人は生まれ落ちたときから、誰もがなにかしらの役割を背負わされている。生まれた環境、家柄、性別。あるいは才能や運命。私にとってのそれは「公爵家の長女」という立場だった。
「エレノア、明日からはもう少し淑やかに過ごせ。お前はわがスタンフォード公爵家の顔を汚さぬよう、慎ましくあるべきだ」
父であるスタンフォード公爵——アーネスト・スタンフォードは、私のことをそうたしなめるばかりで、愛情をかけたことはほとんどなかった。私より六つ下の弟にはいつも甘く、彼のわがままですら「男の子だから」「後継ぎにふさわしい振る舞いを学ぶためだ」と許していたのに、私には無骨な言葉しか与えられない。母は幼い頃に病で亡くなっており、以後は公爵家の女中や侍女が私の世話をしてくれた。彼女たちは優しかったけれど、私の父親代わりにはなれない。
それでも、私は公爵家の令嬢としての教育を受け、礼儀作法や踊り、文字と教養に励んだ。できる限り認めてもらいたいと、幼い頃の私は必死だったのだ。けれど父に求められるものは、常に「家門の名誉を高めること」。他の貴族の令嬢たちよりも劣らぬよう、外見を磨き、教養を身につけ、そして、いざというときは『家のために』政略結婚をする覚悟を持て——。
そう、私が公爵家の長女として果たすべき役割は、「結婚による家の権勢の維持」だった。それは頭ではわかっていたが、実際に自分の意思とは無関係な結婚が決まるなんて、夢にも思わなかった。
「……王太子妃、ですって?」
私が十九歳の春、突然そんな話を告げられたのは、父からの呼び出しを受けて執務室に入ったときのことだった。
この国はリュミエール王国。先代の国王が数年前に病で倒れ、今はその息子である王太子アレクシス・ヴァレンティン殿下が摂政として国政を担っている。まだ若いながらも聡明と評判の方で、やがて正式に国王となるお方だ。そのお妃候補と言えば、誰もが憧れる最高位の立場でもある。
しかし、夢のような話に沸き立つより先に、私の胸には奇妙な重苦しさと寒気が広がっていた。
王太子殿下が婚姻を望まれるお相手に、私が選ばれたと? そんなこと、ありえるのだろうか。
「光栄なのか、恐れ多いのか、私には……」
言葉に詰まる私を冷ややかに見つめて、父は頷く。
「まさしく光栄なことだ。スタンフォード家にとっても大変な名誉。国王陛下からの正式な命でもある。……お前が戸惑うのも分かるが、ひとまずこれが既定路線だと理解しろ」
王家からの“要請”——というよりは、国王陛下自らが取り決めた結婚だと、父は言った。私の意思など微塵も考慮されていないことは明白だった。
さらに父の口からは、どこか言いにくそうな様子でこんな事実が続く。
「……とはいえ、今回の縁組は純粋な祝福というより、我がスタンフォード家と王家の『取引』の側面もある。王太子殿下は、どうやらお前には深い愛情を抱いているというわけではないらしい」
「取引……ですか」
私は思わず噛みしめるように繰り返した。
王太子殿下といえば、以前から“愛人がいる”という噂は貴族社会で囁かれていた。正確には“公然の愛人”と言われる女性がいて、殿下が人前でも隠さず連れ添っていると。あまり公式の場には出ないが、それでも貴族の集まりなどでは目撃例が多数あるそうだ。
それを父に問いかけると、彼は渋い顔をしながらうなずく。
「お前も既に耳にしているだろうが、確かに……王太子殿下には幼馴染でもある女侯爵がおられる。おそらく今でも深い仲だ。だが、王家の血筋の正嫡を産む正妃が必要になる以上、愛人を妃とするわけにはいかぬ。そこで、血筋や家柄に問題なく、宮廷政治にも貢献が見込める家として、わがスタンフォード家が選ばれたということだ」
簡潔に言えば、「政治的に王家の味方になれ」ということだ。スタンフォード家は代々、軍事面で国に貢献してきた歴史がある。父も軍務卿として王国の防衛に力を尽くしてきたし、国の財政に関わる利権を多く所持している。そんな家柄を、王家側に取り込みたいのだろう。
だが私は、この瞬間に悟った。
「……王太子殿下にとって、私という存在はただの政略上の“駒”にすぎないのね」
