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第8話 マリーゴールド


不意を突かれて、ぱんぱんっと頬を数発叩かれた有栖川玲奈は、その場で呆然とした。


顔は火照るように熱く、耳はキーンと鳴り、目の前に星がちらつく。


生まれてこのかた、一度だって誰にも手を挙げられたことなんてなかった。

怒り狂った玲奈は、相手の腕をつかみ、手当たり次第に引っかいた。


ふたりはそのまま取っ組み合いに。


隅で様子を窺っていた桐谷家の運転手が、慌てて駆け寄り、力任せにふたりを引き離す。


ようやく顔をまともに見た玲奈は、相手が桐谷智也の妹――桐谷南音だと気づき、言葉を失った。


「……南音ちゃん?」


傍らの桐谷羽菜も意外な顔をした。

彼女が巻き込まれるのを恐れ、すぐに南音を背にかばう。


ふと目に入った彼女の手首――玲奈に引っかかれたらしく、血が滲んでいる。


胸がチクリと痛む。

羽菜はバッグから絆創膏を取り出し、丁寧に南音の手首に貼った。


「痛くない?」

「ちょっとしみるけど……大丈夫。お姉ちゃん、顔大丈夫だった?」

「うん、大丈夫」


南音はギュッと眉を寄せ、有栖川玲奈を鋭く睨みつけた。


「こういう女には遠慮しちゃダメ。ビンタで返せばいいの!理屈なんて通じないんだから、ああいうのは」


玲奈はその言葉にカッと頭に血が上る。

怒りを堪えて、無理やり涙を浮かべた。


「南音ちゃん……私たち、小さい頃からずっと仲良しだったのに。私、あなたのこと本当の妹だと思ってたのに……」


「やめてよ。あんたなんか姉だと思ったこと一度もないから」


南音は鼻で笑う。


「お兄ちゃんがあんたにどれだけ優しくしたと思ってるの? うちの家族も、あんたを家族同然に迎え入れたのに……お兄ちゃんが事故でケガしたのを知った瞬間、あんた逃げたじゃん。

 今になってノコノコ戻ってきて、しかも人の旦那にベタベタして、ほんっと図々しいわね」


玲奈の顔が青くなり、唇が震える。


「わ、私にも事情があったのよ……」

「へぇ? お兄ちゃんは信じるかもしれないけど、私は絶っ対に信じない」


そのとき、羽菜のスマホが鳴った。

着信は――桐谷智也。


「どこにいる?」

「骨董街の南口、西洋料理のお店」

「ちょうど通りかかった。三分で行く」


電話が切れた。


昨夜の出来事――あのふたりが抱き合っていた光景がフラッシュバックする。


彼女の視線がマリーゴールドに向かう。

気持ちがまたぎゅうっと締めつけられた。


数分後――

桐谷智也が部下を引き連れてレストランに現れた。


颯爽とした姿は、場の空気を一変させる。

その存在感。

その気品。


誰の目にも、まるで映画の主人公のように映る。

玲奈の目が輝いた。駆け寄って涙声で呼びかける。


「智也……!」

「なんでお前がここに?」


玲奈は目を潤ませ、か細い声で訴える。


「羽菜さんに謝りたくて……でも、ろくに話もできないうちに怒られちゃって。南音ちゃんには叩かれるし……」


腫れた頬を指差しながら、しおらしく訴える。

智也は羽菜のほうを見た。


「本当なのか?」


羽菜は笑った。

冷たい、嘲笑のような笑みだった。


――腹黒女の話を信じるんだ。


そのとき、南音が前に出た。


「お兄ちゃん、お姉ちゃんが怒るわけないじゃん!

 二年間、お兄ちゃんがどんなにキレても一度も言い返さなかったじゃない!

 私が叩いたのは、この女がお姉ちゃんの顔を引っかこうとしたからだよ!ってかむしろもっと叩いとけばよかった~」


智也の視線が玲奈に向く。


「なんで羽菜の顔を引っかこうとした?」


玲奈は蒼白になり、必死に涙を流した。


「違うの! 羽菜さんと南音ちゃんが、私のこと誤解してるだけ……智也、信じて……!」


彼の胸元に倒れ込もうとする玲奈。

南音がすかさず腕を引っ張って引き離し、怒鳴る。


「骨でも抜けてんの? あんた頭おかしいんじゃない? お兄ちゃんは既婚者だよ? なに自分から抱きついてんの、ばっかじゃないの?」


玲奈は胸を押さえて苦しげに涙をこぼし、ぽろぽろと頬を伝った。

智也は眉をひそめ、南音に向かって口を開いた。


「やめなさい、言い過ぎだ。玲奈は重度のうつ病なんだ、刺激するな」


南音は鼻で笑い返す。


「うつ病を言い訳にして好き勝手してるだけでしょ。

 私、うつ病の人たちを何人も見てきたけど、みんなプライド持ってて、優しくて真面目だったよ? 

