それが屋敷における私の名前。
本来の名前で呼ばれる事も無く、ただただ溜まったストレスをぶつけられるだけの存在。それだけが私の許された生き方。
『無能』と扱われ、罵られ、鞭を打たれる。笑う事も泣く事も許されず、家族と同じテーブルについた記憶もない。
「貴女はわたしの姉なんかじゃないわ。精々無様を晒して楽しませてくださる? クズで無能な便宜上のお姉さま?」
そう言って私を嘲笑う妹。
同じ母から生まれた筈なのに、なにがここまで違うのだろう?
美しいと言われる容姿に恵まれた妹。才気あふれる頭脳を持ち、誰からも好かれる性格を持つ妹。
全てにおいて完璧な存在。それに比べて私は……何一つも彼女より優れてはいないらしい。持ってもいけないようだった。
誰かに蔑まれるだけがこの家での存在意義。
「何故貴様如きが! この俺の婚約相手なのだ!! 妹を出せ、貴様よりも美しく愛おしい妹をッ!!」
ある日、屋敷を訪れた貴族の方のお言葉。十歳は上に見えるその方はそのように喚くと、私の頬を殴りつけ、怒りのままに出ていった。
それっきり見かけた事もない。
後に、私を罵声を浴びせながら語った母の言葉によれば、あの貴族様は妹を一目見て恋をしたものの、全く相手にされてなかったらしく。
それでもしつこく屋敷に婚約要請の手紙を出し、仕方なく変わりとして私を差し出す事となったが、私の事を気に入らずに婚約の話は無かった事になったらしい。
「あの程度の男からも相手にされないなんてっ、本当に私と同じ血が流れているのですか? 恥を知りなさい!」
母は私を罵った。
そんな母は一度、他の家に嫁いでいたが、そこの使用人と隠れて逢瀬を重ねていた事がばれて離縁された過去がある。その使用人との子が私だ。だから母も義父も妹も私を混じりの汚い子として扱う。
貴族と庶民の子は汚い。生きてるだけで恥だと言う。
やがて、妹の縁談が決まる。その相手はこの国の王子様、らしい。私は王子のお目を汚すからと一度も会う事を許されなかったので詳細は分からない。
正式な婚約が決まると、いよいよを以って出来損ないのクズなスペアは要らなくなった。
だから、僅かのお金が入った小袋を持たされ、無理やり追い出された。
学校に通う事も認められなかった私は学が無い。
それでも必死になって見つけたのは宮廷での仕事だった。誰でも出来るという触れ込みで、二も無く飛びついた。それしかもう無かったからだ。
宮廷での仕事は掃除が主だった。が、私の妹が王子と婚約した事を妬まれ、貴族や庶民の使用人問わず恰好のストレスのはけ口にされた。口でも手でも足でも、あらゆる暴力に襲われる。
そういう意味では環境の変化は無かった。体も心も慣れていたから、何かを思う事も無かった。
使用人からは、混血という事もあり仕事を押し付けても構わないものとされ、本来の仕事以外の雑務をやらされ、その日のうちに出来なければ、また罵られる。
それでも生きる為には必死だった。やらなければ死ぬ。死ぬのは怖かった。
でも私の体は裏切った。通常の数倍程度の仕事に耐え切れず、倒れてしまった。
宮廷で倒れた事はすぐに屋敷の両親の耳に入った。戻され、恥をかいたと罵られ、殴られては蹴られ、妹からは唾を吐きつけられた。
これがせめて最後の仕事と母に耳元で怒鳴られた内容は、ある辺境に住む老貴族の元へと嫁ぐ事だった。
病魔に侵され、意識もはっきりしないその老人の元へ死ぬまでに嫁いで、その財産を手に入れろとの事だった。幸いにも老貴族は子が出来なかったらしい、との事だ。
馬車に揺られて辺境へ向かうその道中、突然に雨が降った。
そんな気配が無かったのに、まるで私が足を踏み入れたせいだと言わんばかりに雨が降り、やがて風と雷が荒れ狂う嵐となった。
それは、私が今まで生きてきた人生そのもののように思えた。