父は答えない。けれども、その顔は全てを物語っていた。
それでも公爵家としては、王家との縁組は願ってもない話だ。まして、スタンフォード家は男子の後継者(私の弟)を今は大事に育てている最中。父からすれば、長女である私を王家へ嫁がせて宮廷とのパイプをより強固にし、弟が将来、有利に立てる環境を用意する……まさに理に適った取引だろう。私個人の想いなど、問題外なのだ。
何とも言えない虚しさが広がった。どんなに父に認められたいと思って努力しても、結局私は「家の役に立つ道具」にすぎないのか。涙を流したいわけではないのに、瞳の奥が熱くなる。
そんな私の内心を悟ったのか、父はふっと視線を外して呟いた。
「……お前に不服があろうとも、これは公爵家として避けて通れぬ道だ。エレノア、お前も自覚してくれ。これはお前だけの問題ではない」
そう言い残して、父は机の上にある書類へ視線を落とした。自分の言葉を決して曲げるつもりはない、という意思表示。もはや何を言っても無駄なのだろう。私もそれを悟り、小さく息をついた。
こうして、私の意思とは無関係に、**“王太子妃になる”**という運命が決められたのだった。
◇◇◇
そして数日後、正式に宮廷へ呼び出しを受けた私は、後見人として父を伴い、王宮に足を踏み入れた。
リュミエール王国の王宮は、白を基調とした大理石の壁と金の装飾がまばゆいばかりで、まるで光の都のように豪奢で美しい。その雄大さに圧倒されながら、私は国王陛下の間へと通される。
この日、国王陛下——病床に伏せっている先王に代わり、摂政としての権限を持つ王太子アレクシス殿下が、私の結婚を正式に認める儀式を執り行う手はずだった。
広々とした玉座の間に通されると、そこには私たちを出迎える侍従や近衛騎士、そして限られた重臣たちが控えていた。重厚な赤い絨毯の向こうに、玉座を模した椅子が置かれ、そこに一人の青年が腰掛けている。
——王太子アレクシス・ヴァレンティン殿下。
年の頃は私より三つほど上だろうか。漆黒の髪を短く整え、端正な顔立ちに琥珀色の瞳が鮮やかだ。身に纏う衣装は王族ならではの深い青を基調にしたもので、胸元には金糸の紋章があしらわれている。一目でわかる、気品と威厳。そして、冷ややかともいえる雰囲気の持ち主だった。
私は背筋を伸ばし、儀礼的な礼を取る。隣にいる父も深く頭を下げた。
「スタンフォード公爵、並びに公爵令嬢エレノア・スタンフォード。王太子殿下のご前に参上つかまつりました」
その声に応じて、アレクシス殿下はわずかに頷く。けれども、その瞳には興味がなさそうな冷淡さが宿っていた。王族特有の傲慢さ、というわけではない。むしろ、「無関心」と言ったほうが近いかもしれない。
私は視線を下げたまま、そのわずかな空気の動きを感じ取る。しんとした室内。聞こえてくるのは、衣擦れの音と、誰かが小さく喉を鳴らす気配のみ。
「スタンフォード公爵」
アレクシス殿下が低く言葉を発した。
「陛下のご意志は既にそなたにも伝わっているだろう。エレノア・スタンフォードを、我が正妃の候補として迎えることを国の名で保証する。これに異議はないな?」
父は恭しく頭を垂れ、**「もちろんでございます」**と答えた。
そして、そのまま殿下の視線が私へ移る。
「……エレノア・スタンフォード。これより先、そなたは私の妃となり、王家を内助する立場となる。心して務めを果たせ」
思いのほか早い段階で私の名を呼ばれたため、内心で少しだけ戸惑いつつも、私は顔を上げて静かに返事をした。
「は……はい。わたくしでお力になれるのであれば、精一杯努力いたします」
本来であれば、喜びを露わにして応じるべきだろう。けれど私の心中にあるのは複雑な感情ばかり。おそらく殿下も、私を特別見ているわけではない。ともすれば“形式的に言わされている”にすぎないのだろう。
アレクシス殿下は私の返答を聞くと、淡々と次の言葉を告げる。
「……よろしい。後ほど、宮廷のしきたりや行事などについて侍従が説明する。近く正式な婚約発表を行い、それからしばらくのちに挙式となるはずだ。準備のため、お前はしばらく王宮に滞在することになる」
