王都ベルヴァールの中心部にある壮麗な宮廷は、歴代の王たちの手によって増改築を繰り返されてきた。高くそびえる白亜の塔、美しく連なる回廊、そして四方を囲む中庭には季節ごとに異なる花が咲き誇る。その夜、宮廷では年に一度の大舞踏会が催され、招待された貴族たちが各々の華やかな衣装に身を包み集結していた。
エミリア・ウィンスレットが到着したのは、夜会が始まって間もない頃。彼女はしっとりと落ち着いた深紅のドレスに身を包んでおり、肩までの金の髪をやや上にまとめ、うなじを艶やかに見せている。スカートの裾にはさりげない刺繍が施され、光の加減によって薔薇の模様が浮かび上がる仕立てだ。ゴテゴテと装飾を盛り過ぎず、それでいて上品な存在感を放つ――まさにエミリアらしい装いだった。
彼女は公爵家の令嬢でありながら、自慢げに振る舞うことは決してしない。ゆえに社交界では「優雅で穏やかな薔薇」と称されていた。生まれついての階級の高さと美貌に、周囲からは少なからず妬みや羨望が向けられるが、それ以上に彼女の柔らかな笑顔と公平な物腰が人々を魅了している。
もっとも、彼女にとってこの夜会は心から楽しめる場ではなかった。なぜなら、彼女には正式に婚約している相手――アルバート・ロンズデールがいるのだが、最近どうもその態度がおかしい。その兆候はここ数週間の間にじわじわと見え始めていた。以前ならばエミリアのために馬車を手配し、華やかな花束を贈り、何かと気遣いを見せてくれたアルバート。しかし、近頃はまるで意図的に距離を置くように、手紙もそっけなく、面会の約束すら先延ばしが続いている。
「いったい、どういうつもりなのかしら……」
舞踏会が始まる前、エミリアはウィンスレット公爵家の自室で侍女たちに手伝ってもらいながら、鏡の前で小さくため息をついた。だが、だからといっておろそかに振る舞うことは彼女の性分ではない。婚約者と冷え切った空気にあるとしても、公の場に出るからには公爵家の名に恥じない立ち居振る舞いをしなければならない。エミリアは自分を奮い立たせるように頬を軽く叩き、ドレスの裾を整えたのだった。
夜会へ到着すると、宰相家や伯爵家などの貴族がエミリアに挨拶を交わしてくる。彼女は丁寧な笑顔で応じ、しばらくは談笑を楽しんだ。周囲の貴族たちは彼女の美貌と気品に少なからず感嘆の声をあげている。だが、彼女の心中にはどこか落ち着かない感覚がくすぶっている。「アルバートは今どこにいるのか?」――そればかりが気になって仕方がない。
そんな彼女に声をかけてきたのは、幼なじみでもある侯爵家の娘、リリアン・メイフィールドだった。ふわふわとした淡いピンク色のドレスを身にまとい、栗色の髪をカールさせたリリアンは、エミリアの親友というよりは、どこか妹のように可愛らしい雰囲気を持つ。
「エミリア様、今宵も本当にお美しいですわ。……でも、お顔がどこか浮かないように見えます。アルバート様のことが気になりますの?」
リリアンは小声で心配を口にした。周囲に聞かれないようにするための配慮だ。エミリアは一瞬言葉に詰まるが、リリアンには隠しきれないと思い正直に答える。
「ええ、最近ずっとあの方の様子がおかしくて……。以前はこんなこと、なかったのに」
「うちの兄が言ってましたの。アルバート様、王宮に出入りする頻度がやけに増えているみたいだって」
「王宮に……」
アルバートは公爵子息とはいえ、官職を得てはいない。しかし近ごろは、王宮で要職につく貴族に顔を売ろうとしているのか、頻繁に王宮へ通っているという話をエミリアも耳にした。それがただの社交の一環であればまだ理解もできる。だが、明らかに彼女を避けていると思われる行動が続くため、胸の奥に不安が募っていた。
リリアンはエミリアの手をそっと握り、慰めるように語りかける。
「どうかあまりご自分を責めたりなさらないでくださいませ。何か事情があるのかもしれませんし……。エミリア様は何も悪くありませんわ」