ふと思ったのは、死だった。
あんなに死ぬのが嫌だったのに、天にも嫌われたかと思うと、死ぬのも悪くないのかもしれないと思った。
私は目を閉じた。次の瞬間には嵐が馬車を直撃し、この体は宙を舞った。そう感じて意識は途絶える。
これが私の死。私が道中で死んだ知れば屋敷ではきっと、どこまでも親不孝なクズと両親は言うのだろう。
もういいわ……実際なにも出来なかった人生。ただ周りを不愉快にするだけのクズな人生。
「目が覚めたかい?」
誰の声だろう? 聞いた事の無い声色は、不思議と心地良かった。
意識が覚めていく。
死に損なったんだ。まともに死ぬ事も出来ないとは、これは確かに出来損ないだ。
私はベッドに寝かされていたようだ。初めてのベッド。
「どうやら元気……と、言っていいかは判断に悩むけれど。とりあえず、無事でよかった」
声が聞こえる。私の無事を確かめる声。そこに不快さを滲ませない声は初めて聞いた。
そちらへ振り向くと、そこにいたのは男性だった。
清潔な人。それでいて嫌らしさが無い人だった。これも初めて見る人種だ。
つやのある青い髪の男性。私に顔の良し悪しは分からないけれど、今まで出会った男性より見栄えが良く見える気がする。
見える? どういう事?
私は右目を凝らした。……見える。もう見えなくなったはずなのに。何故?
困惑する私に、その男性が声を掛けてくる。
「不思議かな? その目は傷ついた体と共に治療させてもらったよ。それとも余計なお世話だったかな?」
そう言われても、どうだろう? 正直なところ感謝すればいいのかは分からない。死を受け入れていたから、治った体を素直に喜ぶ事が出来なかった。
それでも一つ言える事があった。
「支払えるものがない。悪いけど、あなたのどのような期待にも応えられないと思う」
そう、お金が無い。治療にお金がいる。学の無い私でも分かる事だ。
それを聞いて、何が可笑しかったのか。男性は突然笑い出した。
「あははっ、面白いね君。ただ、期待に応えられないという事は無い。既に無くなっているんだ。その目の治療法は開発中の魔法でね? 人体での実験をまだ行っていなかった。そのデータを君は提供してくれたんだよ。そして実験は成功、君はこれからの様々な人々を救う立役者となったわけだ。金にも勝る価値がある。そう、今の君はね」
なるほど、実験の役に立ったのか。褒められたのは初めてだけど、言いようのない程胸がスゥっとした。
「そう……。こんな体でも役立ててくれてありがとう。じゃあ私行くわ。婚約しなければならないから」
「あの道の先にいた貴族は先ほど息を引き取ったよ。嵐の影響か、容体が悪化したみたいでね」
困った。行くところが無くなってしまった。両親は私が嫁ぐと同時に完全に籍を剥奪してしまったから屋敷にも戻れない。
……いや、どうせ死ぬ気になったのだからそこら辺で野垂れ死ねばいいのか。
「教えてくれてありがとう。じゃあ私はこれで」
「どこか一目のつかない所で命を絶つつもりかい? もし、君に罪悪感を覚える念があるなら、ここに住まないか? 今出て行かれると僕の寝覚めが悪いんだ」
罪悪感。それは私が生まれて来た事全てだ。生まれた事が罪だと言われ、生かしてもらってる事に感謝しろと言われてきた。そんな私が生まれて来なければと後悔しながら死ぬのは、確かに罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「それに、経過観察をしなければ十分なデータは取れない。君がデータを提供するなら、その報酬に部屋と服と食事を与えよう。悪くないと思うけど、どう?」
この人は一体何を言っているんだろう? そんな疑問は浮かぶけれど、何故か断る気にはならなかった。
「……わかったわ。お願い」
こうして、私の新しい生活が始まった。