聞き慣れない単語の羅列に、思わず身が硬くなる。でも、ここで表情を崩せば“王太子妃となるべき資質に欠ける”などと言われかねない。
私はかろうじて笑みを作り、「承知いたしました」と再び礼をとった。
すると、そのとき。アレクシス殿下がわずかに口元を動かし、低い声で誰にも聞こえないように呟いた。
「……愛など、最初から求めるなよ。お前には“王妃”の務めだけ果たしてもらえればいい」
驚いて顔を上げると、そこには先ほどと変わらない冷ややかな殿下の表情があった。私を見下ろしながら、まるで一人ごとのように。
深く刺さる言葉に、胸が痛む。だが、それは私があらかじめ想像していた通りのものでしかなかったのかもしれない。
「……はい、殿下のお望みのままに」
そう答えるしかなかった。王太子の瞳には何の感情の揺らぎもない。私という存在が、彼にとっては「政略上の義務を果たす駒」だということを、改めて思い知らされたのだ。
◇◇◇
結局、私たちがその場で交わした言葉は形式的な挨拶と、この冷たい忠告だけだった。その後、私は父とともに殿下の侍従から詳しい説明を受け、あれよあれよという間に「王太子妃候補」という肩書きになってしまった。
儀式という名の婚約に近い手続きが滞りなく進み、正式発表こそまだだが、私は父に促されるまま王宮に用意された部屋へ移ることに。もちろん、ここには公爵家の侍女も数人連れてきたが、広大な王宮の中、彼女たちだけが私の心の支えだ。
自室に落ち着いたのは夕刻を回った頃だった。部屋に入り、大きく息をつく。豪奢なベッドに腰を下ろして周囲を見回すと、壁には煌びやかな装飾が施され、窓からは手入れの行き届いた美しい中庭が見える。私がそれまで過ごしていた公爵邸の部屋も充分に広かったが、ここは比べものにならないほど贅沢だ。
「……これが、王妃候補の部屋……」
私はぽつりと呟き、心に渦巻く思いを抱えながら、大きく横になりたい衝動を抑えた。こんな場所に身を置くことになるなんて、自分で選んだ道ではなかった。だけど、ここで逃げ出すわけにもいかない。
すると、ノックの音が聞こえて侍女のクラリスが入ってくる。
「お嬢様……いえ、もう“王太子妃候補様”とお呼びするべきでしょうか。急なことでお気持ちが落ち着かれないかもしれませんが、お支度が一通り済みましたのでご確認を……」
彼女は幼い頃から私に仕えてくれている侍女の一人で、私にとって姉のような存在だ。私は微笑もうと努めたが、どうしてもぎこちなくなる。
「クラリス、今まで通りでいいわ。私自身がまったく実感がわかないのだから……。ああ、ありがとう。荷物をまとめてくれたのね」
部屋の隅には、父の指示で急いで持ってきた衣装や装飾品などが積まれていた。
クラリスは気遣うように視線を落として言う。
「お嬢様が突然ここへ来ることになって、私たちも驚くことばかりです。でも……私たちはいつでもお嬢様のおそばにおりますから、どうかご無理なさらないでくださいね」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。家族からは愛情を与えられなかったけれど、私はこうして侍女たちに支えられて生きてきたのだと思うと、少しだけ心が安らぐ気がした。
しかし、これからの生活は想像以上に波乱に満ちていそうだ。何しろ王太子殿下には“公然の愛人”がいる。それだけでも充分に厄介な問題だというのに、彼女やその取り巻きから嫌がらせを受ける可能性もある。さらに、王太子殿下の母君である王妃陛下の存在。もし、王妃陛下が私のことを歓迎していないとしたら? 考え出すときりがない。
私はクラリスに礼を言ってから、少しだけ休むように頼み、部屋を出て回廊を歩き始めた。王宮の中庭を一人で歩けば、頭の中が整理できるかもしれない。
◇◇◇
王宮の中庭は広く、噴水や美しい草花が並ぶ。照りつける日の光は既に少し傾きかけ、春の夕暮れがやわらかに空を染めていた。敷石の上をゆっくりと歩くと、風が緑の香りを運んでくる。