「ありがとう、リリアン」
エミリアはリリアンに礼を言いつつも、不安は拭えない。そんななか、会場の奥で何やら喧騒が起こっているのに気づいた。ちらりと視線をやると、王家の者たちが揃って入場してきたらしい。白金のティアラを戴いた王女クラリッサが、スポットライトを浴びるように人々の視線を一身に受けている。
王女クラリッサは今年十八歳になったばかり。整った顔立ちと豊かな金髪を持ち、いかにも「高嶺の花」といった雰囲気を纏っている。気位の高さが彼女の美しさをさらに際立たせており、さすがは王家の一員と言わんばかりの圧倒的な存在感だった。
(あの王女殿下とアルバートは、どれほど関わりがあるのかしら――)
浮かんだ疑問は、ほどなくして答えを得ることになる。王女クラリッサのそばには、まるで当然のようにアルバート・ロンズデールが控えていたのだ。
「アルバート様……」
王宮の廊下で王女をエスコートする姿は、あまりにも親密そうで、どこか夫婦のような雰囲気さえ漂わせている。普段ならば、アルバートもエミリアの存在を見つければ会釈の一つでもするはずだが、今の彼はまるでエミリアなど目に入らぬとばかりに王女の方へ視線を向け続けている。それがエミリアの胸にチクリとした痛みを走らせた。
会場にいた多くの貴族が、アルバートと王女の並びに目を奪われ、ひそひそと噂を始める。――「いまさらだけれど、ロンズデール公爵家の跡取りって王女殿下とどういう関係なのかしら?」――「いつからあんなに親密に?」――「エミリア様はどう思っていらっしゃるのか」――といった具合に、好奇心と羨望、そして興味本位の揶揄が入り混じった声が飛び交っていた。
エミリアは平静を装いながら、できるだけ気品をもってその場をやり過ごそうとする。しかし、内心は嫌な予感ばかりが膨れあがる。彼女にとって、アルバートこそが幼い頃から「将来を誓い合った相手」であり、ウィンスレット公爵家との縁談は既に国王も承認していたはずなのだ。ところが、今の様子から推測するに、王女クラリッサとアルバートの関係はただの公的な繋がり以上のものがあるとしか思えない。
やがて音楽隊による華やかな演奏が始まり、舞踏会は一気に佳境へと移行する。男女がペアを作り、円形の舞踏フロアに出て優雅にステップを踏み始めた。エミリアも王宮の舞踏会では何度も踊った経験がある。周囲の貴族からは「エミリア様、一曲ご一緒にいかがでしょう?」と誘いもあるのだが、彼女はどこか落ち着かない気分のまま礼儀正しく断り続けた。なぜなら、彼女はどうしてもアルバートと話がしたかったからだ。
(まさか……婚約破棄なんてことはないわよね? でも、こうしている間にもアルバートは王女殿下の手を取って踊っている――)
視線を向けると、王女とアルバートが華麗にステップを踏みながら笑いあっている。見ていられない光景だった。王女の美貌と、アルバートの立ち居振る舞いは確かに絵になる。周囲の貴族たちも「あら、素敵なカップル」「本当にお似合い」などと口々に賞賛を送っている始末だ。
エミリアは苦しみをぐっと押し殺し、遠巻きにその様子を見つめるしかなかった。無理に割り込んで踊り相手を奪い返すなどという、みっともない行動は取れない。相手は王女だ。しかも王族を軽んじる行為など、ウィンスレット公爵家の名に泥を塗ることにしかならない。
せめて一言でいいから、アルバートの口から事情を聞きたい。そんな思いがエミリアを苛立たせる。だが、王宮の夜会は形式的にも規律が厳しく、軽々しく人を呼び止めたり、問い詰めたりできる場ではない。彼女は胸の内をもてあましながら、一人用の椅子に腰を落とした。
