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第4話 お別れ

「…できれば、新しくオープンする美容室がいいな、って思ってるんだ」


約束した文仁との夕食。

引っ越してきて早々、出かけるって言ったら、郁が口を尖らせた。


初めてのレストランだった。

木枠の窓に、白いレースのカフェカーテンがかかってて、床はいい色になった木目のフローリング。


「すぐに就職活動するの?」


料理を注文して、早速そんなことを聞かれた。


「そうだね。郁には甘えてられないし…」


新しくオープンする美容室を希望する私に、文仁は心配そうな視線を送ってくる。


「すべて出来上がってる方が楽なんじゃない?…新しいところだと、スタッフ同士で意見交換とかして、帰りが遅くなるぞ」


「…大丈夫だよ。私もう30だよ?」


「そういうの、年齢じゃないんだよ」


文仁は、手元に置かれた水のグラスに口をつける…

まだ仕事を残してるのか、なんとなく気ぜわしい雰囲気を感じた。


先に文仁が注文したカルボナーラとシーザーサラダが運ばれてきた。


「…あ〜あ、私もパスタにすれば良かった」


「なに、腹減ってんの?」


当たり前のようにシェアしてくれる文仁。


「そうじゃないけど…ピザは焼けるまで待たなきゃいけないから…」


「待ってりゃいいじゃん」


言い方が冷たいと感じた。

1人で…待ってりゃいいじゃん、と言われた気がして。


でもそれは勘違いだとすぐわかる。


「チーズとはちみつのピザ、お願いします」


文人も注文したから。

しかもそれは、私の大好物。


ピザを2枚も注文する勇気はなくて、見送ったメニュー。

今度は郁でも誘ってこようかな。

文仁とは…これが最後になるだろうし。


「これ…返しておくね」


マンションの鍵を…文仁の方へ滑らせた。


「あぁ…」


賑やかだな…と笑われた鈴は外してきた。


ふと、文仁は離婚することを本当はどう思ったのか、聞いてみたくなる。


でも無意味だからやめた。

離婚を口にした時、反対しなかったのがすべての答えだと、わかってるから。


「ぬか漬けはね、1日1度はコネコネして」


「…コネコネ…?」


「手を入れて混ぜてやらないと、ダメなの」


携帯を取り出して、入力し始めた。


「…あとは?」


「漬け込む時は野菜に塩を振って揉んでから。1日で浅漬けができる」


「なるほど」


「うっかり数日漬けたままにしちゃっても、薄切りにして、おかかと混ぜたりして…美味しく食べれる」


携帯から視線を上げて、私を見る…涼しげな優しい瞳。


「…そういうの、出してもらったことなかったな」


「ぬか漬けの王道は、浅漬けだもん」


「そっか。あとは…?」



…あとは?

あとは…まだ、いろいろあるよ。



「ベランダの網戸、この夏は交換した方がいいかも。…あ!寝室の網戸も」


「え?そうなの…?」


「あと、右側のコンロ、ちょっと火がつきにくい。脱衣室の引き戸は少し隙間ができるし、リビングのフローリングは一部傷が付いてて…」


…本当は、いろいろあったんだ。

話したいこと、伝えたいこと。


忙しそうに帰ってくる文仁を前に、言葉が出なかった。

書斎に入ってしまったら、声をかけるのも禁じられている気がしたから…


ぽたん…って、涙が落ちて、木のテーブルに丸い模様を作った。



「ごめんな…」



私の涙を見て、文仁のメガネ越しの目にも、涙が浮かんだように見えた。


何してるんだろ…

サラダにパスタ、それに大きな食べかけのピザを2枚も間に挟んで、涙なんか流して。


「それと…ベッドのマットに…シミを作っちゃって、ごめん」


空気を変えようと思って、当時は言えなかったことを白状する。


「…それはいい。シミの原因は俺だから」


…なんの話だよ…っと、2人同時に笑ってしまう。

私たちがちゃんと夫婦だったことを、認め合ったみたいな瞬間だった。




「送っていこうか」


「ううん。大丈夫。まだそんなに遅い時間じゃないし」


「そっか」


私がなんて言うかわかってたみたいに、あっさり引き下がる文仁。


レストランの前で、左右に別れた。


夫婦として顔を合わせる最後のひとときは、こうして終わった。


もし…次に会うことがあるとしたら、その時はもう違う名前の関係になってる。


私は多分もう…結婚することはない。文仁は…絶対モテるから、再婚は大アリだと思う。


…少し年齢を重ねてから、若い奥さんをもらって、パパになるのもいいかもしれない。


文仁には、幸せでいて欲しい。

これからもずっと。



……………………


「たとえブランク1年だとしても、うちはアシスタントからやってもらうことになるんですよねぇ…」


「あぁ…そうなんですか。それは構わないのですが…」


はっきり言わないけれど、不採用なのがありありとわかる。


それなら仕方ないと諦めもつくのに、こちらからの辞退を引き出そうとするサロンが多い。


文仁との生活に終止符を打って、凛は求人誌や昔のつてを辿り、就職活動を始めていた。


ところが…

すぐ結婚しそうだと警戒されまくって…苦戦していた。


まさか…30歳という年齢が邪魔をするとは思わなかった。


とはいえ、再婚の可能性はないと言い切れる私の就職活動は、今後の人生を左右する。


納得できるところで働きたい。

幸い文仁に、収入を得るようになるまでの生活費をもらっていた。


それは当然の権利だからと言って。


だから当面は働かなくても、気兼ねせず郁の家にいられる。

でも…早く自分の落ち着き先を決めたい思いが勝って、私は毎日精力的に就職活動を頑張っていた。



…そんなある日のこと。


「…凛じゃない…?」


その日最後の面接を終え、ガラス張りのカフェから出てきた私の前に、高校の同級生、川上結菜が現れた。


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