「おかえりなさい。…あのさ」
「なに。先にクライアントに連絡だけしたいんだけど…」
「あのさ。離婚しよう。私たち」
手元の携帯に落とされていた、文仁の視線がこちらに向く。
「…は?」
細い黒ぶち眼鏡の向こうに見える、すっきりした二重の瞳が、左右に揺れて…歪むのがわかった。
右に左に…どちらに揺れても私を捉えて離さない。
ちょっと待って…と言って、凛の返事を待たずに書斎へ入った文仁。
…書斎はリビングの手前にある。
あぁ…
玄関先で離婚宣言してしまった…!
…さすがにそれは、まずかったかもしれない。
玄関入って3秒で離婚切り出されたら、さすがの文仁も面食らうだろう。
自分で言ったくせに、罪悪感が胸に渦巻いて、落ち着きなく視線が彷徨う。
…文仁が急いでスリッパを履いたからか、玄関マットがズレていることに気づいた。
私はそれを、仕方ないよね…と、両方の意味で思う。
文仁が急いで部屋に上がったから、玄関マットがズレたのは仕方ない。
切り出した離婚話も…
顔を見て3秒で言わなければ、多分永遠に言えない。
マットをまっすぐに直してリビングに戻ろうとすると、文仁の書斎から、仕事用の声が聞こえた。
クライアントに電話…と言っていた件だろう。
そして思い出した。
初めの頃は、凛にも仕事用の声で話していた文仁のことを。
…知らない町のスーパーに行ってみようかな。
文仁と結婚して美容師の仕事を辞めた凛は専業主婦となり、夕方になると決まって夕飯の買い物に出ていた。
今日、ふと思いついて…
いつものスーパーを通り越して電車に乗ってみることにした。
すると、降りたことのない駅が多くて驚いた。
結婚してこの街に住み始めて1年。
まだまだ知らないことばかりだと気づく。
同時に、自分の行動半径の狭さも思い知った。
3つ先の駅は、知らない町だった。
降りてみると、静かな駅前に知らないスーパーがある。
知らない店員さんと、知らないお客さん。
私も皆にとって、知らない人。
そう思うと、どこか足元が揺らぐ気がする。
ソワソワして落ち着かない気分は、買い物をしてるうちに忘れてしまった。
買ったのは、いつものスーパーよりだいぶお安いきゅうり。
そして明日の朝、文仁に食べさせるロールパン。
キャッシュレスでお会計して、肩にかけていたバッグに荷物を詰めた。
今日のバッグは、エコバッグじゃなくて普通のバッグ。
これは、文仁に買ってもらったもの。
確かまだ2人が、ぎこちない雰囲気の頃。ちょっと見ていただけなのに、文仁が私に聞いた。
「なに、それ欲しいの?」
「…え?」
欲しいって言ったほうがいいような気がした。
二重の涼し気な目元が、無言で私からの返事を待ってる。
「いいの…?」
「いいよ。こんなの安いもんだ」
シンプルな黒のバッグ。
でも私が思う安い値段じゃない。
誕生日でも記念日でもない。
それなのに、誰かに何かを買ってもらうのは、初めての経験だった。
文仁は他にもいろいろ買ってくれた。
お箸、マグカップ、お茶碗。
「いわゆる、お揃いがいいかねぇ?」
都内の大きなショッピングモールに行ったときのこと。凛が好きだと言った雑貨屋さんで、文仁は赤と青のセットになったお箸を見せながら言った。
「…せっかくだから、そうしようか」と言ったのは、早めに仲良くなったほうがいいと思ったから。
…言い換えれば早く夫婦にならなければ、と思ったから。
…………………
「…なんかあった?」
クライアントとの電話を終えた文仁が、スーツの上着だけを脱いだ姿でテーブルにつく。
凛はキッチンに戻って、出そうかどうしようか迷っていたきゅうりのぬか漬けを、結局出すことにする。
これは文仁の好物。
そんな物を出すなんて、まるで機嫌を取ってるみたいだな…と、思わなくもない。
