智也に何かあったと勘違いし、
羽菜は慌てて上着を掴んで立ち上がった。
挨拶もそこそこに、早足でレストランを後にする。
同じテーブルにいた月城悠真が、彼女の表情を見て立ち上がった。
「どうした?」
羽菜はなんとか笑顔を作った。
「ちょっと今醉に行ってくるわ。みんなゆっくりしてて」
悠真が手にしていた車のキーを軽く揺らす。
「送るよ」
彼女は内心焦っていたが、それ以上断らず、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
二十分後、車は今醉の前に到着。
羽菜は車を降りると、風にコートの裾を翻しながら、急ぎ足で入口へ。
エレベーターで三階へ直行。
ドアを開けた瞬間――
視界に飛び込んできたのは、玲奈がスープを智也の唇に運んでいる姿。
二人は肩を寄せ合い、玲奈の頬はほんのり赤らみ、潤んだ瞳で彼を見つめながら、スプーンを差し出していた。
あまりに親密な光景に、羽菜はその場に凍りつく。
ドアノブを握る指が白くなり、胸の奥に鋭い棘が刺さったように痛んだ。
視線を智也に移す。
彼はグラスを手に持ち、目元も表情も冴えていて、酔っている気配など一切ない。
玲奈は羽菜に気づくと、挑発するように智也の肩にさらに寄り添い、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
羽菜は自嘲するように微笑む。
「お邪魔しました」
それだけ言うと、踵を返した。
逸也が慌てて椅子を蹴って立ち、羽菜の腕をつかんで引き止め、智也の隣の席にぐっと座らせた。
「羽菜ちゃん、座るべき場所はここでしょ」
軽く肩に手を置いて、落ち着けと合図する。
智也はその手が置かれた彼女の肩を一瞥し、一拍置いてから消毒用のタオルで拭った。
羽菜は静かに笑った。
逸也に肩を叩かれたことすら、彼にとっては汚れなのか。
なら、彼自身はどうなの?
玲奈と腕を組み、顔を寄せ合い、互いに食べさせ合って……
――いったい、どっちが汚れてる?
唇を強く引き結び、胸の内に渦巻く言葉を必死に飲み込む。
三年間の結婚生活。
一度も口論せず、喧嘩もせず。
彼が怪我で車椅子生活だった頃も、怒鳴り散らし物を壊す彼の側に、ずっといた。
今、離婚目前になってまで、怒りに身を任せる必要もない。
――自分が悪い。
彼に何かあったと聞いて、こんなにも慌てて駆けつけた。
その結果がこれなら、自業自得だ。
沈黙が落ちた空間で、智也がふいに口を開いた。
「玲奈、帰れ」
玲奈は口を尖らせ、不満げな顔をしたが、しぶしぶ立ち上がった。
「羽菜さん、怒らないでね。智也と私は、ただご飯食べてただけよ。逸也くんが証人」
逸也は端に座ったまま、盛大に白目を剥いていた。
――あれが“ただの食事”?
どっからどう見てもイチャイチャしようとしてんじゃねぇか!
見苦しい女だと心底思いながら、逸也は無言で視線をそらした。
玲奈は誰にも引き留められることなく、コートを手にして帰ろうとする。
その瞬間――
ガシャッ!
コートの裾がテーブルのティーカップを引っ掛け、ガラスが床に砕け散る。
慌ててしゃがんだ彼女は、指先を破片で切り、血がにじむ。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴とともに、うるんだ目で指を押さえながら震えた声。
「痛い……智也、病院連れてって……?」
逸也がさっさと立ち上がる。
「俺が連れてく。羽菜ちゃんもいるんだから、これ以上邪魔するな」
玲奈の目がキッと鋭くなる。
だが、血のついた指で智也の袖をつかみ、しがみついた。
「……智也がいいの。智也じゃなきゃやだ」
智也は無言で立ち上がり、羽菜に言う。
「逸也に送ってもらえ。俺は先に玲奈を病院に連れていく。あとで迎えに行く」
そう言って、玲奈の肩を支えながら、彼女のバッグを持って出て行った。
羽菜は、まるで嵐の目にいるような冷静さだった。
「お会計お願いします」
淡々と伝え、残った料理をひとつひとつ丁寧に包んでもらう。
きちんと領収書を受け取り、サービスにも礼を述べ、さりげなくチップを渡した。
その所作は、完璧な淑女そのものだった。
――彼と玲奈が戻ってくる前に、去る。
それだけが今の望みだった。
エレベーターを待つ間、逸也が羽菜を見つめる。
あまりにも冷静すぎて、逆に胸が痛む。
「羽菜ちゃん……本当に、いい女だよ」
「ありがとう」
羽菜は背筋を伸ばし、微笑む。
しかし、それは遺影の中の笑顔のように、静かで哀しい。