そのとき、場内の大きな扉から皇太子アレクシス・ヴァレンタインが入場してきたとの知らせが走る。急遽、王族の予定が変わったのか、少し遅れて到着したようだ。皇太子は身長も高く、漆黒の髪と碧眼が印象的な青年だが、王女クラリッサとは腹違いのきょうだいに当たる。エミリアは皇太子とも面識はあるものの、そこまで親しいわけではなかった。だが、幼い頃の小さな記憶――まだ皇太子が王太子教育に入る前に、何度か宮廷で言葉を交わした覚えはある。
皇太子の到着により、場内の空気はさらに高揚し、人々の注目は一気にアレクシスへと向かう。だがエミリアの意識は、いまだ踊り続けるアルバートと王女へと注がれていた。もし皇太子が到着したことで、王女がアルバートと離れ、皇太子のもとへ行ってくれるなら――一時的にでも話せる機会ができるかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、エミリアはタイミングを図るように視線をやり繰りしている。
しかし、王女クラリッサはまるでアルバートを離す気などない様子だ。皇太子アレクシスが入場してきても、軽く会釈を送っただけで、再びアルバートとの踊りに戻ってしまう。まるで自分が選んだ相手はアルバートであると、見せつけるようにも見えた。
――やがて曲が一段落し、フロアにいた男女が互いに礼を交わす。その間を見計らい、エミリアは思いきってアルバートのもとへ近づいた。王女が踊り相手を替える間、せめて一言だけでも話しかけられるかもしれない。アルバートは背中をこちらに向けている。彼が振り返る前に、エミリアは静かに声をかけた。
「アルバート様、ご挨拶が遅れてしまいました。今晩は――」
瞬間、振り向いたアルバートの表情は、驚くほど冷淡だった。以前の優しい微笑みはどこにもなく、まるで他人を見るような目をしている。エミリアが声をつまらせたそのとき、王女クラリッサも小首を傾げながらエミリアを見た。
「まあ、あなたが公爵令嬢のエミリアですの?」
王女の軽薄そうな笑みには、どこか人を見下したような色があった。エミリアの胸に不快感が募るが、ここは王族相手。礼儀を尽くさなければウィンスレット公爵家の恥となる。彼女は丁寧に一礼し、爽やかな微笑みを浮かべた。
「はい、ウィンスレット公爵家の長女、エミリア・ウィンスレットと申します。王女殿下にお目にかかれて光栄ですわ」
「ふぅん……確かに美しい方ね。でも、思っていたほどの迫力はないみたい。アルバート、先ほどは『王女殿下と並ぶとエミリアなど地味に見える』って言っていたわよね?」
唐突に王女が口にした言葉は、まるでエミリアへの挑発そのものだった。さらに、その言葉に堂々とうなずくアルバートの姿に、場の空気が凍る。周囲にいた貴族たちも思わず耳をそばだてる。
「ええ、そうです。エミリアは悪い子ではありませんが、いかんせん平凡ですから。王女殿下のように華やかな女性がやはり相応しいと、改めて感じました」
場の空気がざわめいた。なにしろ婚約者であるアルバートが、エミリアを面と向かって「平凡」呼ばわりしているのだから。しかもその場に王女まで同席している。エミリアは自分の耳を疑った。これが幼い頃からともに育ち、いつか夫婦になるはずだったアルバートの言葉だろうか。衝撃というよりも、あまりのことに悲しみすら湧いてこない。
意を決して、エミリアはアルバートに問いかける。
「アルバート様……。どうしたというのですか? 私が何かをしてしまったのでしょうか?」
「別に何も。おまえはもともと地味で、俺には不釣り合いだったというだけだ。気づくのが遅かっただけだよ。王女殿下のように美しく、尊貴な存在を知ってしまったら……もうおまえのような退屈な女とは一緒にいられない」
憐みすら感じさせるアルバートの視線。ふと見ると、王女クラリッサは楽しそうに口元に扇子をあて、クスクスと笑いをこぼしている。その様子はまるで「エミリアに恥をかかせて楽しんでいる」ようであり、周囲の貴族も何か大きな事件の前触れのように息を呑んで見守っていた。
すると、アルバートは会場を見回し、わざとらしく大きめの声で宣言し始めた。