こうして自然の中に身を置くと、不思議と心が落ち着いてくる。ここ数日の慌ただしさは、一体なんだったのだろうと思えてくるほどだ。
でも、現実は変わらない。あと数日もしないうちに、私は正式に「王太子妃候補」として公表される。そのとき、貴族たちからどんな目を向けられるのだろう。
歩を進めていると、ふと遠くで人の話し声が聞こえた。小さな回廊の奥、植え込みの陰になっていてよくは見えないが、どうやら誰かが親しげに会話しているようだ。
「……私に……約束……だったのに」
途切れ途切れに聞こえてくる声は、女性のものだろうか。少し高めの声で、何か訴えかけるように響いていた。その相手が誰なのか、なぜか気になって、私はこっそりと植え込みの陰から様子を伺う。
すると、そこには黒髪の青年——アレクシス殿下らしき姿があった。そして殿下の前で肩を震わせているのは、淡い桃色のドレスを纏った美しい女性。
遠目に見ても、美貌と気品を備えているのがわかる。年の頃は私と同じくらいか、少し上かもしれない。
——まさか、あの愛人と言われる女侯爵か。
噂によれば「アメリア・リンドバーグ」という名の貴族令嬢が、殿下の幼馴染にして愛人だという。彼女は祖父から受け継いだ侯爵位を持ち、宮廷でもある程度の権勢を築き上げているのだとか。王太子殿下が幼い頃から慕っており、将来的には王妃になるとも噂されたほどだ。
しかし、結果的に王太子妃は私——エレノア・スタンフォードに白羽の矢が立った。それに彼女が納得していないのは、容易に想像できる。
そのとき、アレクシス殿下の低い声が聞こえた。
「アメリア……勝手を言うな。これは国王陛下が下された決定だ。私個人の感情を優先して動ける段階は、すでに過ぎた」
言い聞かせるような口調に、女性——やはりアメリア・リンドバーグだろう——はなおも訴える。
「でも、殿下は私に『いつか』と約束してくださいました。たとえすぐには無理でも、私を正式な伴侶として迎えてくださると……」
声が震え、こぼれる涙が見えるような気がした。アメリアは必死なのだろう。もしかすると、彼女自身も「愛人」と呼ばれながら真摯にアレクシス殿下を慕ってきたのかもしれない。
アレクシス殿下は少しだけ言葉を飲み込んでいるようだったが、やがて静かな声音で告げる。
「……アメリア、お前の気持ちはわかっている。だが、今さらどうすることもできない。私が個人的に抱く感情だけでは、王家は動かないのだ」
アメリアは唇を噛みしめ、それでも殿下の腕を掴もうとする。だが、殿下はそれを優しく拒むように手をほどいた。
私は、なんとも言えない胸の痛みを覚えながら、その場をそっと離れた。二人の私的な場面をこれ以上盗み聞きするのは良くない。
ただ、ほんの一瞬だけ、殿下の横顔に深い悲しみのようなものを見た気がした。あの冷たい態度しか見せなかった殿下が、こんな表情をするなんて……。
——そうか。やはり彼にとっての本命は、あの女性なのだろう。
ならばなおさら、私と殿下の結婚に愛情なんて入り込む隙間はないのだ。そんなことは初めから承知していたし、今さら動揺するつもりもない。
「ただ、結婚を『形』として担うだけ……」
自嘲ぎみにそう呟いた自分の声が、思いのほか虚しく響いた。
◇◇◇
翌日からは、王宮での新生活が始まった。
とはいっても、実際には「王太子妃になる前の準備」が主な仕事だ。まずは王家の紋章のついた部屋着や公務のときのドレスを合わせるため、宮廷仕立屋が私の身体を採寸するところから始まり、ティーサロンに集う貴婦人たちへの顔合わせなど、めまぐるしくスケジュールが詰まっている。
さらに、礼儀作法の復習として宮廷での特殊な作法や慣例を、女官長のマリアンヌ夫人から厳しく叩き込まれる。公爵家での教育とは違う細かな決まりが幾つもあり、覚えるだけでも骨が折れそうだった。
だが、それらを投げ出すわけにはいかない。私はむしろ、やるべきことが多いほうが気持ちが紛れてありがたい。王太子殿下と顔を合わせる機会も少なくなるし、結局殿下は私に何も求めていないのだから、私が黙々と「王太子妃の務め」を覚えればそれでいいのだ。
