「俺は、遠野冬流。トールと呼ばれてる……
「…………」
一方的にしゃべり始めた客人の男――トール。
ダークエルフの少女は、その姿を狭くなった視界で油断なく見つめていた。いや、なにをするつもりなのか、監視していたと表現したほうが適切だろう。
「って、客人ってそっちの国でも通じるよな? 異世界から突然、こっちの世界にぽつんと出現したみたいな感じで。……いや、待てよ。客人が通じないなら異世界の概念自体が理解できないのでは?」
ダークエルフの少女の故国グラモールにも、客人の伝承は存在する。山奥で母親と二人で暮らしてきたが、もちろん聞いたことがあった。
そうとも知らずあたふたするトールには、邪気も毒気も感じられない。思わず微笑みを浮かべそうになり……全身に鋭い痛みが走った。それとともに、手足から力が抜けていく。
呪いは、徐々に強くなっていた。
だが、弱みを見せるわけにはいかない。
悟られないよう表情を引き締め、意識を繋ぎ止める。その甲斐あって、気付いた様子もなくトールと名乗った黒髪の男は益体もない話を続ける。
「とにかく、元々俺は大学生……普通の学生だったんだけど、マンガやってたせいか
こんな状態でなければ、驚きに目を丸くしていたことだろう。
たったの一年でマイスターなど、余程のことがない限りあり得ない。しかも、アマルセル=ダエアの宮廷刻印術師といえば、ほとんど交流のないグラモールにも名前が聞こえてくるほどの名工だ。
「俺が一人前になったと思ったら、師匠が失踪しやがってよ。この家とか、財産を残してくれたのはいいんだが、仕事も山積みでな……。この一年ほど、必死にルーンを刻み続けて、ついに自由と退職金を手に入れたわけだが……」
そう言って、トールは天井を見上げた。
どことなく哀愁を感じる。
「で、それはいいんだ」
自分から話をしておいて、打ち切った。
同族からの裏切りにあったばかりのダークエルフの少女すら、気の毒に感じるほどの哀愁だ。
「だから、今の俺には金も時間も自由もある。ないのは、下心ぐらいのもんだ」
そして、トールはダークエルフの少女をじっと見つめた。
特に上手いこと言えているとは思えなかったが、言いたいことは分かった。
トールの誠実さは、元々感じていた。
こちらの素性や事情を聞こうともせず、どうやって自分の家に入ったのかも聞こうとしない。
ダークエルフの少女は、それをトールの善意だと解釈した。
信用してくれないかという、願いだとも。
その悪意の欠片もない想いは、同族からの裏切りに遭い生と死の狭間にあったダークエルフの少女の心を溶かした。
「……アルフィ……エル」
「ん?」
「な……まえ……だ……」
「分かった、アルフィエル。少し待っててくれ」
それ以上喋らなくていいと、トールはダークエルフの少女――アルフィエルの言葉を遮った。
治療を望む言葉だと、理解してくれたのだ。
「ほんとは、体に直接ルーンを刻むのがいいんだけど、俺に触られるのは嫌だろうしな」
待ってましたと言わんばかりに、床に置いた背負い鞄から、白いシャツ、作業台などを取り出していく。
そして、先が細くなった見た事もない金属ペンの先を触媒壺に浸し、迷いも惑いもない筆さばきでシャツに魔力の線を描いていった。
ルーンはどれも複雑だ。しかも、線を引く順番ひとつで意味や効果が変わっていく。
それなのに、手にも瞳にもわずかな躊躇もない。黄金に輝く軌跡がシャツの生地に吸い込まれ、ルーンが刻み込まれていった。
早い。
創薬術の心得しかないアルフィエルにも、その手際の良さが分かる。素人目だが、はっきり言って、異常だ。
しかも、《解呪》と思われるルーンを完成させただけでは終わらなかった。
ルーンを刻んだのは、シャツの表側。
それと対になる反対側に、今度は文字ではなく絵を描いていく。
「…………」
「ああ、これは俺のオリジナルなんだが……ルーンと一緒に関連する絵を描くと効果が上がるんだよ」
そんな話聞いたこともない。
真実だとして、そんな秘密を気軽に話していいのか。
そんなアルフィエルの疑問はあっさりとスルーされた。
「ただし、背景に物語。それも、多くの人に知られた物語が必要で……とりあえず、人口だけなら、地球――俺の故郷は圧倒的だからな」
そう言いながらトールは手を止めない。
あっという間に、水面から飛び立とうとする白鳥を描き上げてしまった。
適度にデフォルメされているが、躍動感があり、生命に溢れ。なにより、力強い。
「はく……ちょう……」
「ああ。元の世界には白鳥の王子という童話があってな」
質問を予期していたようだ。
すらすらと、トールはあらすじを紡いでいく。
「呪いで白鳥に姿を変えられた11人の王子がいた。妹のお姫さまは呪いを解くために、言葉を発することなく
途中経過を省いているのだろう。
だが、他愛もないハッピーエンドが、アルフィエルには心地好かった。
「さあ、こいつを羽織ってくれ」
「……そこに……おいて……く……れ」
「分かった」
アルフィエルの意思を尊重し、トールはルーンを刻んだシャツをダークエルフの少女の足下に置いてくれた。
白鳥のイラストがきらきらと光を放ち、シャツの生地へと吸い込まれていく。
それを食い入るように見つめながら、アルフィエルは奇縁を噛みしめていた。
アルフィエル。
エルフの言葉で、白鳥の娘という意味を持つ。母にあやかった、大切な名前。
震える手と体でルーンの刻まれたシャツをまとったアルフィエルは、母に抱かれているような気持ちで眠りについた。