「と、トールさーんっ」
「……リン? 落ち着け、転ぶな――」
「あうばばばば!?」
トールと呼ばれた黒髪の少年が振り返ると同時に、エルフの少女がびたんっと転んだ。
顔面から、思いっきり、石畳へ。
また守れなかった……という表情を、トールは両手で覆い隠す。ひとしきり嘆いてから、背負っていた引っ越し荷物を地面に置いた。
「はぐぐぐぐ……」
一方、リンと呼ばれたエルフの少女は、石畳に顔を埋めたままぴくぴく痙攣している。陸に上がったマーメイドのように。エルフなのだが。
登ったばかりの陽光が舞い踊るストロベリーブロンドの髪を瞬かせ、トールよりも長く細い耳がぴこぴこと動く。
早朝の大惨事。
けれど、ルーンで補強された――というか、トールが補強した――若草色の薄布を重ね合わせたワンピースには、傷も汚れもない。
実のところ、このエルフの末姫にとっては、この程度日常茶飯事。
「うう……。転んで胸が潰れてしまいました」
「いや、潰れるほどねえだろ」
「ごめんなさい、見栄を張りました!」
「認めるぐらいなら言わないほうが、ダメージ小さいんじゃねえかな……?」
「それよりも、トールさんっ。間に合って良かったです!」
「良かった? この状況が? 翻訳、間違ってねえよな?」
トールは《翻訳》のルーンが刻まれたイヤリングに触れながら自問するが、それもまた日常茶飯事。
リンは元気に顔を上げ、柔和な笑みを見せた。転んだまま。ちょっと、涙目で。
「なんで、戦場以外だと転けがちなんだろうなぁ」
「低いところが落ち着くからだと思います!」
「後ろ向きなのにポジティブだな、おい」
白く細い手を取って、トールがリンを立たせる。そして、ハンカチで顔を拭き、軽く髪のほこりを払ってやった。
その間、リンは、トールの為すがまま。時折、嬉しそうに耳をぴくぴく動かし、当然のように受け入れている。
こういうところだけは、エルフのお姫さまっぽいなと苦笑する……が、すぐに表情が翳った。
「ふうっ……。こうしてリンを助け起こすイベントも、しばらくはないのか……」
「あうわわわ……。そう、そうなんですよね……」
旅立つトールを見送りに来た。
それが分かっていながら、リンは整った相貌をくしゃっと歪める。
「これから、私はどうやって呼吸をしていったら……」
「そのレベル!? というか、俺たちって出会ってからほんの二年ぐらいだよな!? その前は、どうしてたんだよ!?」
「それだけ、私の日常はトールさんに依存しているわけです」
「依存かよ。『空気ぐらい、一緒にいるのが当たり前だった』、とかじゃねえのかよ」
「あはははー。もう、歴代の
「俺、特別になにかしたわけじゃないと思うんだが……」
そもそも、自己評価が低いのはリンのほうだ。
と、別れと旅立ちのときに言っても仕方がない。
「まあ、さっきは最後だと言ったけど」
リンに背を向け、鞄ひとつにまとめられた引っ越し荷物を取りに戻りながら言った。
「暇があれば、遊びに来ればいいじゃないか。師匠の隠れ家は、一日ぐらいしか離れてないんだしさ」
「ほ、本当ですか!」
瞳をきらきらと輝かせ、胸の前で両手を合わせるリン。
クリスマス前の子供のような純真さに、少したじろぐ。
「それでは、これから一緒に行きましょう!」
「いや、それは普通に迷惑なんで」
「あうびゃぶば。私また、やってしまいましたかっ!? 空気読めてませんでしたか?」
「リンさん、またやってしまったねぇー」
「ですよね? ですよね? あうわわわわっ。だから私はアホなのだぁっっ!」
頭を抱えて前後左右に体をくねらすエルフのお姫さまを微笑ましく眺めていたトールが、一振りの剣を差し出した。
「こんなプレゼントを用意してるのに、引っ越し先についてこられても困るだろ」
「こ、これは……」
「まあ、いろいろ世話になったお礼だよ、お礼」
そっぽを向いて頬をかき、少しだけ早口でトールは言った。
トール――
大学のサークルの買出しを終え、画材屋を出た瞬間、エルフの国に出現したのだ。
