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第9話 緊急事態


会社に戻った智也は、夕方まで忙しさに追われていた。

ネクタイを緩め、冷ややかな眼差しで島田翔太に問いかける。


「調べていた件、進展は?」

「はい。月城悠真に“司”という旧名はありません。ご家族も、彼のことは『悠真』もしくは『悠ちゃん』と呼んでいるようです」


島田の答えに、智也の目元の険がわずかに緩む。

――まあ、予想どおりだ。


「司」は、羽菜がずっと心に秘めている名前。

まだ離婚前の今、彼女がそんな男と堂々とつるむはずがない。


彼女は若いが、常に分をわきまえている。

椅子を押して立ち上がると、ジャケットのボタンを留めながら言った。


「夜の本田さんとの会食、他のやつに行かせろ。俺は外せない用がある」

「承知しました。こちらで対応します」


島田が手際よくデスクの書類を整理する。


会社を出て、自ら運転し、彼が向かったのは――古宝修復工房。


夕陽が地平に沈み始め、空が茜に染まる頃、彼は車内から羽菜に電話をかけた。


「工房の前にいる。出て来て」


少し驚いたような声が返ってきた。


「え? 今、同僚たちと外で食事してるよ」

「誰がいる?」

「工房の全員だけど?」

「月城悠真も?」

「うん…。彼は古宝修復工房のオーナーだから」


昼間、ふたりが笑い合っていた姿が脳裏をよぎる。

胸の奥がざわつく。


だが声色には出さない。


「食事会が終わったら、迎えに行く」

「……ありがとう」


羽菜の声は礼儀正しく、それでいて冷たかった。

意図的に距離を置こうとしているのがわかる。

その応対が少し癪に障る。


握ったスマホを無意識に強く握りしめる。

通話を切ると、智也は別の番号を呼び出す。


「飲みに行くぞ」

電話口から間延びした声が返ってきた。


「えっ、兄貴? まだ夕方だぞ?」

「判子と売却契約書を持って、30分以内に『今醉』に来い。時間厳守」


声色にいつもの余裕がなかった。

逸也の眠気が一瞬で吹き飛ぶ。


「お、おう! すぐ行く!」


三十分後、「今醉」三階。


契約、押印、送金……

十人以上が慌ただしく立ち働き、宴どころではない空気が流れていた。


一通りの手続きが済み、最後に残ったのは――

桐谷智也と、ある美青年・従兄弟の藤堂逸也。


逸也は椅子にぐったりと背を預け、肩肘をついて智也を見やった。


「……機嫌悪い?」

「別に」


智也は淡々と酒を口に運ぶ。

その仕草すら絵になるほど美しい。


逸也は肩をすくめ、酒を手に取りながら冗談めかす。


「へぇ……じゃあなんでこんなとこでしょんぼり酒なんか飲んでんのよ?

