羽菜は思わず顔を背け、警戒心いっぱいに智也を見つめる。
「……何をする気なの?」
「どう思う?」
智也は指先で羽菜の小さな顎をつまむ。どこか余裕を感じさせる声だった。
「今さら微積分の話でもすると思うか?」
羽菜は指で彼の顎を押し返し、真剣な目で言った。
「あなた、自分で離婚すると言ったでしょう?」
「でも今日、君は病院で『離婚しない』って言ったよな」
「それは、玲奈をわざと怒らせるために言っただけ」
智也の漆黒の瞳が、じっと羽菜を見つめる。低い声で囁く。
「でも、俺は本気にした」
羽菜は視線を落とす。
「今は、そういう気分じゃないの」
智也は眉を上げる。
「さっき俺を誘惑したのは、誰だった?」
「そんなつもりじゃ……それは……」
言葉に詰まった羽菜は、頬を赤く染めて黙り込む。
湯気に包まれたその頬も、首も、手首も薄紅に染まり、まるで雪の枝に咲いた花のような美しさだった。
智也は羽菜の唇に親指をそっと滑らせる。
「今の君、とても魅力的だ」
——魅力的?
羽菜は驚いたように目を見開いた。自分がそんな言葉と結びつくとは思ってもいなかった。少し後ずさりし、潤んだ瞳で見つめる。
「……先に出てくれない?」
智也は彼女の頬にかかった髪を耳にかけ、優しく言う。
「一緒に出よう」
羽菜が返事をする前に、智也は彼女をバスタブから抱き上げ、シャワーで泡を流し、大きなバスタオルで包んで寝室へと連れて行った。
ベッドに寝かせると、怪我をした手をそっと頭の上に置き、自らも覆いかぶさる。顎先から鎖骨まで、丁寧にキスを落としていく。
智也の指先が肌をなぞるたびに、羽菜の身体は熱くなり、しかし心の奥ではどこか拒む気持ちも残っていた。怪我をしていない方の手で彼を押し返そうとするが、力の差は歴然——。
終わったあと、羽菜は息を整えながら智也に問いかけた。
「……あなたは、もっと開放的な人が好きなんじゃないの?どうして私に……」
智也は羽菜の腰を軽くつまみ、微笑む。
「さっきの君、とても大胆だったよ。すごく良かった」
そんな言葉を、羽菜は本気にしなかった。
彼の綺麗な顎のラインを見ながら、ふと思う。
——男の人って矛盾してる。誰かを愛していても、他の人と親しくなれる。でも、女は好きじゃなければ受け入れられない。
智也の手が羽菜の腰に滑り、顎を彼女の髪に埋める。
「今月末は母さんの誕生日だ。君も最近休みだし、みんなで集まろう。少しは賑やかにした方がいい」
羽菜は胸の奥が少しざわつく。
「私が静かすぎて、つまらない?」
「いや」
智也は少し考えてから言う。
「君は面白いよ。さっき俺を誘惑した姿なんて、一年分笑えそうだ」
「もう、変なこと言わないで!」
羽菜は彼の胸を軽く叩く。
智也は笑いながらその手を握り返す。
「若いんだから、たまには思いきりはしゃいでみなよ。溜め込みすぎると体にも良くない」
「分かった。明日、お義母さんのプレゼント選んでくる。何がいいかな?」
「なんでもいいよ。バッグが好きだから」
しばし静かに横たわったあと、智也は羽菜の傷を確認する。
「さっき傷に触れなかった?」
「大丈夫」
「足、疲れてない?」
羽菜は足を動かしてみる。
「少しだるいかも」
智也は布団をめくり、羽菜の脚をそっと持ち上げてマッサージし始める。ふくらはぎから太ももまで、手慣れた指使いで揉みほぐす。
羽菜は彼の手つきに敏感に反応し、すぐに顔が熱くなった。
二人が出会ってすぐ結婚し、最初の二年は智也の怪我や気性の荒さもあって、感謝の気持ちが大きかった。けれど、本当に惹かれ始めたのはここ一年のこと。まだ自分にとっては新鮮な恋だったのに、「別れる」と言われてしまった。
そう思うと、自然と涙が滲む。
智也はそれに気付かず、濡れたままの眼差しを見て、ふとさっきの大胆な仕草を思い出し、またからかい気味に言った。
「足が疲れてるなら、もう一回で打ち消せるかもな」
羽菜は呆れて反論しようとしたが、その前にまた智也に覆いかぶさられてしまう。
その時、ベッドサイドのスマホが鳴った。智也は羽菜に夢中で、無意識に画面をスワイプしたが、切ったつもりが実は通話が繋がっていた。
電話の向こう、有栖川玲奈は息を潜めていた。断続的に聞こえる甘い吐息や声が、胸を針で突かれるように苦しめる。
しばらく聞いた後、玲奈は堪らず通話を切ってスマホをソファに投げつけ、母の月柔に向かって叫んだ。
「お母さん、私、羽菜を絶対に懲らしめてやる!」
月柔は玲奈のギプスを巻いた左手を見て、自分の鼻を触りながら悔しそうに言った。
「私もそうよ!」
「林つばめって女、どうなったの?」
「調べたわよ。西の田舎の山奥に売られたって。電気も信号もない、逃げたら足を折られるような所で、もう戻れないでしょうね」
玲奈の目が冷たく光る。
「羽菜も、あそこに売り飛ばしたい。人買いに繋がりは?」
月柔は急に動揺して叫ぶ。
「だめよ!勝手なことしちゃいけない!」
「だって、羽菜と智也が仲良くしてるのを見るとイライラする!」
「羽菜が怪我した後、あなたの手も粉砕骨折になったでしょう?あの男は警告してるのよ。もう一度何かしたら、今度こそ大変なことになる。彼が誰か分かるまでは、絶対に羽菜に手を出しちゃだめ!」
玲奈は苛立って眉をひそめる。
「その男、いったい誰なの?十日以上探してるのに、捕まらないの?」
「用心深すぎて、警察も手こずってるわ。背中だけの写真しかなくて、指名手配もできない。お父さんとお兄さんも探してるけど、手がかりがないの」
玲奈はこめかみを押さえる。
「羽菜の通話履歴は調べた?」
「調べたけど、怪しい人はいなかった。本人も知らないんじゃない?そんな様子だったし」
玲奈は冷笑した。
「まさか、影で守ってる人でもいるの?」
「まあ、そうかもね。理由は分からないけど」
玲奈は鼻で笑う。
「田舎から出てきたくせに、あんなに忠犬みたいに守ってもらうなんて。顔と修復の腕以外、何があるの?木偶の坊みたいに……」
——
その頃、「木偶の坊」と呼ばれた羽菜は、智也に抱かれて全身が力尽き、彼の腕の中で静かに眠っていた。
智也はシャワーを浴びて戻ると、羽菜の寝顔をじっと見つめ、そっと額にキスを落として囁いた。
「今夜また夢で“司兄”って呼んだら、さすがに嫉妬するぞ」