羽菜は、虚ろな目で天井を見つめたまま、微動だにしなかった。
智也は小さくため息をつき、そっと彼女の肩に手を置いた。
「……少し休め」
そう言って部屋を後にし、廊下で待機していたボディーガードに低く命じた。
「羽菜をしっかり守れ。何かあればすぐ連絡を」
「了解です、社長」
車に乗り込むと、助手が報告に入った。
「先ほど、周辺の監視映像を洗い出し、数方面に手を回してやっと林つばめを捕らえました。タクシーに乗って、地方へ逃げようとしていたところを確保しました」
智也の瞳に、冷たい光が宿る。
「何者だ?」
「林つばめは、かつて羽菜様を拉致した坊主――林涼介の妹です。林涼介は盗掘と誘拐の罪で実刑七年。林つばめは最近、出前持ちに変装して骨董街周辺をうろつき、復讐の機会を狙っていました」
智也の拳が静かに震えた。
握り締めた手の甲に、血の気が引くほど白く力が入る。
――数分後、拘束先のビル。
短い髪、やつれた顔、赤く充血した目。
林つばめは、兄と同じようにどこか中性的で、刺々しい雰囲気を纏っていた。
智也は無言でソファに腰を下ろし、冷ややかな目線を向けた。
「どうして羽菜の指を折った?」
林つばめは唇を噛みしめ、憎悪を込めて叫んだ。
「アイツが兄を牢獄に入れたからよ!」
智也は鼻先で笑った。
「お前の兄がやったことは墓荒らしに誘拐。捕まって当然だろう」
つばめは舌打ちし、視線を逸らす。
その態度に、智也の目元がゆらりと鋭く笑んだ。
「……女に手は出さない主義だが、お前は例外だ」
低く言い放つなり、傍のテーブルから灰皿を掴み、勢いよく林つばめの頭に投げつけた!
「っ……!」
避けようとしたが、部下に押さえ込まれ、灰皿は横をかすめて床に砕け散った。
「う、あぁ……!」
続けざまに、助手が無言で彼女の膝に一撃を加える。
そのままガラスの破片が散らばる床に、膝をつかされ――
「いたっ、痛い! お願い、やめて……!」
林つばめは震えながら泣き叫んだ。
智也は立ち上がり、俯瞰で彼女を見下ろす。
「……痛いのは分かるんだ?お前が壊したのは羽菜の一番大事な手だ。彼女はお前より何倍の痛みも受けている…!」
彼の声には、怒りと、深い哀しみがにじんでいた。
片手をポケットに突っ込みながら、静かに言い放つ。
「……その汚い手、しっかり処分しろ」
「了解しました、社長」
桐谷智也は、振り返ることなく部屋を出た。
その直後――
「ッッ……!」
鋭い音とともに、林つばめの絶叫が小楼の外まで響き渡った。
身体を痙攣させながら倒れた彼女は、ガラス片にまみれた床で白目を剥いて意識を失った。
病院。
智也は、ベッドに横たわる羽菜のそばに静かに座っていた。
その表情は虚ろで、魂の抜け殻のよう。
見ているだけで胸が締めつけられる。
彼女に復習の結果を伝えようとした、そのとき。
そっと、彼の袖が掴まれた。
普段は気丈な彼女が、まるで子どものようにすがるその手に、胸が軋む。
智也はその手を優しく包み込んだ。
「……大丈夫、俺はどこにも行かない」
その一言に、羽菜はようやく袖を放し、布団の中に顔をうずめた。
智也は彼女の髪をそっとかき上げ、耳元で囁いた。
「少し、目を閉じて……休んで」
だが羽菜は眠れなかった。
腫れあがった指の激痛が脈を打つたび、心まで引き裂かれるようだった。
爪は黒に変色し、見るだけで吐き気がするほどだった。
彼女はただ、痛みと悔しさを抱えて、黙って目を閉じていた。
――そのとき、ノックの音。
「失礼します」
ドアを開けると、そこには白衣姿の月城悠真が立っていた。手には一束のマリーゴールド。
