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第12話 命より大事なもの

「大丈夫、ちょっと花瓶を倒しちゃっただけ」


羽菜はしゃがみこみ、割れた陶器の破片を拾おうとした。


「俺がやる。触らないで、手を切ったらどうする」


桐谷智也は早足で洗面所に入り、彼女をそっと横に引き寄せた。

スマホを洗面台に無造作に置いたまま、身を屈めて拾いはじめる。


電話はまだ切れていなかった。


羽菜はゴミ箱を探し出し、彼に差し出した。


「気をつけて」

「俺、皮膚一般人より分厚いから、簡単には切れないよ」


智也は大きな破片を拾っては、ゴミ箱に放り込んだ。


「また冗談言って。そんなわけないでしょ」


羽菜も彼の隣にしゃがみ込んで、一緒に拾い始める。


だが、智也は彼女の手を止めた。


「……あの頃、俺はすぐにキレて、なんでも投げつけてたよな。毎日その後片づけして……本当は辛かっただろ?」


その言葉に、羽菜の胸が詰まる。

思い返せば、あの二年は本当に苦しかった。

鼻の奥がつんと痛くなり、思わず涙がにじみそうになる。


彼女は俯いたまま、小さな声で答えた。


「……辛くなんてなかったよ。本当」


智也は彼女の伏せた睫毛を見つめ、ふっと笑った。


「君って、本当に人間なのかって思うくらい優しいよな」


逸也の言葉を思い出し、羽菜はぽつりと聞いた。


「……こういう性格、つまんないと思わない?」

「……ちょっとな」

「こらっ!」


羽菜は彼の足を軽く押して、ぷいとそっぽを向いた。

智也は笑いながら、その手を優しく包み込む。


その頃、スマホ越しに二人のやりとりを聞いていた玲奈は、怒りのあまり電話を切った。


「……っ!」


スマホを車の座席に叩きつけ、終始不機嫌なまま帰路につく。


有栖川家に戻ると、美津子が玲奈の包帯を見て驚いた。


「ちょっと、手どうしたの!? それに顔真っ赤じゃない!」

「手は大したことないの。ただ……」

「じゃあ何でそんなに怒ってるのよ?」


「……ただの田舎女が、三年も智也の家政婦してただけなのに、あんなに庇うなんて……

 私がちょっと彼女のこと言っただけで、電話切ろうとするのよ? 

 花瓶の破片拾ってるだけで、手を切るって心配して……今日は病院まで送ってくれるはずだったのに、逸也の電話で、あの女が知らない男と一緒に車に乗ったって聞いた瞬間、途中でタクシー拾ってまで追いかけたのよ?」


美津子も眉を寄せた。


「それだけ気にしてるなら……なんで離婚しようとしてるのかしらね?」


玲奈はハイヒールを蹴り飛ばして、リビングのソファに倒れ込んだ。


「……分かんない。前に智也が酔って、“離婚するのは私のためだけじゃない”とか言ってた。私の名前を出すのはただの口実だって……それって本音だったのかな?」


「酔ってただけでしょ?」


玲奈はスリッパを履いて、足音も立てずにソファに戻る。

今日の出来事を思い出すたびに、怒りがこみ上げてきた。


美津子は、玲奈の背中を撫でるように諭す。


「智也があの子に惹かれたのは、あんたに似てるから。つまり、あんたが本物で、あの子は偽物よ。焦らず、ちゃんと時間をかけて取り戻しなさい」


玲奈は眉をひそめた。


「……でも、あんなに仲良くされて、焦らない方がおかしいでしょ」

「焦っても意味ないわ。策を練って、確実に奪い返すの。……わかった?」


そう言って、彼女に水を差し出した。

玲奈は不満げに唇をとがらせ、水を受け取りながら文句を言う。


「全部ママのせいよ。ちょうど一年前、智也が歩けるようになったって聞いたから、私、留学辞めて帰国するって言ったのに、“あと一年様子を見なさい”って止めたじゃない。

 今さらになって、あの女といい雰囲気になって……もう私の入る隙ないじゃん!」


美津子はじろっと睨む。


「交通事故には後遺症がつきもの。もし再発して車椅子生活になったら……あんた、彼の世話を一生する覚悟ある?」


玲奈は口をつぐみ、水を黙って飲んだ。


数秒の沈黙の後、美津子が切り出す。


「……例の小切手、あの女、受け取った?」

「受け取らなかった」


美津子の目が驚きに見開かれる。


「……一億も見向きもしないって、どういうつもり?

