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第10話 兄


智也に何かあったと勘違いし、

羽菜は慌てて上着を掴んで立ち上がった。


挨拶もそこそこに、早足でレストランを後にする。

同じテーブルにいた月城悠真が、彼女の表情を見て立ち上がった。


「どうした?」


羽菜はなんとか笑顔を作った。


「ちょっと今醉に行ってくるわ。みんなゆっくりしてて」


悠真が手にしていた車のキーを軽く揺らす。

「送るよ」


彼女は内心焦っていたが、それ以上断らず、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


二十分後、車は今醉の前に到着。


羽菜は車を降りると、風にコートの裾を翻しながら、急ぎ足で入口へ。


エレベーターで三階へ直行。


ドアを開けた瞬間――

視界に飛び込んできたのは、玲奈がスープを智也の唇に運んでいる姿。


二人は肩を寄せ合い、玲奈の頬はほんのり赤らみ、潤んだ瞳で彼を見つめながら、スプーンを差し出していた。

あまりに親密な光景に、羽菜はその場に凍りつく。


ドアノブを握る指が白くなり、胸の奥に鋭い棘が刺さったように痛んだ。


視線を智也に移す。

彼はグラスを手に持ち、目元も表情も冴えていて、酔っている気配など一切ない。


玲奈は羽菜に気づくと、挑発するように智也の肩にさらに寄り添い、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


羽菜は自嘲するように微笑む。


「お邪魔しました」


それだけ言うと、踵を返した。


逸也が慌てて椅子を蹴って立ち、羽菜の腕をつかんで引き止め、智也の隣の席にぐっと座らせた。


「羽菜ちゃん、座るべき場所はここでしょ」


軽く肩に手を置いて、落ち着けと合図する。


智也はその手が置かれた彼女の肩を一瞥し、一拍置いてから消毒用のタオルで拭った。


羽菜は静かに笑った。

逸也に肩を叩かれたことすら、彼にとっては汚れなのか。


なら、彼自身はどうなの?

玲奈と腕を組み、顔を寄せ合い、互いに食べさせ合って……


――いったい、どっちが汚れてる?


唇を強く引き結び、胸の内に渦巻く言葉を必死に飲み込む。

三年間の結婚生活。


一度も口論せず、喧嘩もせず。


彼が怪我で車椅子生活だった頃も、怒鳴り散らし物を壊す彼の側に、ずっといた。


今、離婚目前になってまで、怒りに身を任せる必要もない。

――自分が悪い。


彼に何かあったと聞いて、こんなにも慌てて駆けつけた。

その結果がこれなら、自業自得だ。


沈黙が落ちた空間で、智也がふいに口を開いた。


「玲奈、帰れ」


玲奈は口を尖らせ、不満げな顔をしたが、しぶしぶ立ち上がった。


「羽菜さん、怒らないでね。智也と私は、ただご飯食べてただけよ。逸也くんが証人」


逸也は端に座ったまま、盛大に白目を剥いていた。

――あれが“ただの食事”?


どっからどう見てもイチャイチャしようとしてんじゃねぇか!


見苦しい女だと心底思いながら、逸也は無言で視線をそらした。

玲奈は誰にも引き留められることなく、コートを手にして帰ろうとする。


その瞬間――

ガシャッ!


