六月九日の昼下がり、大勢の人が行き交う新宿。人も音もそれぞれの波にかき消されるなかで、太陽の光を受ける褐色の肌、黒く長い髪の中にはブラウンが芯として輝き、黒い瞳をした背丈の高い少女――ルフィナは建物の壁に寄りかかることはなく、
「――了解。ですが、イェウォンさん『
右に向けていた視線を左に向け、視線だけではなく体も動かし、路地裏へと向かった。人通りが多いにもかかわらずルフィナはぶつかることも、歩幅も変わることもなく、電話相手に耳を傾け、周りを静かに見渡していた。
日の光が届かない、薄暗い路地裏は空気がぐったりと漂っている。スマホから手を離し、頭と肩で支えると、この路地裏よりも暗く黒いジャケットの内側に手を伸ばした。体にはショルダーハーネスが取り付けられていて、銃が入ったホルスターが左わき腹にあり、伸ばした手は銃に向かった。
ルフィナは闇に溶け込むぐらい黒い色をした銃、ワルサーPPK/Sを取り出した。
「はい、問題はありません。しっかりと――」
銃のスライドを僅かに引き、
「入ってます」
スライドを戻す音が小さく響くと、ネズミがゴミ袋の裏からそそくさと逃げた。銃をホルスターに納め、スマホを手に取り歩き出した。
「もう少し範囲を広げてみます。イェウォンさん、ミズ・ミキコにはもう少し人員をこちらに回して欲しいと伝えといてください。P.G.が相手なんですから――」
◇◇◇
「きゃっ! ネズミ!」
動き出した頭にブロンドの髪が引っ張られるように動いた。スッキリとしたボブヘアをした
「――おっと、大丈夫か」
「ありがとう、アイトくん。ネズミが飛び出してくるんだもん、びっくりしちゃった」
アイトが視線を向けたときには、もうネズミは縫うように人々の足元を通っていった。支えていた華奢なクオンの背中を押し上げ、倒れそうだった体を元に戻した。アイトが暗い路地裏に顔を向けるが、そこには誰もいない。
わざわざあんなじめっとした路地裏に人なんているわけないか、アイトはネズミが飛び出してきた理由を深くは考えず、クオンに話しかけた。
「ほんとすぐに驚くよな、クオンは」
「当たり前だよ、ネズミだよ――ネズミ。むしろ、平然といられるアイトくんがおかしいの。小学生の頃からずっとそう」
「俺からすれば逆だけどな。もう高二なのに小さなことですぐあたふたするし」
「ふーん、そんなこと言うなら、これクラスのメッセージに流しちゃおっかなー」
スマホの画面には、中学生の頃にアイトがノートに書いたオリジナルの詩が写し出されていた。
『目に見えない音はどこまで届く。目に見えない愛はどこまど届く。手のひらに握りしめられれば、これほど簡単なものはないのに』
『紙飛行機は飛んだ、どこまでも、どこまでも。地平線の彼方に、どこまでも、どこまでも。帰ってくることなどなく、どこまでも、どこまでも』
この詩を見たアイトはさすがに驚き、すぐにクオンからスマホを取り上げようとしたが、胸元にスマホを持っていき触らせようとしなかった。
「あれー? アイトくんはどうしてあたふたしてるのかな?」
しめしめと口角が上がり、アイトの反応を楽しむように見ていた。後悔混じりにアイトは言う。
「いつのまに写真を……。それにノートは隠しといたはずなのに……」
「ふふん、最近見つけたの。本棚に並んでた辞書の裏に隠してあるんだもん、中身見るときわたし緊張しちゃった――」
クオンは前に足を進めた。後ろにいるアイトには少々聞き取りづらい声でクオンは続けた。
「わたしの知らないアイトくんが出てきたらどうしようって……だからよかった。わたしたちに隠し事はなしだからね」
「それって俺が詩を書くような人間だと思ってたってことか。しかもわざわざ紙に書く奴だって」
顔をアイトに向けて、ニコニコとクオンは頷いた。
「そう言ってるの。晒されたくなかったら、買い物しっかりと付き合ってね」