 この女は違う、まともな人間やめてお邪魔虫やってるだけ」


玲奈はしゃくり上げながら、ふらふらと外へ駆け出していった。

運転手があわててバッグと小切手を持って追いかける。


智也はすぐに後ろのボディーガードに目配せした。


「後を追って、また自殺なんて騒がれると面倒だ」

「承知しました、社長」


南音は冷たく鼻を鳴らし、

「本当に死にたいなら、誰もいないところで勝手に死ねば? わざわざ泣き喚いて、誰を脅してるのよ」


「南音!」智也の声が鋭くなった。

「言い過ぎだ」


桐谷羽菜が南音の前に立ち、かばうようにして言った。


「責めるなら私を責めて。南音ちゃんは私のために怒ったの」


智也は彼女を見つめ、目元を柔らかくゆるめた。

そして、カバンの中から一本の軟膏を取り出すと、そっと差し出した。


「海外から取り寄せた、傷跡を消すクリームだ。説明書どおりに塗れば、首の傷もきれいになるはず」


薬を見つめながら、羽菜の心は複雑に揺れた。

――この人は、私のことを愛していない。


そう思いながらも、時おり見せる優しさに、少しだけ期待してしまう自分がいた。


……でも、もし本当に大事に思っていたなら。

あんなこと、昨夜みたいなこと、起きなかったはずだ。


痛かった。

心の奥が、ずっと痛い。

問い詰める勇気すら、失っていた。



南音が薬を奪い取るように受け取って、羽菜の手に押し込む。


「お兄ちゃん、もしお姉ちゃんを裏切ったら…私、兄妹やめるから!」


智也はため息をつくように言った。


「大人のことに、子供が口を挟むな」

「私はお姉ちゃんより一つ年下なだけ、十分大人ですぅー!」


無視して羽菜に近づき、優しく言った。


「ご飯食べたか? まだなら、一緒に食べに行こう」


羽菜はその手を触れた瞬間、ビクリと体を震わせて引き抜いた。


「もう食べました」


智也は俯いて彼女を見つめる。

その目は、どこまでも優しかった。



「昨日のこと……誤解だって言ったら、信じる?」


羽菜は首をまっすぐに伸ばし、ややきつい口調で言い放つ。


「私がタイミング悪くお邪魔しただけです」


智也は苦笑し、ため息混じりに言った。


「……送るよ」


羽菜はバッグを手に、無言でレストランを出た。

智也が一歩遅れてついてくる。後ろからはアシスタントが静かに続いた。


店を出てすぐ、通りかかった花屋の前で羽菜がふと足を止め、ドアを押して中へ入る。

マリーゴールドの花束を指差して、迷いなく言った。


「これ、二百本ください。」


店員が一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに笑顔で応じる。


「かしこまりました。少々お待ちください」


包み終えた花束は直径およそ一メートル。想像以上に大きく、そして重い。


羽菜は腕にぎゅっと抱えて店を出た。その顔には達成感がにじむ。

――これは自分で稼いだお金で買ったものだ。


桐谷智也がさっとカードを出そうとしたが、彼女はぴしゃりと手で制した。


「私、お金ならある」


強気な言葉。

――この花は、自分で稼いだお金で買う。それが彼女の小さな誇り。


会計を済ませてから、羽菜は花束をしっかり抱えたまま店の外へ。


大きな花束にすっぽりと埋もれそうな彼女の姿は、まるで細く真っ直ぐな竹のように清楚で凛としていた。


智也が手を伸ばして受け取ろうとしたが、彼女はすっと身を引いてかわした。

宙に浮いたままの手が、ひと呼吸置いて静かに引っ込められる。


二人は無言で並んで歩いた。

彼がぽつりと聞く。


「マリーゴールド、好きなのか?」

「別に」

「じゃあ、なんでそんなに……」

「……なんとなく」


智也は口元に笑みを浮かべた。


「へえ、君が花を買うなんて意外だった。ずっと絵にしか興味ないのかと思ってた」

「私だって女ですから」


いつもは穏やかな羽菜が、今日は明らかに怒っている。

そんな彼女が新鮮で、智也は少し楽しそうに続けた。


「じゃあ他にどんな花が好き? 今度贈るよ」


羽菜は何も言わなかった。


――子どもの頃、山裾で暮らしていた。

その頃から好きだったのは、マーガレット、たんぽぽ、スイートピー、そしてひまわり。

素朴な野の花が、彼女の心に残っている。


高価な花束なんて、感情がこもらない。

――今日のこれは、ただの意地。


もうすぐ古宝修復工房――

彼女が立ち止まり、静かに言った。


「もう、ここまででいいよ」


彼が眉をひそめる。


「職場の人に見られるの、嫌?」

「……どうせ、離婚するんでしょ」


その声は震えていた。

言いながら、自分の胸が裂けるように痛んだ。


智也は何も言わず、彼女の背をただじっと見つめた。

去っていく細い背中が、風に揺れるように頼りなかった。


古宝修復工房の前で、月城悠真とばったり出くわした羽菜。


「うわ、すごい花束。……彼氏から?」

「いえ、自分で買いました」


悠真は笑みを深めた。


「それなら余計に格好いいな。かなり重いでしょ? 持つの手伝うよ」

「ありがとうございます」


彼女が花を手渡すと、悠真は軽く肩をすくめて笑った。


「うちの工房のエースのためだもん、当然さ」

「からかわないでくださいよ、月城さん」


二人は笑い合いながら、並んで店内へ入っていった。


離れた場所でその様子を見ていた桐谷智也は、目の奥をすっと細めた。

冷たい表情でぽつり。


腹立たしい。


本能的に、その男を追い払いたくなる。

でも、自分が思ったほど大人ではないと、気づかされた。


彼は静かにアシスタントに命じる。


「……あの男、調べろ」

「はい、社長」


二人は車に乗って会社へ戻った。


それから三十分後。

アシスタントから連絡が入る。


「社長、調べがつきました。

彼の名前は月城悠真。職業は医師で、古宝は彼の祖父が創業したものです。三年前、奥様との通話記録もありました」


智也はゆっくりと顔を上げた。

その目には、鋭い冷光が宿っていた。


「……月城悠真の旧名を調べろ。“司”って名前じゃなかったのかを」


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