「聞いてくれ、皆の者! 俺、アルバート・ロンズデールは、この場をもってエミリア・ウィンスレットとの婚約を破棄する!」
大舞踏会の華やかな音楽が一瞬途切れたかのように、会場が静寂に包まれる。直後に起こったのはざわめきの嵐。貴族たちは驚き、あるいは好奇の目を向け、あるいは心配そうにエミリアを見つめている。しかし、何よりもエミリア本人が一番驚いた。まさか、こんなに大勢の前で、正式に婚約破棄を言い渡されるなんて。
「アルバート様、今のは……本気でおっしゃっているのですか?」
せめて本心かどうか確かめたい、という思いで彼女は問う。しかし、アルバートの答えは無情だった。
「本気も本気だ。もうおまえとの婚約を続ける理由はない。……それどころか、国王陛下が近々、俺と王女殿下の結婚を承認するだろう。おまえみたいな女が貴族社会の華やかな場にいるのは、もう見飽きた。降りてもらおうか」
あまりの言葉に、エミリアは怒りや悲しみを通り越して、自分がどういう表情をしているのかさえわからなくなっていた。しかし、このまま取り乱してはウィンスレット公爵家の名誉を汚すことになる。公爵家の長女であるという責任感が、ぎりぎりのところで彼女を支えていた。
辺りを見渡すと、遠巻きに見ていた貴族たちの中には、明らかに面白がっている者もいれば、戸惑ってエミリアに同情の視線を向ける者もいる。特にリリアンは怒りで頬を紅潮させ、今にもアルバートへと詰め寄りそうな勢いだったが、エミリアは目で制した。
(こんな場で争えば、余計に笑われるだけ――)
彼女はゆっくりと息を吸い、深呼吸をする。王女の冷笑とアルバートの無情な言葉が突き刺さるようだったが、それでもここは毅然として振る舞うしかない。エミリアは静かに微笑みを作り、その場の人々に向けて軽く会釈をした。
「……かしこまりました。では、その婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ」
驚愕の声があちこちから上がる。何しろ、侮辱されている当人が「喜んで受けます」と口にしたのだ。普通ならば泣き崩れるか、激昂して喚き散らすかしてもおかしくない。だが、エミリアはまるで何も痛痒を感じないかのように、優雅な微笑みを湛えている。
その姿に、アルバートは面白くなさそうに眉をひそめる。王女クラリッサも少しばかり驚いたようだったが、やがて嘲るように口を開いた。
「私としては、もう少し泣き叫んでくれた方が面白かったのだけれど。まあいいわ。あなたはここで身を引くのがお似合いよ、地味な公爵令嬢さん」
クラリッサの言いように、エミリアの心中が掻き乱される。しかし、彼女は微笑みを崩さない。むしろ、これ以上ないほどの優雅さを保ったまま、そっと一礼し、呟いた。
「――王女殿下のような眩しいお方を得られて、アルバート様はさぞお幸せでしょう。どうぞ末永くお幸せに」
その言葉がかえって王女には尺に触ったのだろう。唇を歪め、鼻で笑うようにしていたが、エミリアはそんなことには構わず、踵を返すようにして人込みの中へと歩き出した。その姿は、周囲の貴族たちから見ても「恥をかいた令嬢」というよりは「凛として立ち去る淑女」に見えたに違いない。
だが、立ち去った後、廊下の陰でエミリアは大きく息をつき、震える手をぎゅっと握りしめる。
(――何という仕打ちでしょう。婚約破棄を通達されることは、ある程度予想していた。けれど、ここまで侮辱されるとは思わなかった)
あまりに一方的で、あまりに理不尽。アルバートの態度は、いったいいつからこんなに冷たくなったのか。――少なくとも、子どもの頃はもっと優しかった。彼女が病気で寝込んだときには見舞いに来てくれたし、初めての舞踏会でも恥をかかないようにとステップを教えてくれた。