……ただ、王宮の噂好きな女官たちは、それでは済ませてくれないようだ。
廊下の曲がり角を歩いていると、声を潜める女官たちのひそひそ話が耳に入ってきた。
「あれが、スタンフォード公爵家の令嬢……エレノア様? 王太子殿下の新たな妃候補だってね」
「まだ挨拶もしてないけど、どんなお方かしら。殿下は愛人の女侯爵のほうをずっと贔屓してると聞くけど……」
「さあ。でも、公爵家の娘とはいえ、これであのリンドバーグ侯爵令嬢がどう動くか……。私はそっちのほうが怖いわ」
私が通りかかると気づいた彼女たちは、慌てて話を打ち切り、深々と礼を取った。表面上は丁寧に接してきたけれど、その瞳には明らかな好奇の色が浮かんでいる。それを痛感すると、心中は穏やかではいられない。
しかし、こうして後ろ指を指されるのも、王太子殿下の愛人の存在が大きく影を落としているからだ。王太子の心は既に誰かのもの——それが分かっている以上、私が取り入る余地などないだろうというのが、王宮の大方の見方だろう。
意外にも、私のことを正面から「田舎者」だとか「ただの飾り」だとか罵ってくる人間はいない。それは公爵家の権威に対する恐れもあるだろうし、形式上は私は“次期王太子妃”という、王族に準ずる身分を得ているからだ。
けれど……。
「おはようございます、エレノア殿下。あら、まだ“殿下”ではありませんでしたね。うふふ」
などと、意地悪く笑いかけてくる貴婦人もちらほらいる。こうした微妙な嫌味をスルーしなければいけない場面は、これから幾度となく出てくるのだろう。
私はひとまず、笑顔をつくって言葉少なに受け流すしかない。ここで反抗したところで、何も得がないし、下手をすれば「器量が狭い」と思われる。それに、この冷ややかな環境が当たり前になるのなら、慣れてしまったほうがいい。
◇◇◇
そんなある日のこと。
私が女官長のマリアンヌ夫人との講義を終えて、疲れた身体を引きずるように自室へ戻る途中、先日の中庭で見かけた女性——アメリア・リンドバーグ侯爵令嬢と廊下の角で鉢合わせた。
アメリアは一瞬、私を見てピタリと足を止め、そして意味ありげな笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、スタンフォード公爵令嬢。……いいえ、王太子妃候補様、とお呼びすべきかしら」
艶やかな黒髪を緩やかに結い上げ、ピンク色の華やかなドレスを着こなす姿はとても美しい。けれど、その瞳には底の見えない冷たさがある。
私が礼を取っても、彼女は返礼をしない。そのまま私の姿を舐め回すように見て、ふっ、と口元を歪めた。
「あら、思ったより地味なのね。もっと堂々としていらっしゃるのかと思ったけれど……これが公爵家のお嬢様なの? それとも王太子殿下に相手にされないから、自信を失くしているのかしら」
あまりに露骨な物言いに、私は少し絶句した。けれど、ここで感情をむき出しにしては相手の思う壺だ。私はできる限り穏やかな表情を保ち、静かに答えた。
「お見苦しいところをお見せしたのなら、申し訳ありません。ですが、王宮の作法をまだ学んでいる最中ですので、堂々としていられるほど余裕がございませんの」
するとアメリアは、嘲るような笑みを深くする。
「へえ……さすがは“形だけの王妃”候補、というところかしら。私と殿下の仲はご存知でしょう? 殿下が本当に愛しておられるのは誰なのか、あなたもわかっているはずよね」
ドキリと胸が疼く。けれど、それは図星を突かれて落ち込んだわけではない。彼女の矢のように刺さる言葉に、私の心がちくりと痛みを覚えたからだ。
「ええ。……もちろん、噂は聞き及んでおります。けれど、これは陛下がお決めになった結婚。私ごときがそれを覆せるはずもありません」
できるだけ柔らかく答えたつもりだが、アメリアはまるで聞き入れず、つんと顎を上げる。
「そうね。あなたが殿下との結婚を断る権利なんて、最初からないもの。陛下の決定には王太子殿下も逆らえない。……でも、もう一度言っておくわ。殿下の心は私のものよ。あなたが政略結婚でどんなに“妃”を名乗ろうと、殿下が大切に思うのはこの私」
