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第30話 2人の想い

無理をしなくていいと思う。


休みたいと言うのなら、正直その方が安心だし…この機会に仕事を辞めて、元の夫婦関係に戻れるかもしれない、という考えがよぎったことも認める。



だが翌日、凛は出勤すると言った。


抱きしめる俺の腕をほどいて。



「…文仁と一緒に寝たから、落ち着いた。もう1回、頑張れる気がする」


可愛いことを言うものだ。


高校時代はそんな可愛さには出会えなかったが、「もう一度やってみる」という強さは何度か目にした。



「文仁もすぐ近くにいるし。弁護士と一緒に住んでること知ってるんだから…もう変なことしないと思う」


「そっか。まぁ…頼りなくはない、とは思うぞ」


ベッドから出る凛の頭を撫で、しばらく彼女が今日のコーディネートを決めるのをベッドから眺めた。


本当は、胸元が広く開いたワンピースや、膝より上のタイトスカートは着ないでほしいと思う。


夫婦として暮らしている時、そんなことを思っただろうか。


…覚えていない。


「その服は…」


自分の独占欲が強くなっていくのを感じながら、素直に言葉にする約束を思い出した。


「可愛すぎるから、俺の目の届かないところで着ないでほしい」


「やだ、なに言ってんの…?」


振り向いて、初めて見る表情に心が躍る。


「顔、赤いよ?」


「言わないで!」


手にした服で足元を叩かれたが、全然痛くない。



朝の戯れに頬を緩ませながら、2人で同じビルに出勤し、1階と3階に別れた。


そしてしばらくして、凛からのメッセージに…ややのけぞる。




「残柄オーナー、欠勤した」



…そう来たか。

もし凛が休んでいたら、店はアシスタントの一樹だけになる。

となれば、当然営業はできなかっただろう。





…1ヶ月ほどして、残柄は

「Lucy HAIR make」を解雇された。


実はあの店には他にオーナーがいて、彼は業務を委託された、雇われのオーナーだったのだ。



「文仁、知ってたの?」


「挨拶に来て、対応したのが酒井所長だったから忘れてた。残柄さんにセクハラされて泣いて帰って来た時、思い出したよ」


「泣いて帰ってきた?私が?」


少し怒った顔が可愛くて…またいじってしまった。


膨らんだ頬に手を伸ばすと、ピシャリと叩かれ、慌てて引っ込める。




「…知らなかったなぁ」


「スタッフの管理もすべて任せてたんだろうな」


凛は退職願を提出し、1ヶ月後には退職する予定でいた。


ところが、残柄の方が休みがちになり、一樹の今後を心配していたところだった。


残柄の欠勤が多くなり、凛が退職願を提出したことで、何か問題が起きたと、本物のオーナーは思ったらしい。


そこで判明したのは、残柄が凛の知らないところで悪質なセクハラ発言を繰り返し、一樹はそれを聞かされていたということだった。


「ちょっとひどいと思っていた」という証言は、凛の退職の理由と共に大きな問題とされた。


残柄は解雇を伝えられ、素直に応じたという。



…まさかの残柄の解雇で、Lucyはわずか数ヶ月で閉店の危機に陥ったかに見えたが…



「私に、雇われオーナーの話が舞い込んで来ちゃった」


まぁ、そう来るだろう。


戸惑いと喜びと困惑と…ワクワク。

凛の表情からそんな気持ちを汲み取った。


「いいんじゃない?凛がオーナーなら、きっと繁盛店になるよ」


仕事を辞めたら、夫婦関係に戻れるかもしれないと、密かに目論んでいたことは見えないところに隠して…


凛の気持ちを最優先にする決心をした。





そして今、凛は毎日クルクルと忙しそうに過ごしている。


そんな彼女を眩しく見つめながら…文仁はその姿を丸ごと守ってやるにはどうしたらいいか、考えていた。




「結婚は、してもしなくてもいい」



どちらにしても、俺には凛だけだ。

高校時代受けた、継母からの性虐待は、きっとどれほどの時間をやり過ごしても、忘れることはない。


女性と、関係など持てない。


そんな深い闇から救ってくれた凛は、永遠に唯一無二だろう。


でも、凛は違う。

婚姻関係になければ、別の男と人生を歩んでいくことも可能だ。




「寂しいこと言うんだから…」


「なんで?結婚は、何も繋ぎ止めてくれないよ」


「でも文仁はイケメンだしモテるし、他の人に触られたら嫌だ」


凛もまた…文仁を唯一無二だと実感していると言う。


「…可愛いこと言うじゃん」


最近、このフレーズを口にすることが多くなった。


可愛い。凛が可愛い。




「3年…ううん、2年待ってほしい」


「…何を?」


半分笑って聞き返す文仁を、凛は意地悪だと毒づく。



「…赤ちゃん。文仁との、赤ちゃんを、産みたいと思う」



一瞬、すべての動きが止まって見えた。

風に揺れるカーテンも、画面に映る、どこか滑稽なドラマも。


ここまでのことを言われるとは、思っていなかった。



「本気…?!」


意外なほど心が弾む。

言葉に出せない何かに突き動かされ、瞬時に凛を抱き寄せた。


ワクワクして、喜びに満たされて。

本当に自分の子供が凛に宿ったとしたら…万歳三唱でもするかもしれない。


抱きしめた腕の中の小さな愛しさは、大げさだと呆れてしまうだろうか。


「本気だよ…文仁との赤ちゃんを産んでお母さんになりたい。文仁も、お父さんにしてあげたい」


「…それ、殺し文句かプロポーズって言わない?」


「そう取ってもらっていいよ?」



1回目は文仁から〜

2回目は私から〜


歌うように言う凛の言葉を飲み込むように、文仁は唇を塞いだ。






忌まわしい過去を心の奥底に閉じ込めて、人生を終えるはずだった。


それが、意外な着地点に落ち着いたものだ。


…離婚を切り出された時には思ってもみなかった未来。

もしかしたら…と、今なら思う。


高校時代から、俺は凛が好きだったのかもしれない。


あの頃は自分を守るのが精一杯で、そんな気持ちに気づかなかったが、凛のどこか冷めた瞳はあの時から俺を落ち着けた気がする。


だからきっと、同窓会で声をかけたんだ。あの瞳に、無意識に一縷の望みをかけていたのかもしれない。


自分らしくもない、安易で軽率なプロポーズができた理由はそれだ。




凛との間に、本当に子供ができたら…知らなかった幸せに、また出会える。





「…文仁大変!香澄が、離婚したんだって」



ふんわりとした幸せに酔いしれていた文仁を叩き起こしたのは、凛が持ってきた…意外な現実だった。


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