羽菜はわずかに顔を上げ、穏やかな表情で彼を見た。
「……はい、兄です」
澄んだ瞳には、ほんの少しの反抗心が灯っていた。
――優しさに慣れた人は、反抗さえも静かなんだな。
智也は、最初は叱りつけるつもりだったが、その表情を見て不意に気持ちが和らいだ。
ふっと口元を緩めて言った。
「いいよ、“兄”で」
そう言うと、彼は片腕を伸ばして、彼女をぐっと抱き寄せた。
不意を突かれた羽菜は、ふわりと彼の胸の中へ倒れこむ。
タバコと酒が混ざった大人の香りに、どこか甘い匂いが混ざっている。
――有栖川玲奈の香水だ。
一気に胸がムカムカして、羽菜は肩を揺らして離れようとした。
だが、智也の腕は緩まるどころか、さらに強く彼女を閉じ込めた。
そして、悠真に向かって、丁寧かつ冷淡に言う。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「いえ、気にしないでください」
口ではそう言いつつも、悠真の視線は智也の腕――羽菜の肩を抱くその手に釘付けだった。
……兄妹って、こんなに距離近いもんだっけ?
智也は彼の疑問を無言で睨み返すと、羽菜の肩を抱いたまま、エレベーターへ向かった。
エレベーターを待ちながら、智也が何気なく尋ねる。
「……あいつ、お前のこと狙ってる?」
「そこまでじゃないわ。ただ好感を持ってくれてるだけ」
「男が“好感持ってる”って言うときは、だいたい下心あるよ」
言葉を切り替えるように、目を細めた。
「三年前から知り合いだったのか?」
羽菜の表情が一瞬強張る。
「……私のこと調べたの?」
智也は手を伸ばして、彼女の頭を優しく撫でる。
「そんな言い方しないで。ただの“心配”だよ」
羽菜はさっと身を引く。
「彼のおじいさまと、私の祖父が知り合いなの。三年前、私を高給でスカウトしようとしたの」
「へぇ……うちのはーちゃんってそんなに優秀だったのか」
茶化すような口調。目元には微笑。
その呼び方に、羽菜の耳がくすぐったくなる。
――結婚して三年、こんなふうに呼ばれたのは初めて。
戸惑いと、少しの切なさが胸に込み上げた。
エレベーターが開き、二人は中へ。
無人の密室。
智也は21階のボタンを押すと、ゆっくり彼女の方を振り返った。
瞳には深い陰りと、一瞬の鋭さが宿る。
理性的な彼にしては珍しく、野性味が滲んでいる。
羽菜はその気配に圧倒され、思わず壁際に身を寄せた。
「……なに?」
智也は背中で監視カメラを隠し、彼女を見下ろす。
「わざと“兄”って呼んだんだろ? あいつにチャンスを与えるためか?」
――やっぱり、怒ってる。
「私……んっ……!」
言いかけた唇を、彼が奪った。
そのキスは巧みに甘く、そして――次第に深く。
逃れようとする羽菜の心臓は、鼓のように高鳴る。
有栖川玲奈とイチャイチャしてたくせに……なぜ、私に……。
両手で彼を押し返すが、小柄な彼女に、彼を動かす力はない。
抗えば抗うほど、挑発しているように見える。
智也は彼女の手を押さえ、もう片方の手で顎を捉える。
力強いキスは、どこか怒りすら込められていて、唇に甘い痛みを残す。
「……っ、は……」
荒い吐息。頬が火照る。
ようやく彼が唇を離し、髪を整え、服の襟元を直してやる。
「……もう一度、“兄”って呼んでみろ」
羽菜は耳まで真っ赤になり、睨み返すだけで、何も言わなかった。
智也は喉を鳴らして笑い、視線を落とす。
潤んだ瞳、赤く染まった唇。
意地を張ったその姿が、彼の征服欲をくすぐる。
――ずっと大人しかったからこそ、こういう一面は余計にそそる。
エレベーターが上昇する中、不意に彼が尋ねる。
「……三年前、俺と結婚したこと、後悔してる?」
羽菜は驚いて、彼の顔を見上げる。
その眉目があまりに整っていて、ふと現実感が遠のいた。
でも、目を逸らさず、静かに答える。
「後悔してない」
「当時の俺は、足が動かなくて、毎日不機嫌で。看護師も家政婦も、みんな嫌がってた。君は若くて、綺麗で、将来も有望だったのに……それでも一度も、後悔しなかったのか?」
智也は今、堂々と立っている。
どこか近寄りがたいほどの、威厳を纏って。
羽菜は真面目な顔で言った。
「祖母の腎臓移植を探してくれたのは、あなた。家を買ってくれて、大金の結納金まで……家族全体を救ってくれた。私は感謝してる。祖父に“恩は返すもの”と教わったから」
それを聞いた智也は、ふと目を細める。
「……感謝だけか?」
羽菜は黙り込む。
以前なら「愛もある」と言えた。
でも、今となっては――
彼は離婚を申し出て、玲奈のそばにいて、優しくしたかと思えば離れていく。
そんな男に、「愛してる」なんて……惨めすぎる。
唇を引き結び、何も答えなかった。
エレベーターのドアが開き、二人は部屋へ。
羽菜が鍵を差し込み、靴を脱ぎながら、智也は無言でその背中を見つめる。
彼女が立ち上がった瞬間――
片手を壁につき、彼女を囲むように立ちはだかる。
視線を絡め、固く問う。
「本当に、感謝しかないのか…?」
羽菜は見上げる。
その眼差しには、思わず息をのむほどの感情が渦巻いていた。
けれど――彼女は、玲奈の“代わり”にすぎない。
静かに、けれどどこか突き放すように言った。
「……感謝だけ」
智也は自嘲気味に笑った。
愛はあの司にすべて捧げ、
自分には「恩」だけ。
――恩で縛られた結婚なんて、味気ない。
あのエレベーターで燃え上がった衝動は、一気に冷めていった。
彼は手を引っ込め、ポケットに突っ込みながら聞いた。
「……お義母さんは?」
「仕事。お茶入れてくるね」
羽菜が台所へ向かうと、彼のスマホが鳴った。
表示された名前は――「有栖川玲奈」。
羽菜はその文字を一瞥しただけで、吐き気を覚える。
逃げるようにバスルームへ。
智也は沈黙のまま、通話に出る。
「……もう、処理してもらったのか?」
「うん……家に帰るところ。羽菜さん、怒ってなかった?」
「怒ってない。……彼女、穏やかだから」
「私のこと、何か言ってなかった?」
――小切手の話がバレてないか、不安だった。
「何も。口数が少ないから」
「ふぅ、よかった……昼間はすっごく口が達者だったのに。怖かった~」
智也は眉を寄せる。
「有栖川玲奈、もうそういう言い方やめろ。羽菜はそんな女じゃない」
「ごめんなさい……ただ、あなたが彼女に騙されてないか不安で……」
「……いい。切る」
「えっ、ちょっと待って、明日――」
――ドンッ!
バスルームの方から、何かが倒れる音。
智也は顔色を変え、スマホを握りしめたまま駆け出した。
「羽菜!? 大丈夫か!?」