それが今では、公衆の面前で「地味で退屈な女」呼ばわりだ。それも王女という後ろ盾を得たからこそ、強気になっているのだろう。エミリアは唇を嚙みしめる。――もし、ここで素直に涙を流して取り乱すような態度を示したら、それこそ彼らの思うつぼだった。エミリアの矜持がそれを許さなかった。だが、あのまま何もせずに終わらせる気はない。
「どうして、こんなに胸が痛むのに、涙が出ないのかしら……」
彼女はただ静かに、自嘲気味につぶやいた。その言葉の裏には、怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻いていた。アルバートとの思い出は決して虚偽ではない。少なくともエミリアにとっては、大切な記憶だった。しかし、それももう過去のものだと否応なしに突きつけられた今――彼女の心には大きな穴が開いてしまったのだ。
けれど、ここで立ち止まってはいけない。公爵令嬢としての誇りも、ウィンスレット家の名誉もある。エミリアは自分のプライドをかき集めるようにして胸を張った。彼女にはまだ「戦う手段」があるのだ。少なくとも、公爵令嬢が簡単に踏みにじられるほど、この王国の貴族社会は甘くない。
実際、エミリアは王女クラリッサに引けを取らないほどの美貌と資質を持ち、さらには多くの貴族から一目置かれる「教養と品性」を備えている。いくらアルバートに侮辱されようとも、それは決して彼女の真価を貶めることにはならない。むしろ、エミリアが本気で社交界を渡り合おうとすれば、アルバートなど足元にも及ばないほどの人脈と政治力を発揮できる――それを本人が活用するか否かだけの問題だった。
王女クラリッサのように派手な権勢を振りかざすつもりはない。だが、エミリアはこうも思う。
(もし、私が本当に怒ったら……彼らは、きっと後悔するでしょうね)
しかし、今のエミリアには、すぐに堂々と復讐する気力はなかった。長年慕っていた相手に、あれほどの言葉を突きつけられたのだ。自分の中の恋心が完全に死んだわけではない。それがかえって怒りを持続させるエネルギーになるかもしれないが、まずはこの傷を癒やす時間が必要だろう。
――そこへ、急ぎ足で廊下に飛び出してきた人物がいた。侯爵令嬢のリリアンだった。彼女はエミリアの無事を確かめるように駆け寄り、エミリアの手を握る。
「エミリア様、大丈夫ですか!? 私、あの場のあまりの酷さに耐えられなくて……あなたのことが心配で飛んできちゃいました」
リリアンの目には涙が浮かんでいる。親友としての純粋な同情と、怒りがごちゃ混ぜになった表情だった。エミリアはリリアンを安心させるように、ゆっくりと首を横に振る。
「ありがとう、リリアン。でも、私は大丈夫。……あそこでも見せたでしょう? 私、意外と打たれ強いの」
そう言いながら微笑んだものの、リリアンに隠しきれるほど上手くは笑えなかったかもしれない。彼女はそんなエミリアの心情を察し、さらに強く手を握り返してくる。
「許せませんわ、アルバート様も王女殿下も! どうしてあんなに酷いことが言えるのかしら! せめてもう少し人目のないところで話すとか、やりようはいくらでもあったはずですのに! ……ウィンスレット公爵閣下はご存じなのですか? いえ、きっとまだ知らないのでしょうけれど……」
リリアンの早口の言葉が、エミリアの胸を痛ませる。彼女としても、まさかこんな形で家名に泥を塗られ、恥をかかされるとは思ってもみなかった。父や母が知ったら、どれほど怒り、嘆くことだろう。しかし、それでも公爵家としていきなり王女やロンズデール公爵家を糾弾するわけにはいかない。その背後にある政治的な力関係が、あまりにも大きいからだ。
「……父には、私の方から話します。リリアン、今は何も言わないで。ね?」
「わかりましたわ。……でも、苦しかったら遠慮なく私を頼ってくださいまし。私はいつでもエミリア様の味方ですから」