石畳で覆われた街。
中心にそびえ立つ巨大な聖樹。
行き交う人々は全員エルフ。
トールが混乱するに余りある状況だったが、幸いなことに、すぐ保護してもらえた。
こちらの世界的には稀にあることらしく、王宮へ招かれ、しかも王族の案内役まで付けてもらえた。
それが、トゥイリンドウェン・アマルセル=ダエア――リンだった。
以来、毎日……というよりは、一日の大半をともに過ごしてきた。そのリンと別れるのだ。トールとしても、多少以上の感慨があった。
「ドールざぁーーん!」
感動に打ち震えながら剣をかき抱くリンの涙声で、トールの意識が今に戻ってくる。
「お忙しい中、私などのためにこれほど素晴らしい剣を贈ってくださるだなんて。この鞘に施された精緻な刻印! 《鋭刃》や《強化》、《維持》のルーンによる強化は当然。刀身にはなんと、私の名前の由来である燕まで刻印されていますよ!」
戻ってきたトールが目にしたのは、剣を捧げ持ち、早口でまくし立て、溢れんばかりに涙を流しているリンの姿だった。
「ああ。俺の故郷には、燕と縁のある剣士の伝説があるだ。一応、それにも、ちなんでな」
「そうなんですか。私などと共通点を見いだしていただきありがとうございます。ありがとうございます。ところで、おいくら課金すれば、よろしいのでしょうか?」
「オーケー、リン。少し落ち着こうか?」
「しかも、トールさん。これ、剣自体もただのロングソードではないようですが……?」
「ああ。なんか、こっちの世界では貴重な金属を混ぜると剣のランクが上がるって言うから、アルミの一円玉を提供して打ってもらったんだ」
財布に残っていた、一円玉数枚。
それを足すだけで剣がすごくなるとかファンタジーだよな……と続けようとしたが、ナチュラルに土下座をするリンによって断念させられた。
エルフのお姫さまの土下座。そうそう見れるものではない。まあ、トールは見飽きているが。
「あうわわわわわっ。あの希少金属アルミナを!? 私のような者のために、トールさんから故郷の思い出の品を奪ってしまうとは。なんと罪深い私。しかし最も罪深いのは、そこまでしてもらったことを喜んでしまう私の汚れた心! でも、嬉しさは止まりません!」
「喜んでくれるのならそれが一番だ」
「ドールざぁーーん! なんて慈悲深い! 尊い! 心臓が止まりかけました」
「本当に、死ぬほど興奮してどうする」
土下座したまま体をくねらせて近付いてくるリンから心持ち――精神的に――距離を取りつつ、トールはお姫さまの肩を軽く叩いた。
「とりあえず、立とうか。お姫さまを土下座させてるとか、外聞が悪すぎるだろ」
「いつも通りだと思います!」
「そういえば、そうだね!」
その通りだが、それで済む問題ではなかった。
早朝ということで、王都北門周辺の人通りは少ない。春先とは言え、北方辺境に向かう者の絶対数が少ないこともあるだろう。
しかし、どんな時間でも警備の兵士はいる。
門番の兵士が不審……の視線ではなく、ほっこりとした表情で親指を立てていた。いちゃついているとでも思われているのだろうか。思われているのだろう。
より一層いたたまれない。
「とにかく、これで今生の別れってわけじゃないんだし」
ぱあぁっと、涙で溢れていたリンの美貌が輝きを放った。そこだけ切り取ると、ため息が出るほど美しい。
全体像を映すと、土下座なのだが。
「たまには、
「はい! そうですよね!」
リンはようやく立ち上がり、袖で涙を拭った。
やはり、エルフのお姫さまには笑っていて欲しい。
そう思いながら、トールは引っ越し荷物を背負い直した。
王都の端からでも見える巨大な聖樹をしばし眺め、視線を笑顔になったリンへと移す。
もう、しばらくは見ることもないだろう。
別れの時だ。
「それじゃ、そろそろ行くよ」
湿度は高いが最後まで湿っぽくはならず、トールは二年間暮らした王都をあとにした。
「分かりました。私も、明日にはお伺いしますね!」
「早えよ! 俺のこと好きすぎか!」