イノセンティオは戸惑いつつも、記憶を呼び戻そうと努力した。正直、あの時代はつらい時期だった。本国を捨てヌエバ・エスパーニャに追われるがごとく移住した少年時代。しかし眼の前のソイラがあまりにも期待に満ちた目で訴えかけてくるとの見ると、断るのも気が引けた。何よりこの少女にイノセンティオは『頼み事』をしなければならなかったのだ。
「あれは、まだ私が十代の頃だった――」
じっとソイラはイノセンティオを顔を見つめる。
「ヌエバ・エスパーニャのアカプルコに一隻の船がやって来た。太平洋を渡ってな。太平洋を横断すると大概の船はぼろぼろになるものだが、その船はまるで新品のようだった。名前は――」
「サン・ファン・バウティスタ号」
「そう、聖人の名前だった」
ソイラは上機嫌そうに船の名前をそらんじる。
「その船には探検家のビスカイノがいた。私の父の知人だった。そして見慣れぬ服装の一団。腰には刀を差し、現地人とも違う雰囲気を醸し出していた」
「それが――」
そう言いながらイノセンティオを指差すソイラ。
「伊達家の武士――慶長遣欧使節団」
「遣欧使節?」
聞き慣れない単語に不思議がるイノセンティオ。
「彼らの目的は主君伊達政宗公の命により、遠くスペイン本国そして」
傍らにあった地球儀を取り上げるソイラ。スペインでも珍しい品物であった。
「ここ、イタリアのローマを目指して旅立っていく。太平洋のあとは大西洋を渡り、そしてヨーロッパへと」
話が壮大になってくる。ソイラは楽しくてしょうがないように地球儀の上を指でなぞる。
「彼らは再びサン・ファン・バウティスタ号に乗って日本へ。実はこの時、一度太平洋を往復していたの。伊達家の使節がヨーロッパに行っている間に」
イノセンティオは驚く。サン・ファン・バウティスタ号が太平洋を二往復したという事実に。
当時のガレオン船は強固ではあるが、結局木造船である。腐食に弱く、また木材の隙間から水が入り嵐で沈没してしまうことも度々であった。
太平洋を片道航海しただけでも使い物にならなくなる船が多いのに、サン・ファン・バウティスタ号は太平洋は二往復も――
はっ、とイノセンティオは気づく。それにソイラも気づいたようで、微笑みを返す。
「わかった?昨日私が一悶着起こした船の名前。覚えている?」
イノセンティオの頭の中ですべてが繋がる。
昨日、スペイン海軍の下士官が帆を外そうとして眼の前の少女ソイラに返り討ちにあったその船の名前を。
その船の名前は――サン・ファン・バウティスタ号といった――