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第3話 離婚届

「じゃあ…これは預かった」


サインした離婚届を文仁に預けた。


「お姉ちゃん、引っ越してきていいって?」


「うん。明日、引っ越すね」


「おぉ…結構急ぐね」


荷物をまとめた段ボールを、いつまでも目につくところに置いておきたくない。


それは終わりと別れの象徴で、どうしても感傷的になってしまう自分がいるから。


「じゃあさ、明日の夜は…どっかで夕飯でも食べよう」


「…でも、忙しいんじゃない?」


「暇じゃないけど、夕飯はどっちにしても食べないと死んじゃうから」


…それを言うのはルール違反だと思う。


「少しだけ、お惣菜作っておくから…ご飯はちゃんと食べなよ?」


「うん。大丈夫」


シレッとした顔はいつものこと。

感情の見えない表情は、文仁の得意とするところだ。


「ぬか漬けの管理の仕方、明日教えて」


「うん…」




私には、むき出しの感情をぶつけてくれた。夜の狭間で…シーツにシワを寄せて。


3回までは新鮮だけど、それ以降は愛情がないと飽きて、回数が減る。


そんな情報をネットで拾って、自分たちに当てはまらないことに、妙にくすぐったい気持ちになった。



繋がらなくても、抱きしめて眠ってくれたら、それで満足だったんだけどな。



おやすみ…と言って、文仁は書斎に入る。


凛はお風呂に入りながら、いつもはしないお風呂掃除をした。

…はじめたら止まらなくなって、洗面所、トイレ、キッチン。


水回りを綺麗にして、やっと眠りについた。


…文仁の書斎はまだ、明かりが灯っていた。





「何かあったら頼って。俺は弁護士だし、高校の同級生に変わりはないから」


いつも通りの朝。

玄関まで見送って、いつもの「行ってきます」より長いセリフが、2人の関係の終わりを確認させた。


「うん。いってらっしゃい」


余裕で笑えたのは、今夜夕飯を食べるレストランのURLを、さっき文仁が送ってくれたから。




これが最善で、自分のためにも文仁のためにもなると信じて切り出した離婚。


今になって、正解は無数にあったと思う。


嫌いになって別れるわけじゃない。

むしろ嫌いになりたくないから、今のうちに離婚したいと思った。



段ボール5箱。

私が結婚生活で必要だった荷物。

最後の一箱をガムテープで閉じて、待っているはずの姉、郁に電話をかけた。



「あ!凛ちゃん?!うんうん大丈夫だよ!スペース開けて待ってるから早くおいでよ〜!」


今日も花丸級に上機嫌。

姉が喜怒哀楽の「喜」以外の感情に揺れているのを見たことがない。


周りの人間からすれば、波がなくていつも上機嫌で助かる人物だと思う。


「ありがと。…20分くらいで着くと思う」


言ってから思った。

郁の住まいとここって、意外と近い。


文仁は車を使えと言ってくれたけど、左ハンドルの外車は怖くて運転できなくて、結局レンタカーを借りた。



「…さて、行くかな、」


荷物を車に積み込んで、1回部屋に戻ってきた。


玄関にある私のスリッパは処分したほうがいいか…それならバスタオルも、お箸も、マグカップもお茶碗も。


おそろいで買ったものが結構あって…たった1年の結婚生活だったのに、私たちは確かに夫婦だったと、品物たちが教えてくれた。


文仁に処分を任せてしまうのは、酷なのかと迷う反面、彼なら抜かりなく淡々とやってくれるだろうと思う。


自分の分だけ残されたペアのそれらを見るよりも、2つ揃ったものを見て、確かに私という妻がいたと思い返したほうが、彼のためになる気がした。




文仁の書斎に足を踏み入れて、脱いだジャージを畳みながら思い出す。



「洗濯、自分でやるからいいよ」


結婚して半年くらいして、突然言われたこと。


ただいま…と言って書斎に入ったきり、夜中まで出てこなかったこと。


出来立ての夕飯が、冷えて色を無くしていくのを見て、初めは怒り…そのうち悲しみになった。


それでも…抱きしめて眠ってくれた。


それもなくなったのは、忙しさからだと思う。

書斎のソファで寝るようになって、私は誰とも話をしない毎日が増えていった。


美容師の仕事を再開しようと相談したこともあった。


「楽してなよ。今どき珍しい専業主婦なんだからさ」


代わりにフラワーアレンジメントの講座と、料理教室のサイトURLを教えてくれた。


…文仁も意外と、私を自分のものだと思っていたのかもしれない。



「登りつめるためにサポートは必要。でも代わりに、挑戦は出来ない」



買い物から帰って、珍しく夕方帰っていた文仁が、書斎のドアを開け放して誰かと電話していた時の言葉。


…私のことだと思った。



「凛がいるからな。…あきらめなきゃならないこともある」





弁護士として、さらに上を目指していたんだろう。


本棚に、それらしい書物が並んでる。


私という妻は必要だけど、足枷でもあるって初めて知った。


もし、そのバランスが崩れたら?

とても…怖くなった。



書斎のドアを閉めて、向かい側の寝室に入った。

…もうすでにベッドは整えてある。

窓を閉めて、リビングに移動した。


忘れ物はないか確認して…こんな結婚生活の終わりなら、いつでも取りに来れると思った。


でもそんな気はさらさらない。

私は…両親のような関係にはなりたくないから。


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