逸也はため息をつき、ぼそっと言った。
「いい女すぎると、つまらないって思う男もいるんだよな……外ではしっかり、でも家の中じゃ少しわがまま言って、甘えて、ちょっと図々しくなるくらいがちょうどいい」
「有栖川さんって……そういうタイプ?」
「うん、マジでやばい!俺いなかったら、ここで兄貴とヤッてもおかしくないくらい!」
「……」
「羽菜ちゃんも、もっと戦っていい。兄貴の心をちゃんと取り戻して」
羽菜は手にしたテイクアウト袋の紐をギュッと握った。
本気で想えば伝わると思っていた。
けれど、それだけじゃ足りないなんて――知らなかった。
でも……自分は、玲奈のようにはなれない。
小さい頃から祖父母に育てられ、真面目な祖父、品のある祖母、直情型の母。
“奔放”なんて、教わったこともない。
今酔を出たとき、驚いたことに――
桐谷智也がまだいた。
車のそばに立ち、タバコを片手に待っていた。
二人が姿を見せると、タバコを消し、羽菜に歩み寄る。
その肩に優しく手を添え、顔を覗き込む。
「すぐ戻る。……だから、変なこと考えないで」
羽菜は、哀しみを隠して微笑んだ。
――どうせなら、もっと酷く傷つけてほしかった。
こんな優しさを向けられたら、憎むことすらできない。
「早く行ってあげて、病院」
その言葉に、彼は何も言わず、車に乗った。
羽菜は逸也に向き直る。
「同僚たちとの食事、まだ終わってないの。もういいわ、私ひとりで戻るから」
「わかった。でも、俺たちはみんな、羽菜ちゃんの味方だからな」
「……ありがとう」
彼女は月城悠真の車に乗り込んだ。
エンジンをかけながら、彼がふと聞く。
「さっきの人は?」
「……どの?」
「桐谷智也…だよね?桐谷グループ会社の」
言葉に詰まる。
“元夫”と言うにはまだ離婚していない。
“夫”と言うには、すでに彼の心は他の女に向いている。
「……親戚」
「え、同じ苗字ってことは……お兄さん?」
「……うん」
三年前、彼が車椅子生活だった頃に入籍だけ済ませた結婚。式もなかった。
離婚目前の今、あえて説明する必要もない。
彼女の元気がないことに気づいた悠真が優しく声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
「嘘だ!顔に書いてある」
「……月城さん、男の人って…どういう女性が好き?」
月城悠真は笑う。
「好みは人それぞれだよ」
彼女の横顔をちらりと見る。
白く小さな顔、ぱっちりとした大きな目、長く美しいまつ毛。
街灯の光に照らされて、まるで絵画のように儚い。
「俺は――桐谷さんみたいな人が好きかなー。
穏やかで、静かで、美しいのに自覚がない。控えめなのに、才気あふれてる」
羽菜は微笑んだ。
――こういう自分みたいな人を、好きだと言ってくれる人もいる。
媚びなくても、図々しくもなくていい。
それでも、愛される価値があると、初めて知った。
「ただの修復士ですよ? そんな大げさな……」
「大げさなんかじゃない。あなたの修復技術は業界トップクラス。専門家でも敵わない人が多い」
「祖父の教えのおかげです。中途半端じゃ顔向けできないですから」
「性格と根気も才能だよ。若い人は続かないし。あなたの代で絶えるのはもったいない」
「そうですか……」
車が角を曲がったとき、羽菜がふと言った。
「……家まで送ってもいいのでしょうか」
「いいよ」
やがて、涼宮家のマンションに到着。
テイクアウトの袋を提げて、羽菜は車を降りた。
悠真も一緒に降り、「こんな時間だし、エントランスまで送るよ」と微笑む。
「ありがとうございます」と羽菜も礼を返す。
月城悠真は、食事をしてなお持ち帰りを頼む彼女の姿を見て、心の中で感心していた。
――富裕層の子息たちの中で、こんな気遣いをする人はそういない。
エントランスまで見送り、そのまま帰るつもりだったが、名残惜しそうにそのまま仕事の話を続ける。
月が綺麗で、ふたりの距離も近く感じる。
……しかし、ふいに羽菜の瞳が凍りついた。
視線の先から、すらりとした高身長の男がゆっくりと歩いてくる。
――桐谷智也だった。
(……病院、行ったんじゃなかったの?)
不審に思う間もなく、悠真が笑顔で口を開いた。
「お兄さん、帰ったみたいだね」
羽菜は淡々と返した。
「……ええ」
智也が近づくと、悠真は気さくに手を差し出し、自己紹介する。
「はじめまして。桐谷さんのお兄様ですよね?僕は同僚の月城悠真です」
桐谷智也の瞳が冷たく光る。
そして、羽菜に鋭く視線を向けた。
「……俺が、“兄”?」