「買い物は付き合う約束だろ。人多いんだから、あんまり前に行くと――」
先に歩き出したクオンの後を追うために、アイトが歩幅を早めようとしたときだった。
二十メートル先にあるガラス張りのビルから複数の色をかき混ぜたような声が聞こえ、クオンから目が離れてアイトがビルの方向に顔を向けた矢先――心臓を揺らす低い音とガラスの割れる高い音が同時に鳴った。
ガラスは内側から押し出されるように割れ、閃光に近い赤い火と流れ出る重く黒い煙が舞った。視線も関心も爆発したビルに向けていたが、衝撃を和らげるかのように辺りを揺らす声が聞こえだしたときにアイトは「クオン!」と叫んだ。
「アイトくん!」
呼応し、クオンもアイトの方を見たが周辺の人が一気に動き出し、ふたりは人波に飲み込まれた。
「クオン、クオン! どこだ!」
アイトはクオンを見つけるために人波に逆らいながら進んだ――かき分け、ぶつかり、声を上げながら。もしかしたらさっきまでいた場所辺りにいるかもしれない、アイトはむやみに探すより、そっちの方がいいと考えた。
騒然とする街中で少し前にネズミが飛び出してきた路地裏に来た。通りの熱気と戸惑う勢いに比べれば、路地裏は冷たく静かに感じる。黒い油の汚れがべっとりとアスファルトに貼りつき、薄暗い先にはブロンドの髪が見えた。通りが明るいせいで、髪しかよく見えなかった。
「見つけた、クオン!」
アイトの声に反応したクオンが近寄る「アイトくんよかった。スマホ落としちゃって、もうどこに行けばいいのかもわからなくて……。アイトくんが探し出してくれると思ってたから。わたしを見捨てないでくれてよかった」
「とにかく離れよう。また爆発なんて起きたら最悪だ」
アイトはクオンを連れ路地裏に入ってきた方向へ引き返そうとしたときだった。暗い路地裏と対比する通りから逆光でよく見えないが、なにやら急いだ男がこちらに向かってきた。男は言う。
「『トシ』か? 保安官の奴ら、嗅ぎ付けていたなんてクソッ――。早くここからずらかろう」
彼の服は焦げていて、火傷の痕に腕や足からは血が流れていた。アイトとその後ろにいるクオンは固まっている。
トシという誰かと勘違いをしている、ただ気になる点がアイトにはあった。彼の言葉はまるで、今回の爆発を起こしたような言い方であったから。もしも犯人なら、この一本道の路地裏でどうすればいい。何も刺激しなければ危害は加えないんじゃないか――いろいろと考えが出てきて、動くことも、言葉を出すこともできずにいた。
「……アイトくん」
小さくクオンが呟く。この言葉が男の耳に入ったのか、目を擦りアイトたちを凝視した。
「クソッ、あいつじゃねえのか」
男は頭を掻き、ぶつぶつと「しょうがねえ、しょうがねえよな」そう言い聞かせていた。危ない雰囲気を感じたアイトは男に伝えた。
「俺たちすぐ去るんで……。行こうクオン」
足を後ろに進め、背中にいるクオンとともに下がっていった。クオンはアイトの服を握りながら、後ろを見つつ移動している。ポリエチレンのゴミ袋、黒いべたっとした油、薄汚れた紙――それらを躊躇なく踏みながら、ふたりは路地裏から抜けようとした。
男は手のひらを上に向け、何もない空間を掴み取るように動作をすると、黒ずんだ油がアスファルトから剥がれ出した。クオンの靴底にあった油も滑りながら動き、するりと靴底から抜けた。そのせいでクオンは足を滑らせてしまい、アイトの服を握ってたせいでふたりとも姿勢を崩し、お尻からアスファルトに倒れ込んだ。
油はまるでゼリー状になり、男の周辺に這いまわるように集まっていき、くっついていった。その姿はまるで、例年に見ない寒波によってできた
「しょうがねえ……死んでくれ」
男は手をアイトたちに向けようとした。アイトは腕を伸ばした――それは男と同じように、手を向けた。