リリアンの素直な友情に、エミリアは改めて救われる思いだった。公爵令嬢ともなると、周囲には腹の探り合いをする者も少なくない。そんな中で、リリアンだけはいつも変わらずに親身になってくれる。まるで妹のように、心配をしてくれる存在は貴重だった。
エミリアはリリアンに小さく微笑みかけ、「ありがとう」とだけ伝えた。リリアンは安心したようにうなずき、エミリアの背中をそっと撫でてくれる。けれど、その言葉や優しさがどれほどありがたくても、今のエミリアの心は深く傷ついていた。
(婚約破棄、ね。それも王女殿下との結婚が近々発表されるという。――そんな筋書き、初めから決まっていたのかしら)
きっとアルバートは、王女を手に入れるためにずっと策を練っていたに違いない。エミリアの婚約者という肩書きを利用して王族に近づき、いざ王女の信用を得たら、あとは不要になったエミリアを捨てる。そんな計算をしていたと思うと、これまで彼を信じていた自分が馬鹿らしくなる。だが、その悔しさ以上に、今は――ただ空しさが胸に広がるばかりだった。
やがて舞踏会の会場からは、また曲が響き始める。遠くから聞こえる陽気な旋律が、エミリアには皮肉に感じられた。さすがに今戻る気力はなかった。リリアンはエミリアの様子を窺い、「もう退出しましょう」と提案する。
エミリアもそれに同意し、そっとため息をつく。貴族としての義務を考えれば、最後まで場にいるべきなのだが、もはやこれだけの醜態を晒された後に戻る理由もない。むしろ、これ以上噂の的になるような時間を過ごすよりは、さっさと立ち去ったほうがいい。
「……そうね。リリアン、ごめんなさい。せっかくの舞踏会なのに、私に付き合わせてしまって」
「そんなこと、おっしゃらないでください。エミリア様の方が何倍も辛いのだから」
そう言ってリリアンは、ほとんど泣きそうな顔でエミリアを気遣ってくれる。エミリアはそれに軽く微笑み返すしかなかった。もう言葉もあまり出てこない。彼女たちはそうして密かに馬車を呼び、ウィンスレット公爵家へと戻ることにした。
――こうして、「婚約破棄」と「屈辱」の一夜は幕を下ろした。だが、この事件はエミリアにとって何の終わりでもなく、むしろ始まりに過ぎなかったのである。
その夜、彼女は寝室の扉を閉めるなり、初めて声を上げて泣いた。それは悔しさと悲しさ、そして怒りが入り混じった涙。侮辱だけならばまだしも、ずっと信頼してきた相手に裏切られた悲しみは想像を絶する。真夜中の静寂を破るように、枕に顔を埋めながら声を殺し、ただ一人泣き続ける。
長い時間をかけて涙が枯れたころ、エミリアは思い浮かべる。自分が今後、どういう道を選んで生きていくべきか。王女に奪われた婚約者を取り戻す?――否、それはもはや考えられない。あの場での彼の傲慢な態度は、エミリアの中にあった愛情を深く傷つけ、粉々に打ち砕いた。
(もう、あんな人はどうでもいい。でも、それだけでは済まされない。私の尊厳を踏みにじったこと――後悔させてみせるわ)
決して感情任せに叫ぶような復讐心ではない。けれど、彼女の中にゆっくりと燃え始めた炎は、もう簡単には消えないだろう。もし彼らが、自分の都合でエミリアを捨てておきながらさらに幸せになろうなどと考えているのなら、そんな甘い
王都ベルヴァールの中心部にある壮麗な宮廷は、歴代の王たちの手によって増改築を繰り返されてきた。高くそびえる白亜の塔、美しく連なる回廊、そして四方を囲む中庭には季節ごとに異なる花が咲き誇る。その夜、宮廷では年に一度の大舞踏会が催され、招待された貴族たちが各々の華やかな衣装に身を包み集結していた。
エミリア・ウィンスレットが到着したのは、夜会が始まって間もない頃。彼女はしっとりと落ち着いた深紅のドレスに身を包んでおり、肩までの金の髪をやや上にまとめ、うなじを艶やかに見せている。スカートの裾にはさりげない刺繍が施され、光の加減によって薔薇の模様が浮かび上がる仕立てだ。ゴテゴテと装飾を盛り過ぎず、それでいて上品な存在感を放つ――まさにエミリアらしい装いだった。
