カフェを出てから、私たちはどちらかともなく、公園へと足を向けた。
いつもの散歩コース。
新緑の匂いが風に乗って運ばれてくる。
でも、今日の空気は、とても重く感じる。
「あのさ、さっきの話なんだけど……」
私が口を開くと、詩季は立ち止まって、私の方を向いた。
「うん」
彼の声は、どこか遠い。
「どうして、あんなこと言ったの?何かあったの?」
私は詩季の目をじっと見つめた。
彼の瞳の奥には、諦めの色が見えた。
「実は、この前、病院に行ったんだ」
詩季はゆっくりと話し始めた。
「最近、物忘れがひどくてさ。ちょっとおかしいなと思って」
私の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
さっき、カフェで幼い頃の記憶がフラッシュバックしたばかりだったなのか、嫌な予感がする。
「それで、なんて言われたの?」
私の声は、ひどく掠れていた。
詩季は、一度、大きく深呼吸をした。
「…早期型アルツハイマー病、だって」
その言葉が、私の耳に届いた瞬間、世界から色が消えていくようだった。
公園の木々も、空の青さも、全てがモノクロになっていく。
「そんな……嘘でしょ?」
私は思わず詩季の腕を掴んだ。
「だって、あなたまだ、30歳になったばかりじゃない!そんなこと、ありえない!」
詩季は私の手の上に、自分の手を重ねた。
彼の指先は、少し冷たい。
「俺も、最初は信じられなかった。でも、いろいろな検査を受けて、診断は確定だって」
彼の言葉の一つ一つが、ナイフのように、私の心臓をえぐっていく。
信じたくない。
信じられない。
「なんで、教えてくれなかったのよ!」
気づけば、私は詩季の胸を叩いていた。
怒りよりも、悲しみと、そして何よりも、彼が一人で抱え込んでいたことへの憤りが、私の心を支配している。
詩季は、私の叩く手を受け止め、優しく、優しく抱きしめてくれた。
彼の温もりが、私の冷え切った体にじんわりと染み渡る。
「ごめん。…怖かったんだ。紫鶴に、重荷を背負わせるんじゃないかって。俺のせいで、紫鶴の未来を閉ざしてしまうんじゃないかって…」
詩季は、私の耳元で、囁いた。
「そんなことない!重荷なんかじゃない!私たち、ずっと一緒にいるって約束したじゃない!詩季の隣にいるって言ったでしょ!?」
私の涙が、詩季の服に吸われていく。
止まらなかった。
まるで、ダムが決壊したかのように、とめどなく溢れてくる。
「ありがとう……。でもね、紫鶴がそう思ってくれていても、これから先、俺はどんどん忘れていく。紫鶴のこと、俺たちの思い出、そして……俺自身のことも」
詩季の言葉は、現実的で、残酷だった。
「それでも、私は詩季の隣にいる。私が詩季のことを覚えているから。私たちのことも、私が、全部覚えておくから!」
私は、詩季の顔を手で包んで、涙で濡れた瞳で彼を見つめた。
詩季の瞳にも、涙の膜が張っている。
「お願い。私から、詩季を取り上げないで。私には、あなたが必要なの」
この時、私たちの誓いは、ただの言葉ではなく、重さを持って、未来へと繋がれていく礎となったのだった。