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第11話 そんなふうに、惑わせないで


羽菜はわずかに顔を上げ、穏やかな表情で彼を見た。


「……はい、兄です」


澄んだ瞳には、ほんの少しの反抗心が灯っていた。

――優しさに慣れた人は、反抗さえも静かなんだな。


智也は、最初は叱りつけるつもりだったが、その表情を見て不意に気持ちが和らいだ。

ふっと口元を緩めて言った。


「いいよ、“兄”で」


そう言うと、彼は片腕を伸ばして、彼女をぐっと抱き寄せた。

不意を突かれた羽菜は、ふわりと彼の胸の中へ倒れこむ。


タバコと酒が混ざった大人の香りに、どこか甘い匂いが混ざっている。

――有栖川玲奈の香水だ。


一気に胸がムカムカして、羽菜は肩を揺らして離れようとした。

だが、智也の腕は緩まるどころか、さらに強く彼女を閉じ込めた。


そして、悠真に向かって、丁寧かつ冷淡に言う。


「送っていただいて、ありがとうございました」

「いえ、気にしないでください」


口ではそう言いつつも、悠真の視線は智也の腕――羽菜の肩を抱くその手に釘付けだった。


……兄妹って、こんなに距離近いもんだっけ?


智也は彼の疑問を無言で睨み返すと、羽菜の肩を抱いたまま、エレベーターへ向かった。


エレベーターを待ちながら、智也が何気なく尋ねる。


「……あいつ、お前のこと狙ってる?」


「そこまでじゃないわ。ただ好感を持ってくれてるだけ」


「男が“好感持ってる”って言うときは、だいたい下心あるよ」


言葉を切り替えるように、目を細めた。


「三年前から知り合いだったのか?」


羽菜の表情が一瞬強張る。

「……私のこと調べたの?」


智也は手を伸ばして、彼女の頭を優しく撫でる。


「そんな言い方しないで。ただの“心配”だよ」


羽菜はさっと身を引く。


「彼のおじいさまと、私の祖父が知り合いなの。三年前、私を高給でスカウトしようとしたの」


「へぇ……うちのはーちゃんってそんなに優秀だったのか」


茶化すような口調。目元には微笑。

その呼び方に、羽菜の耳がくすぐったくなる。

――結婚して三年、こんなふうに呼ばれたのは初めて。


戸惑いと、少しの切なさが胸に込み上げた。


エレベーターが開き、二人は中へ。

無人の密室。


智也は21階のボタンを押すと、ゆっくり彼女の方を振り返った。

瞳には深い陰りと、一瞬の鋭さが宿る。


理性的な彼にしては珍しく、野性味が滲んでいる。

羽菜はその気配に圧倒され、思わず壁際に身を寄せた。


「……なに?」


智也は背中で監視カメラを隠し、彼女を見下ろす。


「わざと“兄”って呼んだんだろ? あいつにチャンスを与えるためか?」


――やっぱり、怒ってる。


「私……んっ……!」


言いかけた唇を、彼が奪った。

そのキスは巧みに甘く、そして――次第に深く。


逃れようとする羽菜の心臓は、鼓のように高鳴る。


有栖川玲奈とイチャイチャしてたくせに……なぜ、私に……。


両手で彼を押し返すが、小柄な彼女に、彼を動かす力はない。

抗えば抗うほど、挑発しているように見える。


智也は彼女の手を押さえ、もう片方の手で顎を捉える。

力強いキスは、どこか怒りすら込められていて、唇に甘い痛みを残す。


「……っ、は……」


荒い吐息。頬が火照る。

ようやく彼が唇を離し、髪を整え、服の襟元を直してやる。


「……もう一度、“兄”って呼んでみろ」


羽菜は耳まで真っ赤になり、睨み返すだけで、何も言わなかった。


智也は喉を鳴らして笑い、視線を落とす。


潤んだ瞳、赤く染まった唇。

意地を張ったその姿が、彼の征服欲をくすぐる。

――ずっと大人しかったからこそ、こういう一面は余計にそそる。


エレベーターが上昇する中、不意に彼が尋ねる。


「……三年前、俺と結婚したこと、後悔してる?」


羽菜は驚いて、彼の顔を見上げる。

その眉目があまりに整っていて、ふと現実感が遠のいた。

でも、目を逸らさず、静かに答える。


「後悔してない」


「当時の俺は、足が動かなくて、毎日不機嫌で。看護師も家政婦も、みんな嫌がってた。君は若くて、綺麗で、将来も有望だったのに……それでも一度も、後悔しなかったのか?」


智也は今、堂々と立っている。

どこか近寄りがたいほどの、威厳を纏って。


羽菜は真面目な顔で言った。

「祖母の腎臓移植を探してくれたのは、あなた。家を買ってくれて、大金の結納金まで……家族全体を救ってくれた。私は感謝してる。祖父に“恩は返すもの”と教わったから」


それを聞いた智也は、ふと目を細める。

「……感謝だけか?」


羽菜は黙り込む。

以前なら「愛もある」と言えた。


でも、今となっては――

彼は離婚を申し出て、玲奈のそばにいて、優しくしたかと思えば離れていく。


そんな男に、「愛してる」なんて……惨めすぎる。

唇を引き結び、何も答えなかった。


エレベーターのドアが開き、二人は部屋へ。

羽菜が鍵を差し込み、靴を脱ぎながら、智也は無言でその背中を見つめる。


彼女が立ち上がった瞬間――

片手を壁につき、彼女を囲むように立ちはだかる。

視線を絡め、固く問う。


「本当に、感謝しかないのか…?」


羽菜は見上げる。

その眼差しには、思わず息をのむほどの感情が渦巻いていた。

けれど――彼女は、玲奈の“代わり”にすぎない。


静かに、けれどどこか突き放すように言った。


「……感謝だけ」


智也は自嘲気味に笑った。

愛はあの司にすべて捧げ、

自分には「恩」だけ。

――恩で縛られた結婚なんて、味気ない。


あのエレベーターで燃え上がった衝動は、一気に冷めていった。


彼は手を引っ込め、ポケットに突っ込みながら聞いた。


「……お義母さんは?」

「仕事。お茶入れてくるね」


羽菜が台所へ向かうと、彼のスマホが鳴った。

表示された名前は――「有栖川玲奈」。


羽菜はその文字を一瞥しただけで、吐き気を覚える。

逃げるようにバスルームへ。


智也は沈黙のまま、通話に出る。


「……もう、処理してもらったのか?」

「うん……家に帰るところ。羽菜さん、怒ってなかった?」

「怒ってない。……彼女、穏やかだから」

「私のこと、何か言ってなかった?」


――小切手の話がバレてないか、不安だった。


「何も。口数が少ないから」

「ふぅ、よかった……昼間はすっごく口が達者だったのに。怖かった~」


智也は眉を寄せる。


「有栖川玲奈、もうそういう言い方やめろ。羽菜はそんな女じゃない」

「ごめんなさい……ただ、あなたが彼女に騙されてないか不安で……」

「……いい。切る」

「えっ、ちょっと待って、明日――」


――ドンッ!


バスルームの方から、何かが倒れる音。

智也は顔色を変え、スマホを握りしめたまま駆け出した。


「羽菜!? 大丈夫か!?」


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