彼女は公爵家の令嬢でありながら、自慢げに振る舞うことは決してしない。ゆえに社交界では「優雅で穏やかな薔薇」と称されていた。生まれついての階級の高さと美貌に、周囲からは少なからず妬みや羨望が向けられるが、それ以上に彼女の柔らかな笑顔と公平な物腰が人々を魅了している。
もっとも、彼女にとってこの夜会は心から楽しめる場ではなかった。なぜなら、彼女には正式に婚約している相手――アルバート・ロンズデールがいるのだが、最近どうもその態度がおかしい。その兆候はここ数週間の間にじわじわと見え始めていた。以前ならばエミリアのために馬車を手配し、華やかな花束を贈り、何かと気遣いを見せてくれたアルバート。しかし、近頃はまるで意図的に距離を置くように、手紙もそっけなく、面会の約束すら先延ばしが続いている。
「いったい、どういうつもりなのかしら……」
舞踏会が始まる前、エミリアはウィンスレット公爵家の自室で侍女たちに手伝ってもらいながら、鏡の前で小さくため息をついた。だが、だからといっておろそかに振る舞うことは彼女の性分ではない。婚約者と冷え切った空気にあるとしても、公の場に出るからには公爵家の名に恥じない立ち居振る舞いをしなければならない。エミリアは自分を奮い立たせるように頬を軽く叩き、ドレスの裾を整えたのだった。
夜会へ到着すると、宰相家や伯爵家などの貴族がエミリアに挨拶を交わしてくる。彼女は丁寧な笑顔で応じ、しばらくは談笑を楽しんだ。周囲の貴族たちは彼女の美貌と気品に少なからず感嘆の声をあげている。だが、彼女の心中にはどこか落ち着かない感覚がくすぶっている。「アルバートは今どこにいるのか?」――そればかりが気になって仕方がない。
そんな彼女に声をかけてきたのは、幼なじみでもある侯爵家の娘、リリアン・メイフィールドだった。ふわふわとした淡いピンク色のドレスを身にまとい、栗色の髪をカールさせたリリアンは、エミリアの親友というよりは、どこか妹のように可愛らしい雰囲気を持つ。
「エミリア様、今宵も本当にお美しいですわ。……でも、お顔がどこか浮かないように見えます。アルバート様のことが気になりますの?」
リリアンは小声で心配を口にした。周囲に聞かれないようにするための配慮だ。エミリアは一瞬言葉に詰まるが、リリアンには隠しきれないと思い正直に答える。
「ええ、最近ずっとあの方の様子がおかしくて……。以前はこんなこと、なかったのに」
「うちの兄が言ってましたの。アルバート様、王宮に出入りする頻度がやけに増えているみたいだって」
「王宮に……」
アルバートは公爵子息とはいえ、官職を得てはいない。しかし近ごろは、王宮で要職につく貴族に顔を売ろうとしているのか、頻繁に王宮へ通っているという話をエミリアも耳にした。それがただの社交の一環であればまだ理解もできる。だが、明らかに彼女を避けていると思われる行動が続くため、胸の奥に不安が募っていた。
リリアンはエミリアの手をそっと握り、慰めるように語りかける。
「どうかあまりご自分を責めたりなさらないでくださいませ。何か事情があるのかもしれませんし……。エミリア様は何も悪くありませんわ」
「ありがとう、リリアン」
エミリアはリリアンに礼を言いつつも、不安は拭えない。そんななか、会場の奥で何やら喧騒が起こっているのに気づいた。ちらりと視線をやると、王家の者たちが揃って入場してきたらしい。白金のティアラを戴いた王女クラリッサが、スポットライトを浴びるように人々の視線を一身に受けている。
王女クラリッサは今年十八歳になったばかり。整った顔立ちと豊かな金髪を持ち、いかにも「高嶺の花」といった雰囲気を纏っている。気位の高さが彼女の美しさをさらに際立たせており、さすがは王家の一員と言わんばかりの圧倒的な存在感だった。
(あの王女殿下とアルバートは、どれほど関わりがあるのかしら――)
