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第2話 1年前の結婚

離婚届は、自分で用意した。

ネットからダウンロードできるみたいだが、凛はわざわざ役所に用紙をもらいに行くことにする。


離婚届をください…と申し出ると、なんとも言えない雰囲気を醸し出す職員の方々…


渡された離婚届の文字を見て、あぁ…離婚するんだなって、実感した。





婚姻届は、文仁と2人揃って書いた。

証人は高校時代の友達2人。


この時初めて、文仁の両親も離婚してるって知った。



「…凛の親も離婚してるんだ」


「うん。…でも変な関係で、今も付き合いはあるらしいけど」


付き合いっていうのは、文仁が考えているようなものではなく、もっと非常識極まりない、大迷惑なやつだと、続けてしまうこともできた。


でも凛はこの話を終わらせた。


この先2人で夕飯をつまみにお酒でも飲んで、陽気な気持ちになったら話そうかな、と思いながら。


結局、そんな機会はなかった。

…1年間は、短すぎた。


文仁も、両親の離婚について、詳しく話すことはなく…やっぱり、自分たちの関係なんて、そのくらいのものだったと思う。





婚姻届の記入欄にある、妻、そして夫という文字がふわりと浮いて見えたことを思い出す。


現実感のない結婚。

幸せな気持ちに浸ることのない結婚。


…でもね、今なら認めることができるよ。文仁の涼し気な目と視線が合うと、少し胸がドキドキしたの。


なんでもない顔をしていたけど、心に愛が芽生えたのは、多分私のほうが先。




文仁とは、成人式で集まった同窓会から8年後、「30歳になる前に集まろう」という有志によって開かれた同窓会で再会した。


仲間の結婚式で顔を合わせ、ちょっと言葉をかわすくらい。

そんな私たちの人生が交わることなんて…ないはずだったのに。




「2人で…抜け出さない?」


久しぶりに聞いた文仁の第一声は、怪しい言葉そのもので。


「何をおっしゃいますやら」


酔っていると決めてかかり、居酒屋の廊下をすり抜けようとした。


「悪酔いしちゃった」


すれ違いざま、思いのほか強く腕をつかまれ、見上げた瞳に動けなくなりそうなのを隠すように言葉をひねり出す。


「…余計だめじゃん」


「そっか」


同窓会の参加メンバーはそろいも揃って泥酔しており、バッグを持って会場を出ても、誰も気にかける人なんていなかった。


…ちょうど、帰りたいと思ったところだったし。


怪しい誘い文句が、まさかの話に発展するなんて、思いもしなかった。



初めに言われたのは、タクシーの中。



「結婚しない?俺と」


「付き合って…じゃなくて、エッチ…でもなくて?」


「うん。結婚は全部含まれてるでしょ?」


…笑ってしまった。

この人は相当酔ってるんだ。



文仁が当時住んでいたマンションに到着して、エレベーターの中でもう一度言われた。



「ねえ、結婚してよ。俺と」


「…だから、口説くにしても、それは言っちゃいけないことだと思うよ」


そもそも、結婚なんて切り出されるほど接点を持ってこなかった。


高校の同級生で、同じ水泳部で活動してきた…それだけ。


部屋のドアが開いて、私をスマートに招き入れる。

その仕草は決して酔ってなんかいないってわかる。


逆に、酔っていたのは私だ。

だってこんなに簡単にお持ち帰りされてる…



「凛は昔から、俺に興味持たなかったよな」


やっと本音を言う気になったのだと、私もソファの隣に腰を下ろした。


「アドレス知ってるのに連絡してこないし、再会しても話しかけてもこない」


「それは、文仁が女子に囲まれて忙しそうだったし」


「凛は俺に対して、何の感情も持たなかった。昔から」


それはそうかもしれない。

イケメンでモテモテ…の男には、あまりいい感情を抱けなかった。

…父親が、そうだったから。


「そこが、いいと思った」


「…自分に興味を持たない私が珍しかったのか」


自分を見ない女を夢中にさせたいってやつ…だとしたら、勘弁して欲しい。


立ち上がって話を変え、適当なところで帰ろうと思った。

そんな私の手首を掴む文仁。



「…1回くらい結婚しないとさ、変に見られるじゃん?いまだにこの世の中は」


「…そうね、」


確かに…美容師として働いてて、お客との会話に結婚が紛れ込むのは珍しくない。

まだ結婚していないというと、皆同じようなことを言った。


「そのうちいい人が現れるわよ!」…と。


「俺も仕事柄、既婚であることは信用を得るために…必要だと思ってて」


私にその相手になって欲しいと言う。


どうして私なのかを聞いてみると、さっきと同じ答えが返ってきた。


自分に対して、熱い愛情を持っていない、強い関心と執着を持たないから…と。


「契約結婚ってこと?」


「まさか」


これは普通のプロポーズで、普通の結婚生活を望んでいると、文仁は言った。


「人生で、1度くらい結婚ってやつを経験するのも悪くないと思わない?」


この言葉が決め手になった。

別に…結婚に大恋愛が必要だとは、私も思わない。


きちんと社会人で、それなりに人柄を知っている人なら、結婚したって何の問題もない。


…離婚というリスタートだって用意されている、と、文仁は付け加えた。


やり直しが効くのはいいかもしれない。

でも…そんな制度がなかったとしたら、私はこんな風変わりなプロポーズに、どう答えるだろう。



そこで唐突に思い出した。

ここしばらくの間、私の心を重くさせた出来事について。


「そういえばね、ストーカーっていうのかな。うちのマンションの近くをうろつく人がいるんだよね」


「…ん?」


この打ち明け話が、プロポーズを加速させることになった。




…この日、私は文仁の部屋に泊まった。


でも指一本触れられることはなかった。


朝になって、体目当てではないことを証明したと、自慢げに笑いかけられたっけ。







結婚してしばらくして、文仁に聞いたことがある。


あの時、廊下で会ったのが私じゃなくても、同じようにプロポーズしていたのかと。


「それはない。だってあの時いた女の子たち、皆俺のこと好きだったもん」


「そっか。私は文仁に好意を持たないところを見込まれて、プロポーズされたんだっけ」


なんだかややこしい…


涼やかな目元が弧を描く。

まさか…眼鏡をしない文仁を見つめる日が来るなんて。


…目尻のほくろに指先で触れることを許された頃…凛は文仁と肌を合わせた。


結婚して、3ヶ月が過ぎた頃だった。


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