高いヒールで床を鳴らし、アメリアは私の背後を通りすぎていく。そのとき、かすかな香水の香りが漂うと同時に、小さな囁きが耳を打った。
「……これから先、王宮で生きていくのは楽ではないわ。どんなに見栄を張っても、殿下に愛されない妃など、存在価値などないも同然。心しておくことね」
痛いほど鋭い言葉だった。けれど、私はアメリアの背中を見送りながら、大きく深呼吸をして心を落ち着かせる。
正直なところ、王太子殿下に愛されないことを嘆く気にはなれない。なぜなら、私もまた彼を愛していないから。けれど、周囲から「愛されない王太子妃」などと嘲笑される生活が続くのは、決して愉快なものではない。
「……大丈夫。もともと、愛されるなんて期待していない。私は与えられた役割をこなすだけ」
自分に言い聞かせるように呟き、私は再び歩き始めた。こんなところで立ち止まっている暇などない。早く部屋に戻って明日の準備をしなければ。私は私のなすべき務めを完璧にこなすしかないのだ。
だが、このときはまだ気づいていなかった。今後、私がここまで踏みにじられる展開が待っていようとは——。
◇◇◇
それから数日後、いよいよ私と王太子アレクシス殿下の「婚約発表」が行われることになった。公の場とはいえ、盛大に祝賀するような形式ではなく、王宮に縁の深い一部の貴族を招いて内々に行われるという形だ。
場所は王宮の大広間。重厚なシャンデリアと壁に飾られた絵画が見事で、床には豪華な絨毯が敷かれている。そこに集まった人々は、皆一様に緊張した面持ちで王太子殿下の登場を待っていた。
私も、白のドレスを纏い、緊張で手のひらに汗をかきながら控え室で待機する。そして、呼び出しの声がかかると、王宮の女官たちに背中を押されるように大広間へと足を踏み出した。
すでにそこには、アレクシス殿下が立っていた。深い青の礼服に王家の紋章をあしらったマントを羽織り、その姿は文句なく優美で堂々としている。こんなにも絵になる人物が“私の夫”になるのだと考えると、不思議な違和感が募るばかりだった。
「——王太子アレクシス・ヴァレンティン殿下の婚約者として、エレノア・スタンフォードをお迎えいたします」
司会役の声が響き、私は殿下の隣に進む。王宮の習わしに則って、一度屈んで膝を折り、深く礼をする。それに対し、殿下はほとんど無表情のまま私を引き起こした。
そして、集まった貴族たちに向かって静かに宣言する。
「諸君、私がスタンフォード公爵令嬢との婚約を結ぶことになった。この婚姻は国王陛下の勅命であり、近々、正式な儀式を執り行う予定だ。……以後、エレノアを私の正妃として遇することになる。皆も心しておけ」
その声は広間に響き渡ったが、どこか形式的な響きが拭えない。私は視線を落としながら、その言葉を黙って聞くしかなかった。
大広間に集う貴族たちは、拍手や感嘆の声を上げる者もいれば、静かに頷くだけの者もいる。アメリア・リンドバーグ侯爵令嬢も招待されているはずだが、私の視界には入ってこない。どうやら、一番後ろからこちらを見つめているようだったが——あえて私は探さないようにした。
こうして、私と王太子殿下の婚約は正式に公になった。けれど、その場で殿下は私に声をかけることなく、さっさと退出してしまう。まるで私を人形扱いしているかのように。
周囲の貴婦人や貴族たちが私に祝いの言葉をかけてくれる。
「おめでとうございますわ、王太子妃候補様」
「スタンフォード公爵家にとっても、これほどの慶事はございませんね」
だが、その表情にはお世辞半分、好奇心半分が混ざり合っている。心から祝福している者など、そう多くはないのだろう。皆、私と殿下の間に愛がないことを知っているのかもしれない。
私が空虚な笑みを返していると、いつの間にか父が近づいてきた。
「エレノア。……よくやったな」
まるで全てが成功したかのような誇らしげな表情で父は言う。その視線は私ではなく、殿下が先ほど立っていた場所のほうを向いているようだ。
