不意を突かれて、ぱんぱんっと頬を数発叩かれた有栖川玲奈は、その場で呆然とした。
顔は火照るように熱く、耳はキーンと鳴り、目の前に星がちらつく。
生まれてこのかた、一度だって誰にも手を挙げられたことなんてなかった。
怒り狂った玲奈は、相手の腕をつかみ、手当たり次第に引っかいた。
ふたりはそのまま取っ組み合いに。
隅で様子を窺っていた桐谷家の運転手が、慌てて駆け寄り、力任せにふたりを引き離す。
ようやく顔をまともに見た玲奈は、相手が桐谷智也の妹――桐谷南音だと気づき、言葉を失った。
「……南音ちゃん?」
傍らの桐谷羽菜も意外な顔をした。
彼女が巻き込まれるのを恐れ、すぐに南音を背にかばう。
ふと目に入った彼女の手首――玲奈に引っかかれたらしく、血が滲んでいる。
胸がチクリと痛む。
羽菜はバッグから絆創膏を取り出し、丁寧に南音の手首に貼った。
「痛くない?」
「ちょっとしみるけど……大丈夫。お姉ちゃん、顔大丈夫だった?」
「うん、大丈夫」
南音はギュッと眉を寄せ、有栖川玲奈を鋭く睨みつけた。
「こういう女には遠慮しちゃダメ。ビンタで返せばいいの!理屈なんて通じないんだから、ああいうのは」
玲奈はその言葉にカッと頭に血が上る。
怒りを堪えて、無理やり涙を浮かべた。
「南音ちゃん……私たち、小さい頃からずっと仲良しだったのに。私、あなたのこと本当の妹だと思ってたのに……」
「やめてよ。あんたなんか姉だと思ったこと一度もないから」
南音は鼻で笑う。
「お兄ちゃんがあんたにどれだけ優しくしたと思ってるの? うちの家族も、あんたを家族同然に迎え入れたのに……お兄ちゃんが事故でケガしたのを知った瞬間、あんた逃げたじゃん。
今になってノコノコ戻ってきて、しかも人の旦那にベタベタして、ほんっと図々しいわね」
玲奈の顔が青くなり、唇が震える。
「わ、私にも事情があったのよ……」
「へぇ? お兄ちゃんは信じるかもしれないけど、私は絶っ対に信じない」
そのとき、羽菜のスマホが鳴った。
着信は――桐谷智也。
「どこにいる?」
「骨董街の南口、西洋料理のお店」
「ちょうど通りかかった。三分で行く」
電話が切れた。
昨夜の出来事――あのふたりが抱き合っていた光景がフラッシュバックする。
彼女の視線がマリーゴールドに向かう。
気持ちがまたぎゅうっと締めつけられた。
数分後――
桐谷智也が部下を引き連れてレストランに現れた。
颯爽とした姿は、場の空気を一変させる。
その存在感。
その気品。
誰の目にも、まるで映画の主人公のように映る。
玲奈の目が輝いた。駆け寄って涙声で呼びかける。
「智也……!」
「なんでお前がここに?」
玲奈は目を潤ませ、か細い声で訴える。
「羽菜さんに謝りたくて……でも、ろくに話もできないうちに怒られちゃって。南音ちゃんには叩かれるし……」
腫れた頬を指差しながら、しおらしく訴える。
智也は羽菜のほうを見た。
「本当なのか?」
羽菜は笑った。
冷たい、嘲笑のような笑みだった。
――腹黒女の話を信じるんだ。
そのとき、南音が前に出た。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんが怒るわけないじゃん!
二年間、お兄ちゃんがどんなにキレても一度も言い返さなかったじゃない!
私が叩いたのは、この女がお姉ちゃんの顔を引っかこうとしたからだよ!ってかむしろもっと叩いとけばよかった~」
智也の視線が玲奈に向く。
「なんで羽菜の顔を引っかこうとした?」
玲奈は蒼白になり、必死に涙を流した。
「違うの! 羽菜さんと南音ちゃんが、私のこと誤解してるだけ……智也、信じて……!」
彼の胸元に倒れ込もうとする玲奈。
南音がすかさず腕を引っ張って引き離し、怒鳴る。
「骨でも抜けてんの? あんた頭おかしいんじゃない? お兄ちゃんは既婚者だよ? なに自分から抱きついてんの、ばっかじゃないの?」
玲奈は胸を押さえて苦しげに涙をこぼし、ぽろぽろと頬を伝った。
智也は眉をひそめ、南音に向かって口を開いた。
「やめなさい、言い過ぎだ。玲奈は重度のうつ病なんだ、刺激するな」
南音は鼻で笑い返す。
「うつ病を言い訳にして好き勝手してるだけでしょ。
私、うつ病の人たちを何人も見てきたけど、みんなプライド持ってて、優しくて真面目だったよ?
