無理をしなくていいと思う。
休みたいと言うのなら、正直その方が安心だし…この機会に仕事を辞めて、元の夫婦関係に戻れるかもしれない、という考えがよぎったことも認める。
だが翌日、凛は出勤すると言った。
抱きしめる俺の腕をほどいて。
「…文仁と一緒に寝たから、落ち着いた。もう1回、頑張れる気がする」
可愛いことを言うものだ。
高校時代はそんな可愛さには出会えなかったが、「もう一度やってみる」という強さは何度か目にした。
「文仁もすぐ近くにいるし。弁護士と一緒に住んでること知ってるんだから…もう変なことしないと思う」
「そっか。まぁ…頼りなくはない、とは思うぞ」
ベッドから出る凛の頭を撫で、しばらく彼女が今日のコーディネートを決めるのをベッドから眺めた。
本当は、胸元が広く開いたワンピースや、膝より上のタイトスカートは着ないでほしいと思う。
夫婦として暮らしている時、そんなことを思っただろうか。
…覚えていない。
「その服は…」
自分の独占欲が強くなっていくのを感じながら、素直に言葉にする約束を思い出した。
「可愛すぎるから、俺の目の届かないところで着ないでほしい」
「やだ、なに言ってんの…?」
振り向いて、初めて見る表情に心が躍る。
「顔、赤いよ?」
「言わないで!」
手にした服で足元を叩かれたが、全然痛くない。
朝の戯れに頬を緩ませながら、2人で同じビルに出勤し、1階と3階に別れた。
そしてしばらくして、凛からのメッセージに…ややのけぞる。
「残柄オーナー、欠勤した」
…そう来たか。
もし凛が休んでいたら、店はアシスタントの一樹だけになる。
となれば、当然営業はできなかっただろう。
…1ヶ月ほどして、残柄は
「Lucy HAIR make」を解雇された。
実はあの店には他にオーナーがいて、彼は業務を委託された、雇われのオーナーだったのだ。
「文仁、知ってたの?」
「挨拶に来て、対応したのが酒井所長だったから忘れてた。残柄さんにセクハラされて泣いて帰って来た時、思い出したよ」
「泣いて帰ってきた?私が?」
少し怒った顔が可愛くて…またいじってしまった。
膨らんだ頬に手を伸ばすと、ピシャリと叩かれ、慌てて引っ込める。
「…知らなかったなぁ」
「スタッフの管理もすべて任せてたんだろうな」
凛は退職願を提出し、1ヶ月後には退職する予定でいた。
ところが、残柄の方が休みがちになり、一樹の今後を心配していたところだった。
残柄の欠勤が多くなり、凛が退職願を提出したことで、何か問題が起きたと、本物のオーナーは思ったらしい。
そこで判明したのは、残柄が凛の知らないところで悪質なセクハラ発言を繰り返し、一樹はそれを聞かされていたということだった。
「ちょっとひどいと思っていた」という証言は、凛の退職の理由と共に大きな問題とされた。
残柄は解雇を伝えられ、素直に応じたという。
…まさかの残柄の解雇で、Lucyはわずか数ヶ月で閉店の危機に陥ったかに見えたが…
「私に、雇われオーナーの話が舞い込んで来ちゃった」
まぁ、そう来るだろう。
戸惑いと喜びと困惑と…ワクワク。
凛の表情からそんな気持ちを汲み取った。
「いいんじゃない?凛がオーナーなら、きっと繁盛店になるよ」
仕事を辞めたら、夫婦関係に戻れるかもしれないと、密かに目論んでいたことは見えないところに隠して…
凛の気持ちを最優先にする決心をした。
そして今、凛は毎日クルクルと忙しそうに過ごしている。
そんな彼女を眩しく見つめながら…文仁はその姿を丸ごと守ってやるにはどうしたらいいか、考えていた。
「結婚は、してもしなくてもいい」
どちらにしても、俺には凛だけだ。
高校時代受けた、継母からの性虐待は、きっとどれほどの時間をやり過ごしても、忘れることはない。
女性と、関係など持てない。
そんな深い闇から救ってくれた凛は、永遠に唯一無二だろう。
でも、凛は違う。
婚姻関係になければ、別の男と人生を歩んでいくことも可能だ。
「寂しいこと言うんだから…」
「なんで?結婚は、何も繋ぎ止めてくれないよ」
「でも文仁はイケメンだしモテるし、他の人に触られたら嫌だ」
凛もまた…文仁を唯一無二だと実感していると言う。
「…可愛いこと言うじゃん」
最近、このフレーズを口にすることが多くなった。
可愛い。凛が可愛い。
「3年…ううん、2年待ってほしい」
「…何を?」
半分笑って聞き返す文仁を、凛は意地悪だと毒づく。
「…赤ちゃん。文仁との、赤ちゃんを、産みたいと思う」
一瞬、すべての動きが止まって見えた。
風に揺れるカーテンも、画面に映る、どこか滑稽なドラマも。
ここまでのことを言われるとは、思っていなかった。
「本気…?!」
意外なほど心が弾む。
言葉に出せない何かに突き動かされ、瞬時に凛を抱き寄せた。
ワクワクして、喜びに満たされて。
本当に自分の子供が凛に宿ったとしたら…万歳三唱でもするかもしれない。
抱きしめた腕の中の小さな愛しさは、大げさだと呆れてしまうだろうか。
「本気だよ…文仁との赤ちゃんを産んでお母さんになりたい。文仁も、お父さんにしてあげたい」
「…それ、殺し文句かプロポーズって言わない?」
「そう取ってもらっていいよ?」
1回目は文仁から〜
2回目は私から〜
歌うように言う凛の言葉を飲み込むように、文仁は唇を塞いだ。
忌まわしい過去を心の奥底に閉じ込めて、人生を終えるはずだった。
それが、意外な着地点に落ち着いたものだ。
…離婚を切り出された時には思ってもみなかった未来。
もしかしたら…と、今なら思う。
高校時代から、俺は凛が好きだったのかもしれない。
あの頃は自分を守るのが精一杯で、そんな気持ちに気づかなかったが、凛のどこか冷めた瞳はあの時から俺を落ち着けた気がする。
だからきっと、同窓会で声をかけたんだ。あの瞳に、無意識に一縷の望みをかけていたのかもしれない。
自分らしくもない、安易で軽率なプロポーズができた理由はそれだ。
凛との間に、本当に子供ができたら…知らなかった幸せに、また出会える。
「…文仁大変!香澄が、離婚したんだって」
ふんわりとした幸せに酔いしれていた文仁を叩き起こしたのは、凛が持ってきた…意外な現実だった。