きゅうりのぬか漬けを切って、自分と文仁と、別の小皿に盛る。
私はナスの形をした小皿で、文仁はトマトの形の小皿。
このキュートな小皿も、お箸やマグカップと同じ日に買い揃えたもの。
「理由、言わないつもり?」
珍しく、ネクタイをしたまま食卓についた文仁。
眉間にシワを寄せた怖い顔になった。そうすると…スッキリした二重が、彫りの深い二重になる。
あぁ…この目が好きだったなぁ。
怒らせて、睨まれるとちょっとキュンとした。
「ご飯食べたら…」
「…食べながらでいいよ?」
「食欲なくならない?」
「…そんなショックなこと言うつもり?」
「…」
前のめりになっていた体を椅子の背に預けて…文仁はそのまま、ネクタイを外しにかかった。
「食べながらでいいから…聞かせてよ。離婚したい理由」
結婚して約1年。
文仁にプロポーズされて結婚した。
…どちらの姓になるかは揉めることなく、私は文仁の姓、「剣崎」を名乗ることになる。
結婚式は小さなパーティーでのお披露目程度。
高校の同級生でもある私たちの結婚は、その界隈では大ニュースになった。
「嫌になった理由、まずひとつ目は?」
「嫌になったんじゃない。私は…いらないんじゃないかって、思った」
「…」
文仁の人生にいらない…剣崎 凛という人間。
なにが嫌って…こんな話をして訪れる静寂が嫌だ。
返事を待たずに続ける。
「文仁はいつも忙しそうだし、手助けはできてたと思う。ほんの少しの…癒しにもなれたかな。でも、それは絶対必要なわけじゃなくて」
弁護士として、法律事務所に所属する文仁。
大きな事務所じゃないけど、自分を信頼して案件を任せてくれる所長たちと、毎日忙しく仕事をしている…って言ってた。
「もっと、挑戦したいことがあるんじゃない?そんな時、私がいて…いいのかなって思った」
知らずに足枷にはなりたくない。
それに、はじめから私たちは…
「愛情があって、結ばれたわけではないし」
険しい視線が飛んできた。
…意味がないならやめて欲しい。
睨みつける強い瞳にだけは、弱いから。
「…悪かった」
私たちが結婚するに至った特殊な道のりについて言ってるとわかる。
「いいよ、そんなの。私だって同じ。納得の上だし」
いつの間にか、テーブルに肘をついて身を乗り出している文仁。
「…この先、どうするの?」
「もちろん、就職するよ?」
…どちらかが別れを宣言したら、理由は聞いても引き止めない、というのが私たちの約束。
「…俺が引っ越すから、仕事が見つかるまでここに住んで。家賃は俺が払う」
「…えっ?」
想定外の提案に驚いた。
でも…そんな親切は受け取れない。
…残される方になるのは嫌だ。
ズルいかな…と思いながら、本音は言わずにおく。
「郁のところに行くから」
姉にはまだ何も話してないけど、多分大丈夫だろう。
「…そっか」
賑やかな野菜柄のお皿に盛られたぬか漬けを前に、離婚の話をするなんて…
かわいそうに、私たちの話のせいで水分を失って、しおれかけているように見える。
文仁がお箸を手に、そんなきゅうりをひとつ、口に入れた。
「…うまいな」って、もらった褒め言葉を噛みしめるように、私もおそろいの箸できゅうりを摘んだ。
「俺、今日から本格的にこっちで寝るから」
書斎を指さす文仁。
寝室は、離婚を申し出たその夜に分かれた。
ダブルベッドで、仰向けに大の字になってみると、端までだいぶ余りがある。
遠慮なく、背中を向け合って眠った。
たまに…啄むようなキスをくれた。
寝言に飛び起きたことがあった。
…寝かせてもらえない、夜があった。
泣きたくなる前に…出ていこう。
大丈夫。知らない街のスーパーで買い物ができた私なら、すぐに戻れる…1人の生活に。