赤い絨毯の上を歩くたび、ヒールの音が冷たく反響する。
王宮の謁見の前。
煌びやかなシャンデリアの光も、金銀で飾られた柱も、今日ばかりは少しも心を躍らせてくれなかった。
父の言葉が、何度も頭の中で反芻される。
ーー家を守るためだ。お前には、それしか道がない。
カリーナ・ブルネッタ、十九歳。
かつては、“王都一の薔薇”と謳われた、ブルネッタ伯爵家の長女である私。
しかし、今では借金を抱えた家の看板娘。
破談に終わった公爵令息との婚約と、冷え切った社交界の視線。
そんな私に残された道が、『辺境伯との政略結婚』だった。
「ブルネッタ伯爵令嬢、お入りください」
扉の向こうから声がかかる。
喉がゴクリと鳴った。
思わず手をぎゅっと握りしめてしまった。
相手は“血塗られた獣”と恐れられる男ーーレオ・アドルフォ辺境伯。
過去に戦場で無数の魔物を討ち、王国を救った英雄。
それと同時に、人の心を持たぬ怪物とも噂されている。
貴族令嬢、王宮で働く侍女の間では、「冷たい視線に殺されそうだった」「近くを通っただけで震えが止まらなかった」などとまことしやかに囁かれている。
そんな相手に嫁げとは、理不尽にもほどがある。
「失礼いたします」
重厚な扉が開かれると、爽やかな風が頬を撫でた。
部屋の奥、まるで闇を引き連れているかのような一人の男がいる。
長身で、広い肩幅。
漆黒の軍服を着こなし、胸元には勲章がいくつも並んでいる。
無造作に顔にかかった前髪の奥には、片方に傷のある深い青色の瞳。
そしてーー
表情が、まったく読めない
「カリーナ・ブルネッタです。お目にかかれて光栄です。辺境伯閣下」
一礼しながらも、足がガクガクと震えそうだった。
だが、礼儀作法は忘れていない。
貴族の娘としての矜持が、私のことを立たせてくれた。
対する彼は、ほんの一拍置いてから口を開いた。
「…レオ・アドルフォだ。好きに呼んでくれて構わない。好きにしろ」
ーーは?
その言葉に、思わず顔を上げてしまった。
彼は、視線を逸らすでもなく、まっすぐこちらを見ていた。
何の感情もない目で、ただ事務的に。
この人、本当に結婚する気あるの…?
「申し訳ありませんが、それはどういう意味で?」
「式も、生活も、お前の好きにしろ。俺に期待するな。以上だ」
壁に向かって話しているのかと思った。
いや、むしろ壁の方が感情豊かに返してくれるだろう。
ここまで意思疎通が難しいとは、予想外だった。
しかも、期待するなとはどういうことだ。
結婚相手に言うセリフじゃない。
「つまり…お互いに関わらないでいましょう、と言う意味ですか?」
「そうだ」
なんて礼儀知らずで、傲慢で、無神経な男なのだろう。
怒りよりも先に呆れが込み上げてくる。
だが、ここで声を荒げたところで何の意味もない。
私はぐっと堪えて、口元だけにっこりと微笑んだ。
「それでは、式の日取りも、衣装も、招待客も、私の思うままに決めさせていただきますわ」
「ああ。金はいくらでも出す」
「ふふ。お優しいこと」
皮肉を込めて笑えば、彼はやや目を細めたが、表情の変化は読み取れなかった。
彼のその目は、触れてはいけない何かが眠っているような気配がする。
この人は、壁を築いている。
誰かが近づくことを、心から拒んでいるのだ。
それなら、なぜ結婚を受け入れたのだろうか。
自分自身が望まぬ婚姻を、なぜ。
「一つだけ、お聞きしてもよろしくて?」
「何だ」
「私と結婚する理由、あなたの口から教えていただいても?」
一瞬の沈黙。
彼は答えようとしない。
しかし、ほんの少しだけ視線が逸れた。
どこか遠くの過去を見つめるように。
「……命令だったから、それだけだ」
それだけ。
そう言った時の彼の横顔は、寂しそうに見えた。
この人は、感情を持っていないのではない。
ただ、己の感情を心の奥底に沈めて、封印しているだけ。
今後の生活は、きっと容易ではない。
でも、私は逃げない。
カリーナ・ブルネッタの名と誇りにかけてーー夫である“血塗られた獣”レオ・アドルフォとの結婚生活、乗り越えてみせる!