会社に戻った智也は、夕方まで忙しさに追われていた。
ネクタイを緩め、冷ややかな眼差しで島田翔太に問いかける。
「調べていた件、進展は?」
「はい。月城悠真に“司”という旧名はありません。ご家族も、彼のことは『悠真』もしくは『悠ちゃん』と呼んでいるようです」
島田の答えに、智也の目元の険がわずかに緩む。
――まあ、予想どおりだ。
「司」は、羽菜がずっと心に秘めている名前。
まだ離婚前の今、彼女がそんな男と堂々とつるむはずがない。
彼女は若いが、常に分をわきまえている。
椅子を押して立ち上がると、ジャケットのボタンを留めながら言った。
「夜の本田さんとの会食、他のやつに行かせろ。俺は外せない用がある」
「承知しました。こちらで対応します」
島田が手際よくデスクの書類を整理する。
会社を出て、自ら運転し、彼が向かったのは――古宝修復工房。
夕陽が地平に沈み始め、空が茜に染まる頃、彼は車内から羽菜に電話をかけた。
「工房の前にいる。出て来て」
少し驚いたような声が返ってきた。
「え? 今、同僚たちと外で食事してるよ」
「誰がいる?」
「工房の全員だけど?」
「月城悠真も?」
「うん…。彼は古宝修復工房のオーナーだから」
昼間、ふたりが笑い合っていた姿が脳裏をよぎる。
胸の奥がざわつく。
だが声色には出さない。
「食事会が終わったら、迎えに行く」
「……ありがとう」
羽菜の声は礼儀正しく、それでいて冷たかった。
意図的に距離を置こうとしているのがわかる。
その応対が少し癪に障る。
握ったスマホを無意識に強く握りしめる。
通話を切ると、智也は別の番号を呼び出す。
「飲みに行くぞ」
電話口から間延びした声が返ってきた。
「えっ、兄貴? まだ夕方だぞ?」
「判子と売却契約書を持って、30分以内に『今醉』に来い。時間厳守」
声色にいつもの余裕がなかった。
逸也の眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
「お、おう! すぐ行く!」
三十分後、「今醉」三階。
契約、押印、送金……
十人以上が慌ただしく立ち働き、宴どころではない空気が流れていた。
一通りの手続きが済み、最後に残ったのは――
桐谷智也と、ある美青年・従兄弟の藤堂逸也。
逸也は椅子にぐったりと背を預け、肩肘をついて智也を見やった。
「……機嫌悪い?」
「別に」
智也は淡々と酒を口に運ぶ。
その仕草すら絵になるほど美しい。
逸也は肩をすくめ、酒を手に取りながら冗談めかす。
「へぇ……じゃあなんでこんなとこでしょんぼり酒なんか飲んでんのよ?
普通の男なら、気分が沈んだら女でも抱きに行くってのに、アンタは土地買って憂さ晴らしかよ。
次落ち込んだら声かけてくれよな。俺の親父にはまだ土地あるからさ」
「俺を金ヅルにするな。契約は元々来週だったのを、ちょっと早めただけだ」
智也はグラスを置き、口を拭った。
逸也は笑って酒瓶を手に取り、彼のグラスに注ぎ足す。
「……で?有栖川玲奈が帰国したって聞いたけど、最近けっこう会ってるらしいじゃん?」
桐谷は瞼を少しだけ持ち上げて、静かに言う。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「……羽菜ちゃんは、本当にいい子だ。……大事にしろよ」
珍しく真顔の逸也に、智也は口元にうっすら笑みを浮かべる。
「三年前、俺が羽菜と結婚すると言ったとき、お前なんて言った? “あんな女、お前には釣り合わない”って、めちゃくちゃ反対してたくせに。」
「だってあの頃は、羽菜ちゃんのこと金目当てで結婚する女だと思ってたからさ。