「これでスタンフォード家の未来も安泰だ。貴族たちの中にも、我々を軽んじる者は減るだろう。お前も早く王宮での暮らしに馴染むように努めるのだぞ」
父の言葉に、私は複雑な感情を飲み込みながら、小さく頷いた。自分の感情など二の次だと、何度も言い聞かせているのに、心の中で何かが軋む音がする。
こうして表向きは何も問題なく、一つの“政略結婚”が成し遂げられたかのように見えた。だが、私の新しい生活は、まだ始まったばかりだ。
◇◇◇
その日の夜。華やかな大広間での発表を終え、私の部屋には贈り物や祝辞の書状が届けられていた。
私は侍女のクラリスと一つ一つ確認しながら、どれも形だけの祝福にすぎないな……と心の中で冷めた思いを抱いていた。実際のところ、これらは「王太子妃候補に媚びを売っておくと後々得になるかもしれない」という打算によるものが多いだろう。
そんな中、一つだけ、気になる包みがあった。差出人が書かれていないうえに、王宮に仕える誰かが匿名で置いていったらしいのだ。何だろうと開けてみると、そこには……。
「……これは……」
驚くべきことに、そこには「私と王太子殿下の噂」を面白おかしく書き連ねた紙片の束が入っていた。内容は、私を卑下する言葉ばかりが並ぶ。
「スタンフォード家は王家の財政権限を使って王太子殿下をも籠絡しようとしている」
「本命はアメリア・リンドバーグ侯爵令嬢。エレノアはただの飾り人形」
「王太子殿下は愛人を侍らせ、王太子妃には興味なし。形ばかりの結婚」
……などなど、読むに堪えない悪意が渦巻いている。
私は思わず息を飲み、その紙片を手放しそうになる。これを送ってきたのは誰なのだろう。まさかアメリア本人……? それとも、彼女を支持する誰かの仕業か。あるいは私を妬む貴婦人たちの悪意の結晶か。
クラリスも硬い表情で言う。
「酷い……。こんなこと、誰が……」
でも、きっと王宮ではこれが現実なのだ。私は王太子殿下に愛されず、周囲からは形だけの妃とみなされ、嘲笑を買う。そんな逆風を受けながら、私は“王妃の役割”を果たしていかなければならない。
「……気にしないわ。もともと、こういうことは覚悟していたから。クラリス、処分しておいてちょうだい」
そう言って、私はグシャリと紙片を丸める。けれど、心の中にひとかたまりの痛みが宿るのを感じずにはいられなかった。
誰にも愛されない、ただの道具——今まで実家で「駒」として使われてきたのと何も変わらない。この先の宮廷生活も、私が王妃としての務めを果たしつつ、周囲の嘲りに耐える日々なのだろう。
だけど、それでいい。たとえ心が痛もうと、私には帰る場所も、頼るべき家族の愛もないのだから。あとは、私なりに“王太子妃”としての役割をこなし、スタンフォード公爵家の顔を潰さぬようにする。それが私の生き方になるのだ……。
◇◇◇
夜も更け、私は大きなベッドの上で目を閉じた。外から微かに聞こえる夜風の音だけが、広い寝室に響く。
ふいに、今日の昼間、大広間で殿下に引き起こされたときの冷たい瞳が脳裏に浮かぶ。あのとき、殿下は私の手を握りもしなかった。形だけ腕を添えて立たせただけ——。
そして、その背後には愛人のアメリア・リンドバーグがいる。殿下の本心を知るまでもなく、私との間に愛情など存在しない。
心の奥底で、なにかがちくりと痛むのはなぜだろう。私は誰にも愛されることを期待していないはずなのに。そのはず、なのに……。
「……きっと疲れているのよ。早く寝ましょう……」
自分に言い聞かせ、私は薄暗い部屋で一人そっと目を閉じる。
こうして私は、愛のない結婚を前提とした王太子妃候補として、冷ややかな王宮での生活を始めることになった。誰からも心から祝福されず、ただ一人で耐えながら。それでも、私にはやらなければならないことがある。たとえ愛されなくても、私は私なりに務めを果たし、この場所で生きていく——。
そう決意を新たにし、孤独な夜を迎える私には、まだ知る由もない。これから待ち受ける運命が、どれほど残酷で、そして……それを乗り越えた先にどんな未来が待っているのかを。