コートの裾がテーブルのティーカップを引っ掛け、ガラスが床に砕け散る。


慌ててしゃがんだ彼女は、指先を破片で切り、血がにじむ。


「きゃっ……!」


小さな悲鳴とともに、うるんだ目で指を押さえながら震えた声。


「痛い……智也、病院連れてって……?」


逸也がさっさと立ち上がる。


「俺が連れてく。羽菜ちゃんもいるんだから、これ以上邪魔するな」


玲奈の目がキッと鋭くなる。

だが、血のついた指で智也の袖をつかみ、しがみついた。


「……智也がいいの。智也じゃなきゃやだ」


智也は無言で立ち上がり、羽菜に言う。


「逸也に送ってもらえ。俺は先に玲奈を病院に連れていく。あとで迎えに行く」


そう言って、玲奈の肩を支えながら、彼女のバッグを持って出て行った。


羽菜は、まるで嵐の目にいるような冷静さだった。


「お会計お願いします」


淡々と伝え、残った料理をひとつひとつ丁寧に包んでもらう。

きちんと領収書を受け取り、サービスにも礼を述べ、さりげなくチップを渡した。


その所作は、完璧な淑女そのものだった。

――彼と玲奈が戻ってくる前に、去る。

それだけが今の望みだった。


エレベーターを待つ間、逸也が羽菜を見つめる。

あまりにも冷静すぎて、逆に胸が痛む。


「羽菜ちゃん……本当に、いい女だよ」

「ありがとう」


羽菜は背筋を伸ばし、微笑む。

しかし、それは遺影の中の笑顔のように、静かで哀しい。


逸也はため息をつき、ぼそっと言った。


「いい女すぎると、つまらないって思う男もいるんだよな……外ではしっかり、でも家の中じゃ少しわがまま言って、甘えて、ちょっと図々しくなるくらいがちょうどいい」


「有栖川さんって……そういうタイプ?」


「うん、マジでやばい!俺いなかったら、ここで兄貴とヤッてもおかしくないくらい!」


「……」


「羽菜ちゃんも、もっと戦っていい。兄貴の心をちゃんと取り戻して」


羽菜は手にしたテイクアウト袋の紐をギュッと握った。

本気で想えば伝わると思っていた。


けれど、それだけじゃ足りないなんて――知らなかった。

でも……自分は、玲奈のようにはなれない。


小さい頃から祖父母に育てられ、真面目な祖父、品のある祖母、直情型の母。

“奔放”なんて、教わったこともない。


今酔を出たとき、驚いたことに――

桐谷智也がまだいた。


車のそばに立ち、タバコを片手に待っていた。

二人が姿を見せると、タバコを消し、羽菜に歩み寄る。


その肩に優しく手を添え、顔を覗き込む。


「すぐ戻る。……だから、変なこと考えないで」


羽菜は、哀しみを隠して微笑んだ。

――どうせなら、もっと酷く傷つけてほしかった。


こんな優しさを向けられたら、憎むことすらできない。


「早く行ってあげて、病院」


その言葉に、彼は何も言わず、車に乗った。


羽菜は逸也に向き直る。


「同僚たちとの食事、まだ終わってないの。もういいわ、私ひとりで戻るから」


「わかった。でも、俺たちはみんな、羽菜ちゃんの味方だからな」


「……ありがとう」


彼女は月城悠真の車に乗り込んだ。

エンジンをかけながら、彼がふと聞く。


「さっきの人は?」

「……どの?」

「桐谷智也…だよね?桐谷グループ会社の」


言葉に詰まる。

“元夫”と言うにはまだ離婚していない。

“夫”と言うには、すでに彼の心は他の女に向いている。


「……親戚」

「え、同じ苗字ってことは……お兄さん?」

「……うん」


三年前、彼が車椅子生活だった頃に入籍だけ済ませた結婚。式もなかった。

離婚目前の今、あえて説明する必要もない。


彼女の元気がないことに気づいた悠真が優しく声をかける。


「大丈夫?」

「うん」

「嘘だ!顔に書いてある」

「……月城さん、男の人って…どういう女性が好き?」


月城悠真は笑う。


「好みは人それぞれだよ」


彼女の横顔をちらりと見る。

白く小さな顔、ぱっちりとした大きな目、長く美しいまつ毛。

街灯の光に照らされて、まるで絵画のように儚い。


「俺は――桐谷さんみたいな人が好きかなー。

 穏やかで、静かで、美しいのに自覚がない。控えめなのに、才気あふれてる」


羽菜は微笑んだ。

――こういう自分みたいな人を、好きだと言ってくれる人もいる。


媚びなくても、図々しくもなくていい。

それでも、愛される価値があると、初めて知った。


「ただの修復士ですよ? そんな大げさな……」


「大げさなんかじゃない。あなたの修復技術は業界トップクラス。専門家でも敵わない人が多い」


「祖父の教えのおかげです。中途半端じゃ顔向けできないですから」


「性格と根気も才能だよ。若い人は続かないし。あなたの代で絶えるのはもったいない」


「そうですか……」


車が角を曲がったとき、羽菜がふと言った。


「……家まで送ってもいいのでしょうか」

「いいよ」


やがて、涼宮家のマンションに到着。

テイクアウトの袋を提げて、羽菜は車を降りた。


悠真も一緒に降り、「こんな時間だし、エントランスまで送るよ」と微笑む。

「ありがとうございます」と羽菜も礼を返す。



月城悠真は、食事をしてなお持ち帰りを頼む彼女の姿を見て、心の中で感心していた。

――富裕層の子息たちの中で、こんな気遣いをする人はそういない。


エントランスまで見送り、そのまま帰るつもりだったが、名残惜しそうにそのまま仕事の話を続ける。


月が綺麗で、ふたりの距離も近く感じる。

……しかし、ふいに羽菜の瞳が凍りついた。


視線の先から、すらりとした高身長の男がゆっくりと歩いてくる。

――桐谷智也だった。


(……病院、行ったんじゃなかったの?)


不審に思う間もなく、悠真が笑顔で口を開いた。


「お兄さん、帰ったみたいだね」


羽菜は淡々と返した。

「……ええ」


智也が近づくと、悠真は気さくに手を差し出し、自己紹介する。


「はじめまして。桐谷さんのお兄様ですよね?僕は同僚の月城悠真です」


桐谷智也の瞳が冷たく光る。

そして、羽菜に鋭く視線を向けた。


「……俺が、“兄”?」


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