「…できれば、新しくオープンする美容室がいいな、って思ってるんだ」
約束した文仁との夕食。
引っ越してきて早々、出かけるって言ったら、郁が口を尖らせた。
初めてのレストランだった。
木枠の窓に、白いレースのカフェカーテンがかかってて、床はいい色になった木目のフローリング。
「すぐに就職活動するの?」
料理を注文して、早速そんなことを聞かれた。
「そうだね。郁には甘えてられないし…」
新しくオープンする美容室を希望する私に、文仁は心配そうな視線を送ってくる。
「すべて出来上がってる方が楽なんじゃない?…新しいところだと、スタッフ同士で意見交換とかして、帰りが遅くなるぞ」
「…大丈夫だよ。私もう30だよ?」
「そういうの、年齢じゃないんだよ」
文仁は、手元に置かれた水のグラスに口をつける…
まだ仕事を残してるのか、なんとなく気ぜわしい雰囲気を感じた。
先に文仁が注文したカルボナーラとシーザーサラダが運ばれてきた。
「…あ〜あ、私もパスタにすれば良かった」
「なに、腹減ってんの?」
当たり前のようにシェアしてくれる文仁。
「そうじゃないけど…ピザは焼けるまで待たなきゃいけないから…」
「待ってりゃいいじゃん」
言い方が冷たいと感じた。
1人で…待ってりゃいいじゃん、と言われた気がして。
でもそれは勘違いだとすぐわかる。
「チーズとはちみつのピザ、お願いします」
文人も注文したから。
しかもそれは、私の大好物。
ピザを2枚も注文する勇気はなくて、見送ったメニュー。
今度は郁でも誘ってこようかな。
文仁とは…これが最後になるだろうし。
「これ…返しておくね」
マンションの鍵を…文仁の方へ滑らせた。
「あぁ…」
賑やかだな…と笑われた鈴は外してきた。
ふと、文仁は離婚することを本当はどう思ったのか、聞いてみたくなる。
でも無意味だからやめた。
離婚を口にした時、反対しなかったのがすべての答えだと、わかってるから。
「ぬか漬けはね、1日1度はコネコネして」
「…コネコネ…?」
「手を入れて混ぜてやらないと、ダメなの」
携帯を取り出して、入力し始めた。
「…あとは?」
「漬け込む時は野菜に塩を振って揉んでから。1日で浅漬けができる」
「なるほど」
「うっかり数日漬けたままにしちゃっても、薄切りにして、おかかと混ぜたりして…美味しく食べれる」
携帯から視線を上げて、私を見る…涼しげな優しい瞳。
「…そういうの、出してもらったことなかったな」
「ぬか漬けの王道は、浅漬けだもん」
「そっか。あとは…?」
…あとは?
あとは…まだ、いろいろあるよ。
「ベランダの網戸、この夏は交換した方がいいかも。…あ!寝室の網戸も」
「え?そうなの…?」
「あと、右側のコンロ、ちょっと火がつきにくい。脱衣室の引き戸は少し隙間ができるし、リビングのフローリングは一部傷が付いてて…」
…本当は、いろいろあったんだ。
話したいこと、伝えたいこと。
忙しそうに帰ってくる文仁を前に、言葉が出なかった。
書斎に入ってしまったら、声をかけるのも禁じられている気がしたから…
ぽたん…って、涙が落ちて、木のテーブルに丸い模様を作った。
「ごめんな…」
私の涙を見て、文仁のメガネ越しの目にも、涙が浮かんだように見えた。
何してるんだろ…
サラダにパスタ、それに大きな食べかけのピザを2枚も間に挟んで、涙なんか流して。
「それと…ベッドのマットに…シミを作っちゃって、ごめん」
空気を変えようと思って、当時は言えなかったことを白状する。
「…それはいい。シミの原因は俺だから」
…なんの話だよ…っと、2人同時に笑ってしまう。
私たちがちゃんと夫婦だったことを、認め合ったみたいな瞬間だった。
「送っていこうか」
「ううん。大丈夫。まだそんなに遅い時間じゃないし」
「そっか」
私がなんて言うかわかってたみたいに、あっさり引き下がる文仁。
レストランの前で、左右に別れた。
夫婦として顔を合わせる最後のひとときは、こうして終わった。
もし…次に会うことがあるとしたら、その時はもう違う名前の関係になってる。
私は多分もう…結婚することはない。文仁は…絶対モテるから、再婚は大アリだと思う。
…少し年齢を重ねてから、若い奥さんをもらって、パパになるのもいいかもしれない。
文仁には、幸せでいて欲しい。
これからもずっと。
……………………
「たとえブランク1年だとしても、うちはアシスタントからやってもらうことになるんですよねぇ…」
「あぁ…そうなんですか。それは構わないのですが…」
はっきり言わないけれど、不採用なのがありありとわかる。
それなら仕方ないと諦めもつくのに、こちらからの辞退を引き出そうとするサロンが多い。
文仁との生活に終止符を打って、凛は求人誌や昔のつてを辿り、就職活動を始めていた。
ところが…
すぐ結婚しそうだと警戒されまくって…苦戦していた。
まさか…30歳という年齢が邪魔をするとは思わなかった。
とはいえ、再婚の可能性はないと言い切れる私の就職活動は、今後の人生を左右する。
納得できるところで働きたい。
幸い文仁に、収入を得るようになるまでの生活費をもらっていた。
それは当然の権利だからと言って。
だから当面は働かなくても、気兼ねせず郁の家にいられる。
でも…早く自分の落ち着き先を決めたい思いが勝って、私は毎日精力的に就職活動を頑張っていた。
…そんなある日のこと。
「…凛じゃない…?」
その日最後の面接を終え、ガラス張りのカフェから出てきた私の前に、高校の同級生、川上結菜が現れた。