「じゃあ…これは預かった」
サインした離婚届を文仁に預けた。
「お姉ちゃん、引っ越してきていいって?」
「うん。明日、引っ越すね」
「おぉ…結構急ぐね」
荷物をまとめた段ボールを、いつまでも目につくところに置いておきたくない。
それは終わりと別れの象徴で、どうしても感傷的になってしまう自分がいるから。
「じゃあさ、明日の夜は…どっかで夕飯でも食べよう」
「…でも、忙しいんじゃない?」
「暇じゃないけど、夕飯はどっちにしても食べないと死んじゃうから」
…それを言うのはルール違反だと思う。
「少しだけ、お惣菜作っておくから…ご飯はちゃんと食べなよ?」
「うん。大丈夫」
シレッとした顔はいつものこと。
感情の見えない表情は、文仁の得意とするところだ。
「ぬか漬けの管理の仕方、明日教えて」
「うん…」
私には、むき出しの感情をぶつけてくれた。夜の狭間で…シーツにシワを寄せて。
3回までは新鮮だけど、それ以降は愛情がないと飽きて、回数が減る。
そんな情報をネットで拾って、自分たちに当てはまらないことに、妙にくすぐったい気持ちになった。
繋がらなくても、抱きしめて眠ってくれたら、それで満足だったんだけどな。
おやすみ…と言って、文仁は書斎に入る。
凛はお風呂に入りながら、いつもはしないお風呂掃除をした。
…はじめたら止まらなくなって、洗面所、トイレ、キッチン。
水回りを綺麗にして、やっと眠りについた。
…文仁の書斎はまだ、明かりが灯っていた。
「何かあったら頼って。俺は弁護士だし、高校の同級生に変わりはないから」
いつも通りの朝。
玄関まで見送って、いつもの「行ってきます」より長いセリフが、2人の関係の終わりを確認させた。
「うん。いってらっしゃい」
余裕で笑えたのは、今夜夕飯を食べるレストランのURLを、さっき文仁が送ってくれたから。
これが最善で、自分のためにも文仁のためにもなると信じて切り出した離婚。
今になって、正解は無数にあったと思う。
嫌いになって別れるわけじゃない。
むしろ嫌いになりたくないから、今のうちに離婚したいと思った。
段ボール5箱。
私が結婚生活で必要だった荷物。
最後の一箱をガムテープで閉じて、待っているはずの姉、郁に電話をかけた。
「あ!凛ちゃん?!うんうん大丈夫だよ!スペース開けて待ってるから早くおいでよ〜!」
今日も花丸級に上機嫌。
姉が喜怒哀楽の「喜」以外の感情に揺れているのを見たことがない。
周りの人間からすれば、波がなくていつも上機嫌で助かる人物だと思う。
「ありがと。…20分くらいで着くと思う」
言ってから思った。
郁の住まいとここって、意外と近い。
文仁は車を使えと言ってくれたけど、左ハンドルの外車は怖くて運転できなくて、結局レンタカーを借りた。
「…さて、行くかな、」
荷物を車に積み込んで、1回部屋に戻ってきた。
玄関にある私のスリッパは処分したほうがいいか…それならバスタオルも、お箸も、マグカップもお茶碗も。
おそろいで買ったものが結構あって…たった1年の結婚生活だったのに、私たちは確かに夫婦だったと、品物たちが教えてくれた。
文仁に処分を任せてしまうのは、酷なのかと迷う反面、彼なら抜かりなく淡々とやってくれるだろうと思う。
自分の分だけ残されたペアのそれらを見るよりも、2つ揃ったものを見て、確かに私という妻がいたと思い返したほうが、彼のためになる気がした。
文仁の書斎に足を踏み入れて、脱いだジャージを畳みながら思い出す。
「洗濯、自分でやるからいいよ」
結婚して半年くらいして、突然言われたこと。
ただいま…と言って書斎に入ったきり、夜中まで出てこなかったこと。
出来立ての夕飯が、冷えて色を無くしていくのを見て、初めは怒り…そのうち悲しみになった。
それでも…抱きしめて眠ってくれた。
それもなくなったのは、忙しさからだと思う。
書斎のソファで寝るようになって、私は誰とも話をしない毎日が増えていった。
美容師の仕事を再開しようと相談したこともあった。
「楽してなよ。今どき珍しい専業主婦なんだからさ」
代わりにフラワーアレンジメントの講座と、料理教室のサイトURLを教えてくれた。
…文仁も意外と、私を自分のものだと思っていたのかもしれない。
「登りつめるためにサポートは必要。でも代わりに、挑戦は出来ない」
買い物から帰って、珍しく夕方帰っていた文仁が、書斎のドアを開け放して誰かと電話していた時の言葉。
…私のことだと思った。
「凛がいるからな。…あきらめなきゃならないこともある」
弁護士として、さらに上を目指していたんだろう。
本棚に、それらしい書物が並んでる。
私という妻は必要だけど、足枷でもあるって初めて知った。
もし、そのバランスが崩れたら?
とても…怖くなった。
書斎のドアを閉めて、向かい側の寝室に入った。
…もうすでにベッドは整えてある。
窓を閉めて、リビングに移動した。
忘れ物はないか確認して…こんな結婚生活の終わりなら、いつでも取りに来れると思った。
でもそんな気はさらさらない。
私は…両親のような関係にはなりたくないから。