まるで海が太陽を包むように赤く、そして青く輝いていた。どこまでも続く青い海。いくつもの小島が並び、まるで陽の光の塊のようにさえ感じられた。
広大な港がそれを見つめている。港にはガレオン船と呼ばれる大きな帆船が軒を連ね、夕方というのに人々はせわしなく行き来していた。
艀には東西を問わない様々な物品が樽に詰められ、船に積み下ろしそして積み込まれる。
アジアでこれほど活況に湧く港は当時、どこにもなかったであろう。
人はこの湾をマニラ湾と呼んでいた。
征服者であるスペイン人がこの地にマニラという都市を建設し、そして港を開いた。
わずか半世紀の間にこの街は変貌を遂げ、アジア貿易の中心として栄えていた。
そしてこの国では、太陽が沈むことはない。
ここは、世界に冠たるスペイン帝国の植民地なのだから。
ここで太陽が沈んだとしても、スペイン帝国の何処かでは太陽が頭上に輝いている。
それは本国のヨーロッパか。
それとも新大陸の植民地か。
もしくは併合したポルトガルの植民地であるアフリカ諸都市か。
世界のどこかのスペインの領土では太陽がさんさんと大地を照らしているのだった。
『太陽の沈まぬ国』と当時の人々はこの帝国を称した。そしてこの国はその全盛期の国王であるフェリペにちなんで、『フィリピン』と名付けられることとなる――
港の混雑の中を行く一人の若者。腰には剣を帯び、上半身には簡素だが立派な鎧をまとっていた。
髪は金色がかった茶色であり、背は高い。年の頃は二〇歳前半であろうか。
彼は船を見上げる。係留された船はガレオン船と呼ばれ、まるで巨大な建物のようである。黒くタールで塗り固められた舷はまるで難攻不落の門のようにそびえ立っていた。
何本もの太いマストと帆布。まるで粘土細工のような帆布は風に揺らぎもせずに、立ち並ぶ。
その合間にブルゴーニュ十字の旗が太陽に眩しく翻っていた。
(我が国、世界に冠たるスペイン......!)
若者は心の中でそう呟く。やや自嘲のエッセンスを交えながら。
「イノセンティオさま」
後ろにいた従者が声をかける。はっとするイノセンティオと呼ばれた青年は振り返る。
「すまん、少し考え事をしていた」
「立派な艦隊ですものね。オランダの連中などに負けるわけはございません」
「戦いは時の運だ。負けることもある。かつてわが無敵艦隊が敗北したように」
主人のいつもの言いように中年の従者は少しうなだれる。
「それはそうとして――デ=リスト伯がお呼びです。公邸に来てほしいと」
イノセンティオは無言で視線を再び船のほうに向ける。
ため息をつく従者。
行きたくはないが、行かざるを得ないという雰囲気がイノセンティオの背中からにじみ出ていたからだった。
イノセンティオが見つめる先にはガレオン船が海面を埋めていた。
太陽がマニラ湾の水平線に沈もうとしている。
青く、まるで大理石の石に太陽の赤い火球が溶け込むように――
一七世紀初めごろスペイン帝国は絶頂期を過ぎ、早くも陰りが見え始めていた。
フィリペ二世はすでに亡く、帝国はその孫のフェリペ四世に引き継がれていた。
無敵艦隊と呼ばれたスペインの艦隊はアルマダの海戦で敗れ、また海上交易においても新興のオランダに押されつつあった。
ここフィリピンでもその雰囲気を感じることができた。
オランダ海賊とオランダ東インド会社の情報がスペインの商館やフィリピン総督府にもたらされる。スペイン船がオランダ勢力に襲われた、という報告である。
「今月に入って、すでに三隻もやられた」
そういいながら書面をランプに透かす男性。身なりからスペインの貴族のように思われた。年の頃は四十前後だろうか。腰に帯びている剣には凝った意匠の彫刻が彫られていた。
テーブルをはさんでイノセンティオが無言で椅子に身を任せていた。
豪奢なテーブルにはワインが二本。いずれも本国産の逸品である。
すでに、一本は空である。しかし、それはほとんど中年の男性の喉を潤していた。
「困ったことだ。総督府に何度もせかされている。一体、マニラの騎士団は何をやっているのか、と」
人差し指でグラスをはじく中年の男性。ほろ酔いではあるが、さして機嫌がよさそうにも見えない。
「デ=リスト伯――」
イノセンティオが重い口を開く。
それを右手で封じるデ=リスト伯と呼ばれた男。
「言い訳はよい。君だけの失態ではない。このマニラに駐屯する騎士団と植民地船団、総督府さらにはアカプルコの副王閣下の責任を問われかねん。わかってほしい、イノセンティオ=デ=アンダ」
重々しいデ=リスト伯の言葉にイノセンティオは無言で立ち上がり、一礼すると部屋を後にする。
デ=リスト伯は大きくため息をつくとまた、ワインの栓を開けるのだった。
翌日の朝、イノセンティオは再び、マニラ湾の港にいた。
陽が昇るのと同じくして、人々は活動を始める。
ガレオン船に積み荷を積み込む船夫。金で雇われた現地民の姿も多い。背中に担がれた無数の樽がまるで生き物のように列をなして、うごめいていた。
スペインの植民地マニラに面する港の朝の風景である
この海の先には太平洋があり、そして大陸を挟んで大西洋がある。
大航海時代の喧騒も落ち着き始めた一七世紀の前半。
ここフィリピンでは一つの火種がくすぶっていた。
新興勢力オランダの侵攻である。
ヨーロッパではのちに三十年戦争と呼ばれる大規模な動乱が幕を開けていた。
もとスペインの支配下にあったオランダは、完全なる独立を目指してこの戦争に参加していた。オランダはプロテスタントの国である。当然のごとくカトリックのハプスブルク家と対立することとなる。
一方スペインは同じハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナントを助けカトリック連合に参加していた。
ヨーロッパで激しい戦いが始まる中で、はるか離れたこの東南アジアの地でもその余波が押し寄せていた。
東インド会社――オランダの国営の貿易会社。軍事力を有し、アジアにその勢力を伸ばしつつあった。
インドネシアに植民地を作り、はては台湾を占領しアジア支配の拠点となる要塞を建設しようとしていた。
当然、このフィリピンにもその手は伸びつつあった。
それを食い止めるのは目の前に居並ぶスペインのガレオン船の群れと、彼が所属するマニラ騎士団の務めであった。
イノセンティオは大きくため息をつく。目を閉じ、下を向きながら。
――その時、大きな音が彼の耳をつんざいた。