この女は違う、まともな人間やめてお邪魔虫やってるだけ」
玲奈はしゃくり上げながら、ふらふらと外へ駆け出していった。
運転手があわててバッグと小切手を持って追いかける。
智也はすぐに後ろのボディーガードに目配せした。
「後を追って、また自殺なんて騒がれると面倒だ」
「承知しました、社長」
南音は冷たく鼻を鳴らし、
「本当に死にたいなら、誰もいないところで勝手に死ねば? わざわざ泣き喚いて、誰を脅してるのよ」
「南音!」智也の声が鋭くなった。
「言い過ぎだ」
桐谷羽菜が南音の前に立ち、かばうようにして言った。
「責めるなら私を責めて。南音ちゃんは私のために怒ったの」
智也は彼女を見つめ、目元を柔らかくゆるめた。
そして、カバンの中から一本の軟膏を取り出すと、そっと差し出した。
「海外から取り寄せた、傷跡を消すクリームだ。説明書どおりに塗れば、首の傷もきれいになるはず」
薬を見つめながら、羽菜の心は複雑に揺れた。
――この人は、私のことを愛していない。
そう思いながらも、時おり見せる優しさに、少しだけ期待してしまう自分がいた。
……でも、もし本当に大事に思っていたなら。
あんなこと、昨夜みたいなこと、起きなかったはずだ。
痛かった。
心の奥が、ずっと痛い。
問い詰める勇気すら、失っていた。
南音が薬を奪い取るように受け取って、羽菜の手に押し込む。
「お兄ちゃん、もしお姉ちゃんを裏切ったら…私、兄妹やめるから!」
智也はため息をつくように言った。
「大人のことに、子供が口を挟むな」
「私はお姉ちゃんより一つ年下なだけ、十分大人ですぅー!」
無視して羽菜に近づき、優しく言った。
「ご飯食べたか? まだなら、一緒に食べに行こう」
羽菜はその手を触れた瞬間、ビクリと体を震わせて引き抜いた。
「もう食べました」
智也は俯いて彼女を見つめる。
その目は、どこまでも優しかった。
「昨日のこと……誤解だって言ったら、信じる?」
羽菜は首をまっすぐに伸ばし、ややきつい口調で言い放つ。
「私がタイミング悪くお邪魔しただけです」
智也は苦笑し、ため息混じりに言った。
「……送るよ」
羽菜はバッグを手に、無言でレストランを出た。
智也が一歩遅れてついてくる。後ろからはアシスタントが静かに続いた。
店を出てすぐ、通りかかった花屋の前で羽菜がふと足を止め、ドアを押して中へ入る。
マリーゴールドの花束を指差して、迷いなく言った。
「これ、二百本ください。」
店員が一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに笑顔で応じる。
「かしこまりました。少々お待ちください」
包み終えた花束は直径およそ一メートル。想像以上に大きく、そして重い。
羽菜は腕にぎゅっと抱えて店を出た。その顔には達成感がにじむ。
――これは自分で稼いだお金で買ったものだ。
桐谷智也がさっとカードを出そうとしたが、彼女はぴしゃりと手で制した。
「私、お金ならある」
強気な言葉。
――この花は、自分で稼いだお金で買う。それが彼女の小さな誇り。
会計を済ませてから、羽菜は花束をしっかり抱えたまま店の外へ。
大きな花束にすっぽりと埋もれそうな彼女の姿は、まるで細く真っ直ぐな竹のように清楚で凛としていた。
智也が手を伸ばして受け取ろうとしたが、彼女はすっと身を引いてかわした。
宙に浮いたままの手が、ひと呼吸置いて静かに引っ込められる。
二人は無言で並んで歩いた。
彼がぽつりと聞く。
「マリーゴールド、好きなのか?」
「別に」
「じゃあ、なんでそんなに……」
「……なんとなく」
智也は口元に笑みを浮かべた。
「へえ、君が花を買うなんて意外だった。ずっと絵にしか興味ないのかと思ってた」
「私だって女ですから」
いつもは穏やかな羽菜が、今日は明らかに怒っている。
そんな彼女が新鮮で、智也は少し楽しそうに続けた。
「じゃあ他にどんな花が好き? 今度贈るよ」
羽菜は何も言わなかった。
――子どもの頃、山裾で暮らしていた。
その頃から好きだったのは、マーガレット、たんぽぽ、スイートピー、そしてひまわり。
素朴な野の花が、彼女の心に残っている。
高価な花束なんて、感情がこもらない。
――今日のこれは、ただの意地。
もうすぐ古宝修復工房――
彼女が立ち止まり、静かに言った。
「もう、ここまででいいよ」
彼が眉をひそめる。
「職場の人に見られるの、嫌?」
「……どうせ、離婚するんでしょ」
その声は震えていた。
言いながら、自分の胸が裂けるように痛んだ。
智也は何も言わず、彼女の背をただじっと見つめた。
去っていく細い背中が、風に揺れるように頼りなかった。
古宝修復工房の前で、月城悠真とばったり出くわした羽菜。
「うわ、すごい花束。……彼氏から?」
「いえ、自分で買いました」
悠真は笑みを深めた。
「それなら余計に格好いいな。かなり重いでしょ? 持つの手伝うよ」
「ありがとうございます」
彼女が花を手渡すと、悠真は軽く肩をすくめて笑った。
「うちの工房のエースのためだもん、当然さ」
「からかわないでくださいよ、月城さん」
二人は笑い合いながら、並んで店内へ入っていった。
離れた場所でその様子を見ていた桐谷智也は、目の奥をすっと細めた。
冷たい表情でぽつり。
腹立たしい。
本能的に、その男を追い払いたくなる。
でも、自分が思ったほど大人ではないと、気づかされた。
彼は静かにアシスタントに命じる。
「……あの男、調べろ」
「はい、社長」
二人は車に乗って会社へ戻った。
それから三十分後。
アシスタントから連絡が入る。
「社長、調べがつきました。
彼の名前は月城悠真。職業は医師で、古宝は彼の祖父が創業したものです。三年前、奥様との通話記録もありました」
智也はゆっくりと顔を上げた。
その目には、鋭い冷光が宿っていた。
「……月城悠真の旧名を調べろ。“司”って名前じゃなかったのかを」