっかけてやりたい衝動を、なんとか堪える。


玲奈はしばらく待ったが、コーヒーが飛んでこないことに少し残念そうだった。

罠を張ったのに、乗ってこない。

仕方ない。次の一手を。


彼女はじっと羽菜の顔を見つめ、挑発的に言い放った。


「羽菜さんって頭いいんでしょ? 私の顔を見れば気づくんじゃない? あなたは智也にとって、ただの身代わり。

 ……ご本人が戻ってきたんだから、そろそろ身を引いたらどう?」


「ご本人?」羽菜は小さく笑った。


「有栖川さん、学校行ってなかったの? それとも法律知らない? 私は智也と法的に婚姻関係にある、正式な配偶者よ。私こそが“ご本人”ですが?」


玲奈は舌打ちしながら、あざけるように言った。


「もうすぐ離婚するんでしょ? なに強気になってんの?」


羽菜は背筋を伸ばし、きっぱりと言い返す。


「私たちが離婚しない限り、あなたに出る幕はないわ」


玲奈は鼻で笑い、ついに“切り札”を取り出した。


「三年前、あなたが智也と結婚したのは五千万円のためでしょ? じゃあ、私はその倍、払ってあげる」


財布から取り出した小切手を、テーブルの上にパシッと置く。


「これ、一億円。受け取って、彼から今すぐ手を引いて」


羽菜はちらりと小切手に目をやっただけで、淡々とした声で言った。


「……あのとき、結婚を決めたのは、お金だけが理由じゃない」


「うわ〜出た、正妻アピール。口ではきれいごと言って、実際はちゃっかり金取ってるくせに。嘘くさ~」


羽菜は唇を引き結び、冷ややかに彼女を見つめた。

本気で平手を食らわせたくなるのを、必死に抑え込む。


玲奈は見下すような口ぶりで言い放つ。


「三年前、あんたの祖母が腎不全で移植が必要だったんでしょ? 治療費のために家まで売って、どん底の貧乏。

 そんな時に智也が現れた。金目当てでしょ、どう見ても。

 少し生活が良くなったからって、出自を忘れた? どう頑張っても、所詮は田舎出の野良娘。上流ぶっても、育ちの悪さは隠せないよ」


そう言って、玲奈は小切手を羽菜の方へ押しやり、傲慢な顔で顎を上げた。


「はい、これ持って、変なプライド捨てたら?」


羽菜は驚くほど冷静だった。

彼女は小切手の印章に視線を落とし、静かに口を開いた。


「……このお金、あなたのお父様からもらったのよね? 頼み込むのに、ずいぶん時間かかったでしょう? 

 家族ぐるみで愛人ごっこを応援するなんて、なかなかの“名家”ね。

 お金があっても、心の醜さは隠せないみたいね」


「っ……な、なによ……!」


玲奈の顔が赤くなったり青くなったりしている。


羽菜は立ち上がり、玲奈を見下ろすように言った。


「私は古美術品の修復士です。この業界で本気で稼ぐ気があれば、一億円なんて難しくない。三年前、たとえ智也と結婚しなかったとしても、自分の手でその金額は稼げました」


そう言って、羽菜は小切手を掴み——玲奈の顔に叩きつけた。


「この金、持ってさっさと消えなさい。見てるだけで気分が悪くなるわ」


小切手が顔に当たり、有栖川玲奈の怒りがついに爆発した。


「この……っ!」


彼女は勢いよく羽菜の前へと詰め寄り、手を伸ばして彼女の顔を掴もうとした――


が、その刹那。


横から突然、誰かが飛び込んできて、玲奈の腕をがしっと掴む。


そして——

彼女の顔面に、容赦ない鉄拳の嵐が炸裂した!



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