 三年前はたった五千万で、下半身不随の男に嫁いだくせに」


その話題になると、玲奈はまた怒りが蘇った。


「知ってる? あの女、小切手を私の顔に叩きつけて、“三年前、智也に嫁がなかったとしても、自分の手で一億くらい余裕で稼げた”って言ったのよ!」


「……自分の手で? ふん、ただの修復士が、よくそんな口叩けるわね」


「でも、彼女の祖父・森文雄って、業界ではかなり有名だったらしい。彼女はその直伝だって」


「だから何? ……そうだ!もしその“両手”が使えなくなったら、どうなるのかしらね」


美津子が冷笑を浮かべると、玲奈は一瞬息を飲み、目を見開いた。


「ママ……まさか……変なこと考えてないよね?」


――一週間後、昼。


古宝修復工房にて。

羽菜は修復室の鍵をかけ、昼食をとるために近くのレストランへ向かう。


中華レストランで「エビのあんかけ丼」を注文し、席に静かに腰を下ろした。


優雅な雰囲気、白い肌、しなやかな指先で箸を持つ様子――

賑やかな店内でも、彼女の存在はどこか際立っていた。


食事を終えて会計を済ませ、扉へ向かう。

右手でガラス戸を押し、少し開いたところで左手を添えて押し広げようとしたが…


ドンッ!


誰かが外から勢いよく走ってきて、ガラス扉を一気に押し開けた。


羽菜は慌てて手を引こうとしたが、遅かった。


「――ッ!」


手の指に、焼けつくような激痛が走る。

そのまま力が抜け、床にしゃがみこんだ。


左手の指がみるみる腫れ上がり、骨が折れているのが目に見える。

血が滲み、床に真っ赤な滴を落とした。


目の前がぼやける中、誰かが謝っている。


「ごめんなさい、ごめんなさい、わざとじゃないの!」


配達ユニフォームを着た女が、ヘルメットを取らずに、ポーチから札束を取り出して地面に置く。


「これ、治療費にしてください! 急いでるんです! 後で連絡します!」


羽菜は言葉も出せず、涙を流しながら、自分の手を見つめた。

――この手で、私はすべてを守ってきたのに。


二十年かけて磨いてきた祖父の技術。

命よりも大切にしてきた、この手が……壊された。


レストランの店主が駆けつけたとき、犯人の姿はもうなかった。

慌てた店主は羽菜を車に乗せ、病院へ連れて行った。


止血処置を受け、レントゲンのため放射線科へ。

その途中、桐谷智也が駆け込んで来た。


高級スーツにネクタイ姿、会議中だったが、羽菜の怪我の知らせを聞いて全て放り出して駆けつけた。


羽菜は店主に支えられながら、力なく歩いていた。

細くて、今にも倒れそうな姿。

目は赤く腫れ、まるで魂が抜けたようだった。


それを見た智也の表情が険しくなる。


「誰がやった!?」


店主は怯えながら答える。


「……店の客から言うには、配達の女性だったそうです。でももう逃げてしまって……」


智也は奥歯を噛みしめ、背後のアシスタントに命じた。


「探せ。地の果てでも構わない、必ず捕まえろ!」

「かしこまりました、社長!」


緊張感に満ちた声で、アシスタントはすぐに店主を連れて監視カメラの映像確認に向かった。


レントゲンの結果が出るまで少し時間がかかる。

智也は羽菜をそっと椅子に座らせ、自分の腕の中に抱き込んだ。


彼女はまだ震えていた。

冷え切った手足。


智也はジャケットを脱ぎ、羽織らせ、さらに強く抱きしめる。

あごを羽菜の頭に優しくのせたまま、黙って寄り添った。


やがて結果が出て、医師は言った。


「中指と薬指の骨折です。切開して手術が必要です」


智也はすぐに整形外科の名医を呼び寄せた。


一時間半後、手術は無事終了。

観察後、病室に移された。


羽菜の指は腫れ、添え木で固定され、点滴を受けていた。

その姿は生気を失い、心ここにあらずだった。


智也は静かに彼女を見つめ、温かいタオルで顔を拭い、ご飯を食べさせ、薬を飲ませた。

羽菜は全部大人しく従ったが、何も話さなかった。


その夜。


羽菜を傷つけた犯人が捕まった。

アシスタントが智也の耳元でそっと報告する。


智也の顔がみるみる険しくなり、歯に力が入り、眉がぴくりと震えた。


何度も深呼吸をして、やっと感情を抑え込む。

そして、羽菜に囁いた。


「……ちょっと行ってくる。すぐ戻るから」


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