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第22話 大胆になれる?


10分ほどして、桐谷智也が病室に戻ってきた。


羽菜の隣に腰かけ、優しく髪を撫でながら静かに言う。


「玲奈は今、情緒が不安定だから、気にしないであげてほしい」


言外には、またしても我慢を促す意思が滲んでいる。


羽菜は唇を噛み、何も言わなかった。昔から我慢強い性格で、これまで何度も玲奈に譲歩してきた。今少しだけ反発しただけで、智也の目には「気にしすぎ」と映るのだ。


「我慢」という言葉は、胸に刃を突き立てるようなもの。その苦しみは、当人にしか分からない。


智也が怪我で荒れていた頃も、羽菜は耐えてきた。最初は恩返しのつもりで、やがて愛情も芽生えた。だが、玲奈のためにまで我慢する義理がどこにある?


静江は異変に気付き、羽菜の肩を軽く叩いてから、智也を睨みつけた。


「羽菜だって玲奈と歳が一つしか違わないのよ。どうして耐えなきゃいけないの?もう一度彼女を傷つけたら、許さないからね」


智也は羽菜の肩を掴み、張りつめた顔を覗き込みながら冗談めかして言う。


「どこのお嬢さんかと思えば、こんなに頬を膨らませて」


羽菜はじとっと睨み返す。


智也は笑いながら羽菜を抱き寄せ、優しい声で囁いた。


「もう怒るなよ。傷の治りが悪くなる」


静江も穏やかに諭す。


「羽菜、もう気にしないこと。もし智也がまた何かしたら、私が代わりに叱ってあげる。もう遅いから、今日は帰って休みなさい」


二人に次々と宥められては、羽菜もいつまでも不機嫌でいられない。そっと智也を押しのけ、島田が付き添いにいるのを確認して静江に声をかけた。


「おばあさま、ごゆっくり休んでください。明日またお見舞いに来ます」


静江は穏やかに微笑んだ。


「ええ、約束を忘れないでね」


羽菜の耳がほんのり赤くなる。


「はい……」


バッグを手に取り、智也と並んで病室を後にした。


廊下に出ると、智也は羽菜の赤らんだ耳に目を留め、興味ありげに尋ねた。


「おばあさまと何を約束したの?」


羽菜は小声で答える。


「おばあさまは、私たちに子どもを望んでいるの」


智也は苦笑する。


「おばあさまは曾孫が欲しくてたまらないんだ。去年、俺の足が治ったばかりの時もせかされたし、今度は君にも言ってきたか」


羽菜はぼんやりとしたまま、返事をしなかった。


二人はエレベーターで降りて車に乗り込む。車が走り出すと、智也は羽菜に横顔を向け、柔らかな笑みとともに探るような眼差しを向けた。


「子どもが欲しいと思う?」


羽菜は真剣に考え込む。


「今の状況で産むのは、あまりにもリスクが高いと思う。あなたはどう思う?」


智也の目がかすかに曇る。


「産みたくないのか、それとも俺の子どもが欲しくないのか?」


その言葉は棘のように刺さり、羽菜は静かに言う。


「もう少し落ち着いてから考えたい。離婚するつもりだったでしょう?もし子どもができてから別れたら、子どもがかわいそう」


智也は自嘲気味に唇を歪め、窓の外に視線を向けた。


「……そうだな」


二人はそれぞれの思いを胸に、無言のまま桐谷家に到着した。


車を降りると、智也は羽菜の手を取って玄関へ向かう。羽菜は繋がれた手を見つめる。これまで外ではこんなに親しげなことは滅多になかったが、最近は少しずつ距離が縮まっている。それでも、この手が以前玲奈とも繋いでいたことを思い出すと、胸の内にわだかまりが生まれる。


家の中に入り、羽菜がバッグを置いて下駄箱からスリッパを取ろうとすると、智也が肩に手を添えた。


「手の傷がまだ治ってないだろ。俺がやるよ」


そう言ってスリッパを取り出し、羽菜の足元に丁寧に履かせ、靴下の口元まで整えてくれる。今まで羽菜が世話をする側だっただけに、立場が逆転して戸惑いを隠せない。


智也はそんな羽菜の心を見透かしたように言う。


「夫婦って、お互いに支え合うものだろ。今まで君が俺を助けてくれた分、これからは俺が君を支える」


羽菜は小さく呟く。


「ありがとう……」


「礼なんていらないよ」


智也は羽菜のコートを脱がせながら続ける。


「病院では簡単に拭いただけだろう?あとでちゃんと体を洗ってやるよ」


羽菜の頬が一気に赤くなる。病院での体拭きすら恥ずかしかったのに、一緒にお風呂だなんて——。


智也は赤くなった耳を見て、思わず吹き出した。


「結婚して三年も経つのに、どうしてまだそんなに恥ずかしがるんだ?」


羽菜はふと、藤堂の「家ではもっと大胆にしなきゃ玲奈に勝てないぞ」という言葉を思い出す。


蚊の鳴くような声で聞いてみる。


「……男の人って、控えめな女より、開放的なほうが好きなの?」


智也は堪えきれず笑う。


「誰がそんなこと言ったの?」


「霧島が……」


智也は興味深そうに羽菜を見つめ、ゆっくりと問いかけた。


「じゃあ、君は大胆になれる?」


羽菜の顔はますます熱くなる。元々控えめな性格で、そんなことは得意じゃない。でも、玲奈に負けたくない。その思いが、彼女の胸に湧き上がる。


少し逡巡した後、羽菜はそっと足を伸ばして智也のふくらはぎに絡め、指先でシャツの隙間から腹筋をなぞりながら、真剣な眼差しで彼を見上げた。


「……こう?」


智也は思わず吹き出し、羽菜の手を捕まえる。


「誰に教わった?」


「小説で読んだの」


智也は目を細めて言った。


「目つきが真剣すぎる。まるで数学の問題に取り組んでるみたいだ。動きも固いし、それじゃ色気より武道大会だよ。もっとリラックスして、腰も柔らかく、視線ももう少し甘く……」


羽菜は眉をひそめて睨む。


「なんでそんなに詳しいの?」


智也は笑いながら答える。


「豚肉は食べたことなくても、豚が走る姿くらい見たことあるさ」


「やっぱり、男の人は大胆な女が好きなんだ……」


羽菜は小さく呟き、ソファへ歩いていく。


智也は彼女の背中を見て、また笑みを浮かべた。


「湯を張ってくるよ」


「……うん」


浴槽がいっぱいになり、羽菜はバスルームに向かった。智也に手伝われながら服を脱ぎ、浴槽に身を沈める。


左手を高く上げて言う。


「もう大丈夫だから、一人で洗うよ」


智也は袖をまくり、タオルを手に取る。


「背中を流してやるよ。ここしばらくちゃんと風呂に入れてないだろ」


羽菜が断る間もなく、智也は手早く背中を擦り始めた。


「結構汚れてるな」


羽菜は恥ずかしさに声を潜める。


「私は……そんなに汚くないよ」


智也は笑みを深めた。


「うちの羽菜は、きれい好きだもんな」


背中を流しているうちに、羽菜は背後から智也の息遣いが徐々に熱を帯びていくのを感じた。振り返ろうとした瞬間、彼の手が腰へと滑り、ぎゅっと抱きしめられる。耳たぶに沿ってやさしくキスされ——


逃げようとする羽菜の肩を掴んで正面に向かせ、次の瞬間、智也は羽菜の唇をしっかりと塞いだ。




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