でも違った。あの子は本気だった。
金目当てなら、とっくに逃げてる。あんたの面倒なんて、黙って何年も見れやしない」
「……そうだな」
グラスの中の酒を見つめながら、智也が静かに言った。
「だったら、どうして――」
「三年前、彼女は家の事情で金が必要になって…渋々、俺と結婚した。
……口には出さなかったけど、きっと苦しかった。
もう、あいつを縛りつけたくない」
「……そんな理由で、離婚するのか?」
「そんなとこだ」
逸也は顔をしかめた。
「もったいねぇ……あんなにいい子、よく手放せるな」
「じゃあどうする? 無理に繋いで、苦しませるのか?」
――夜ごと、夢で泣く彼女を見てきた。
夢の中で彼女が叫ぶのは、自分ではない“司”という男の名前。
その現実に、もう耐えられなかった。
彼女を傷つけ続けるのも、惨めな思いをするのも……もう限界だった。
男としてのプライドが許せなかった。
けれど、手放す勇気もなかった。
その矛盾に、彼は苦しめられていた。
グラスの酒を一気にあおる。
透明な酒が喉を焼く。
熱く、苦い。
胸の奥が、ヒリつくように痛い。
その時、部屋のドアがノックされた。
「どうぞー」と逸也が応じると、
ドアが開き、入ってきたのは有栖川玲奈だった。
白のシフォンブラウスにタイトスカート、全身カ◯ティエのジュエリー、手にはエル◯スのバッグ
智也の目が冷たくなる。
「どうしてここに?」
玲奈はしなやかに歩み寄り、椅子の背に手をかけて智也に顔を寄せる。
香水の香りがふわりと広がる。
「智也がここにいるって聞いて……ご挨拶に来ただけ」
智也は首をそらし、距離を取る。
「……座れ」
「ありがとう♪」
玲奈は上機嫌で椅子に腰を下ろし、ジャケットを椅子の背にかけた。
智也がメニューを差し出す。
「好きに頼め」
玲奈は手を振って笑った。
「いらないわ。智也の好きなもの、全部私も好きだから」
逸也は腕をさすって鳥肌をこらえた。
玲奈はテーブルの北海甘エビを皿に取り、自分の前へ置いて、うるうるした瞳で智也を見上げる。
「ねえ、海老食べたいの。剥いて?」
逸也が呆れ顔。
「手ぐらいあるだろ」
「やだ〜、私、生まれてから一度も自分で剥いたことないの。ずっとパパとママがやってくれてたし、智也も昔いつも剥いてくれてたじゃない」
玲奈は甘えた声で彼の腕にしがみつき、くねくねと身を寄せる。
「お願い。智也が剥いてくれたエビ、食べたいの♡」
智也はため息まじりに、手袋をはめて海老を剥き始めた。
――ふと、桐谷羽菜が器用にエビを剥いてくれた姿が脳裏をよぎる。
彼女の剥いたエビは、殻がきれいなまま、身がつるんと出ていた。
自分にはできなかった。
エビを剥き終えて、玲奈の皿に置いたその瞬間――
玲奈が急に彼の指を口で受け止め、舌で絡めるようにキスをした。
そのまま海老を口にし、蕩けるような笑みを浮かべる。
「やっぱ智也が剥いた海老、美味しい♡」
智也は動きを止め、複雑な表情を浮かべると、手袋を外し、消毒用タオルで丁寧に指を拭いた。
逸也はゾッとし、内心ではテーブルをひっくり返したい気分。
――まだ離婚してないのに、こいつ何やってんだ!?
すぐにスマホを取り出し、羽菜にメッセージを送る。
『羽菜ちゃん!あなたの旦那さん、酔って暴走中。マジで危ないからすぐ来て。今醉、三階!』
ちょうどその頃、羽菜は同僚たちと会食中だった。
メッセージを見て即座に逸也に電話をかける。
……が、ワンコールで切られる。
彼女が智也にかけ直そうとした矢先――
逸也から再びメッセージ。
『急げ急げ急げ!マジでやばい!命に関わる!!』
羽菜の胸に、鈍い不安がずしりと落ちた。