 普通の男なら、気分が沈んだら女でも抱きに行くってのに、アンタは土地買って憂さ晴らしかよ。

 次落ち込んだら声かけてくれよな。俺の親父にはまだ土地あるからさ」


「俺を金ヅルにするな。契約は元々来週だったのを、ちょっと早めただけだ」


智也はグラスを置き、口を拭った。

逸也は笑って酒瓶を手に取り、彼のグラスに注ぎ足す。


「……で?有栖川玲奈が帰国したって聞いたけど、最近けっこう会ってるらしいじゃん?」


桐谷は瞼を少しだけ持ち上げて、静かに言う。


「言いたいことがあるなら、はっきり言え」


「……羽菜ちゃんは、本当にいい子だ。……大事にしろよ」


珍しく真顔の逸也に、智也は口元にうっすら笑みを浮かべる。


「三年前、俺が羽菜と結婚すると言ったとき、お前なんて言った? “あんな女、お前には釣り合わない”って、めちゃくちゃ反対してたくせに。」


「だってあの頃は、羽菜ちゃんのこと金目当てで結婚する女だと思ってたからさ。

 でも違った。あの子は本気だった。

 金目当てなら、とっくに逃げてる。あんたの面倒なんて、黙って何年も見れやしない」


「……そうだな」


グラスの中の酒を見つめながら、智也が静かに言った。


「だったら、どうして――」


「三年前、彼女は家の事情で金が必要になって…渋々、俺と結婚した。

 ……口には出さなかったけど、きっと苦しかった。

 もう、あいつを縛りつけたくない」


「……そんな理由で、離婚するのか?」


「そんなとこだ」


逸也は顔をしかめた。


「もったいねぇ……あんなにいい子、よく手放せるな」

「じゃあどうする? 無理に繋いで、苦しませるのか?」


――夜ごと、夢で泣く彼女を見てきた。

夢の中で彼女が叫ぶのは、自分ではない“司”という男の名前。


その現実に、もう耐えられなかった。

彼女を傷つけ続けるのも、惨めな思いをするのも……もう限界だった。


男としてのプライドが許せなかった。

けれど、手放す勇気もなかった。

その矛盾に、彼は苦しめられていた。


グラスの酒を一気にあおる。

透明な酒が喉を焼く。

熱く、苦い。

胸の奥が、ヒリつくように痛い。


その時、部屋のドアがノックされた。


「どうぞー」と逸也が応じると、

ドアが開き、入ってきたのは有栖川玲奈だった。


白のシフォンブラウスにタイトスカート、全身カ◯ティエのジュエリー、手にはエル◯スのバッグ


智也の目が冷たくなる。

「どうしてここに?」


玲奈はしなやかに歩み寄り、椅子の背に手をかけて智也に顔を寄せる。

香水の香りがふわりと広がる。


「智也がここにいるって聞いて……ご挨拶に来ただけ」


智也は首をそらし、距離を取る。


「……座れ」

「ありがとう♪」


玲奈は上機嫌で椅子に腰を下ろし、ジャケットを椅子の背にかけた。


智也がメニューを差し出す。

「好きに頼め」


玲奈は手を振って笑った。


「いらないわ。智也の好きなもの、全部私も好きだから」


逸也は腕をさすって鳥肌をこらえた。


玲奈はテーブルの北海甘エビを皿に取り、自分の前へ置いて、うるうるした瞳で智也を見上げる。


「ねえ、海老食べたいの。剥いて?」


逸也が呆れ顔。


「手ぐらいあるだろ」


「やだ〜、私、生まれてから一度も自分で剥いたことないの。ずっとパパとママがやってくれてたし、智也も昔いつも剥いてくれてたじゃない」


玲奈は甘えた声で彼の腕にしがみつき、くねくねと身を寄せる。


「お願い。智也が剥いてくれたエビ、食べたいの♡」


智也はため息まじりに、手袋をはめて海老を剥き始めた。


――ふと、桐谷羽菜が器用にエビを剥いてくれた姿が脳裏をよぎる。


彼女の剥いたエビは、殻がきれいなまま、身がつるんと出ていた。

自分にはできなかった。


エビを剥き終えて、玲奈の皿に置いたその瞬間――


玲奈が急に彼の指を口で受け止め、舌で絡めるようにキスをした。


そのまま海老を口にし、蕩けるような笑みを浮かべる。


「やっぱ智也が剥いた海老、美味しい♡」


智也は動きを止め、複雑な表情を浮かべると、手袋を外し、消毒用タオルで丁寧に指を拭いた。


逸也はゾッとし、内心ではテーブルをひっくり返したい気分。

――まだ離婚してないのに、こいつ何やってんだ!?


すぐにスマホを取り出し、羽菜にメッセージを送る。


『羽菜ちゃん!あなたの旦那さん、酔って暴走中。マジで危ないからすぐ来て。今醉、三階!』


ちょうどその頃、羽菜は同僚たちと会食中だった。

メッセージを見て即座に逸也に電話をかける。


……が、ワンコールで切られる。


彼女が智也にかけ直そうとした矢先――

逸也から再びメッセージ。


『急げ急げ急げ!マジでやばい!命に関わる!!』


羽菜の胸に、鈍い不安がずしりと落ちた。


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