「あっ、お兄さんこんにちは。手術終わったばかりだけど、羽菜さんが怪我したって聞いて…」
智也の目が冷ややかに細められた。
「月城さんもずいぶん多才なんだな」
「医者が本業さ。工房は祖父の店なんです」
智也はそれ以上何も言わず、無言で羽菜のそばに戻った。
悠真は花をそっと棚に置き、羽菜の指を見て眉をひそめた。
「まだ痛い?」
羽菜は小さく頷いた。
「心配しないで。白石先生は腕がいいし、君もまだ若いですから、きっと治るさ」
「ありがとうございます」
「……内出血してるね。血を抜いたほうが痛みが楽になる。看護師に針を持ってきてもらうよ」
智也が眉を上げる。
「本当にできるのか?」
悠真はポケットから医師証を出してみせた。
「主治医クラスですから」
やがて、看護師が消毒と専用の細い針を持ってきた。
消毒を終えると、悠真は羽菜の黒紫の爪の隙間にそっと針を差し入れ、血腫を抜いていく。
その痛みに羽菜は眉をしかめたが、
終わると、痛みは少し和らいだ。
悠真は片付けながら、羽菜の腕を軽く叩く。
「ゆっくり休んでね」
悠真が片付けを終えたところで、智也が立ち上がった。
「送るよ」
二人は病室を出ていった。
ドアを閉めると、智也は鋭く目を細め、冷ややかに言い放った。
「……羽菜は君みたいなタイプ、好みじゃない。余計なことは考えるな」
悠真は表情を変えずに返す。
「へぇ、じゃあ彼女はどんなタイプが好きなんです?」
「俺みたいなタイプだ」
一瞬の沈黙。
悠真はさらに笑みを深めた。
「でも、あなた……彼女の“兄”なんでしょ?」
智也の目がわずかに険しさを帯びた――
「俺は……」
そのとき、悠真のスマホが鳴った。
「失礼」
そう言って、彼はスマホを耳に当てながら軽く手を挙げ、廊下の向こうへと歩き去った。
智也は無言で病室へ戻り、ベッドの羽菜の顔を見た瞬間、思わず眉根が緩んだ。
やはり、誰よりもこの姿を守りたい。
「島田」
彼は電話で使用人に指示を出し、温かいお湯を用意させた。
自らタオルを取り、そっと彼女の顔を拭き、用意したお粥と薬を飲ませる。
そして静かに毛布をめくり――足を拭こうとすると、羽菜が小さく身を引いた。
智也は静かに言った。
「……あの二年間、俺が歩けなかったとき、毎日君がこうしてくれた。今度は俺の番だ」
その一言に、羽菜はじっと彼を見つめ、やがて力なく足を差し出した。
智也は丁寧に、彼女の足、そして脚、体を拭いていく。
足を拭き終えると、智也はズボンを脱がせようとする。
羽菜は両足をきつく閉じて拒む。
智也は苦笑しながら言った。
「夫婦なんだし、少し手伝わせて」
羽菜は恨めしそうな目で彼を見つめる。
嫌がる様子を見て、智也はしばらく黙り、
「島田のほうがいい?」
数秒の沈黙のあと、羽菜はゆっくりと足を緩めた。
島田は静かに部屋を出る。
智也は丁寧に体を拭いた。
羽菜の顔は真っ赤になった。
やがて全てが終わり、湯盆を片付けると、羽菜はようやくうとうとと眠り始めた。
智也はベッドにそっと横になり、彼女の傷ついた手を支えるように、そっと両手で包み込んだ。
どれくらい経っただろうか。
羽菜はまた悪夢にうなされ、震えながら丸くなってしまう。
智也は羽菜を抱きしめ、優しく背中を撫でた。
羽菜は安心したのか、無意識のうちに彼の胸元に顔を埋め、
かすかに「つ……」とつぶやく。
智也はそっと指で彼女の唇を押さえ、続く言葉を遮ってから、
落ち着くのを見届けて静かに囁く。
「今くらい、俺を呼んでよ」
――その表情は、どこまでも優しかった。
眠る羽菜は、夢の中で何度も「司」と呼びかけていることに、まだ気付いていなかった。