尖った大きい油の塊はアイトに向かって飛んでいった。真っ直ぐに飛んでいったはずだった。油の塊が着地し、刺さった先はアスファルト。アイトから数センチずれた、地上に刺さったのだった。男は「……どういうことだ」と言葉を漏らすと、男の後ろから足音が響く。堂々と、迷いなく、こちらに向かってきた。
「ここにいたかP.G.。いや、『凋落の輝き』か。よくもテロを起こしてくれたな。素直に投降しろ、黙秘権はないがな」
女の声に男は振り向いた。
「クソッ、保安官か!」
男が振り向いた瞬間には、もう銃声が二発鳴っていた。左右の太ももに二発、正確に彼女は撃ち抜いていた。褐色の肌とブラウンが芯にある黒い髪は、薄暗い路地裏の中ではアイトからはうまく彼女を捉えられなかった。
だが、一方的に彼女は男を蹂躙していた。膝をついた男を蹴り、男が腕を動かそうとしても容赦なく腕に銃弾を撃ち込んだ。もはや、男は痛みを訴え掛けるしかない状態。
女はジャケットから手錠を取り出し、男の両手に取り付けた。スマホで電話を掛け、路地裏にいることを告げると、男の方には背を向けて、アイトたちに向かった歩いてきた。アイトがごくりと唾を飲みつつ見ていたが、動けない男は痙攣した腕を動かし、彼女の方に腕を向けた。
「能力が!」
アイトが叫んで、知らせようとしたが、彼女はまるで気にしない様子だった。男が「クソッ、死ね!」と声を上げた次の瞬間には「アア……腕がッ!」とうめいていた。男に両手に掛けられた手錠は、熱した鉄のように赤くなっていた。アチィ……アチィ、とのたうち回っていた。
「能力を使えば反応して、最大二千度までに達する。腕がちぎれてもいいなら好きにしろ」
女は片目を男の方に向け、そう言ったあと、アスファルトに尻もちをついているアイトの目の前に立った。見た目から、アイトと変わらない年齢の少女に見えた。アイトは見上げながら言う。
「あ、ありがとうございます、助けてくれて。それじゃあ俺たちはこれで。行こう、クオン」
「う、うん」とクオン。
アイトが立ち上がろうとした瞬間に、彼女は足で押さえつけた。
「貴様、P.G.だな」
「何を言ってるのか、俺には――」
押さえつけていた足は力強くなり、アスファルトにぐっと押された。やめてください、とクオンは
「識別コードなしか。P.G.には識別コードが義務付けられているはずだが」
「だから俺はP.G.じゃない」
「なら、あいつが放った油がなぜ逸れた」
「俺にだってわからない」
冷たい目でアイトを見ていると、路地裏に何人もの人間が駆けつけてきた。奥にいた男は数人に取り押さえられながら、路地裏から外に出され、黒い車に乗せられていった。髪にはねが多いスーツスタイルの女がひとりやってきた。
「ルフィナちゃん、襲撃犯の確保ご苦労様っす。それでその子は……?」
ルフィナは答える。
「識別コードがないP.G.の可能性があります。時空地区に連れて行きましょう。イェウォンさん、車をもう一台お願いします」
「お任せっす」
イェウォンは路地裏から出ていき、他の駆けつけてた人たちと話し合った。ルフィナはクオンを見る。
「そこのお前もだ。来てもらうぞ」
ルフィナの言葉に、クオンは怯えながら首を縦に振った。アイトは体を起こそうとするが、足をどけることないルフィナ。俺たちはP.G.じゃない、とアイトが訴えるが、ルフィナはまともに取り合う気はない感じであった。
「貴様に黙秘権などない。懺悔する時間もな。どちらにせよ、話は時空地区で聞かせてもらう」
アイトとクオンは車に乗せられ、車の窓ガラスは周囲の景色が一切見えないスモークガラスのなかで車に揺られた。
「アイトくん……わたしたち大丈夫だよね……」
「ああ、大丈夫だろ」
「あの人が言ってたアイトがP.G.っていうのも何かの間違いだよね」
「……ああ、大丈夫だろ」
そこでアイトとクオンの話は終わった。アイトはスモークガラスに反射する自分を見て、顔をしかめた。