浮かんだ疑問は、ほどなくして答えを得ることになる。王女クラリッサのそばには、まるで当然のようにアルバート・ロンズデールが控えていたのだ。
「アルバート様……」
王宮の廊下で王女をエスコートする姿は、あまりにも親密そうで、どこか夫婦のような雰囲気さえ漂わせている。普段ならば、アルバートもエミリアの存在を見つければ会釈の一つでもするはずだが、今の彼はまるでエミリアなど目に入らぬとばかりに王女の方へ視線を向け続けている。それがエミリアの胸にチクリとした痛みを走らせた。
会場にいた多くの貴族が、アルバートと王女の並びに目を奪われ、ひそひそと噂を始める。――「いまさらだけれど、ロンズデール公爵家の跡取りって王女殿下とどういう関係なのかしら?」――「いつからあんなに親密に?」――「エミリア様はどう思っていらっしゃるのか」――といった具合に、好奇心と羨望、そして興味本位の揶揄が入り混じった声が飛び交っていた。
エミリアは平静を装いながら、できるだけ気品をもってその場をやり過ごそうとする。しかし、内心は嫌な予感ばかりが膨れあがる。彼女にとって、アルバートこそが幼い頃から「将来を誓い合った相手」であり、ウィンスレット公爵家との縁談は既に国王も承認していたはずなのだ。ところが、今の様子から推測するに、王女クラリッサとアルバートの関係はただの公的な繋がり以上のものがあるとしか思えない。
やがて音楽隊による華やかな演奏が始まり、舞踏会は一気に佳境へと移行する。男女がペアを作り、円形の舞踏フロアに出て優雅にステップを踏み始めた。エミリアも王宮の舞踏会では何度も踊った経験がある。周囲の貴族からは「エミリア様、一曲ご一緒にいかがでしょう?」と誘いもあるのだが、彼女はどこか落ち着かない気分のまま礼儀正しく断り続けた。なぜなら、彼女はどうしてもアルバートと話がしたかったからだ。
(まさか……婚約破棄なんてことはないわよね? でも、こうしている間にもアルバートは王女殿下の手を取って踊っている――)
視線を向けると、王女とアルバートが華麗にステップを踏みながら笑いあっている。見ていられない光景だった。王女の美貌と、アルバートの立ち居振る舞いは確かに絵になる。周囲の貴族たちも「あら、素敵なカップル」「本当にお似合い」などと口々に賞賛を送っている始末だ。
エミリアは苦しみをぐっと押し殺し、遠巻きにその様子を見つめるしかなかった。無理に割り込んで踊り相手を奪い返すなどという、みっともない行動は取れない。相手は王女だ。しかも王族を軽んじる行為など、ウィンスレット公爵家の名に泥を塗ることにしかならない。
せめて一言でいいから、アルバートの口から事情を聞きたい。そんな思いがエミリアを苛立たせる。だが、王宮の夜会は形式的にも規律が厳しく、軽々しく人を呼び止めたり、問い詰めたりできる場ではない。彼女は胸の内をもてあましながら、一人用の椅子に腰を落とした。
そのとき、場内の大きな扉から皇太子アレクシス・ヴァレンタインが入場してきたとの知らせが走る。急遽、王族の予定が変わったのか、少し遅れて到着したようだ。皇太子は身長も高く、漆黒の髪と碧眼が印象的な青年だが、王女クラリッサとは腹違いのきょうだいに当たる。エミリアは皇太子とも面識はあるものの、そこまで親しいわけではなかった。だが、幼い頃の小さな記憶――まだ皇太子が王太子教育に入る前に、何度か宮廷で言葉を交わした覚えはある。
皇太子の到着により、場内の空気はさらに高揚し、人々の注目は一気にアレクシスへと向かう。だがエミリアの意識は、いまだ踊り続けるアルバートと王女へと注がれていた。もし皇太子が到着したことで、王女がアルバートと離れ、皇太子のもとへ行ってくれるなら――一時的にでも話せる機会ができるかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、エミリアはタイミングを図るように視線をやり繰りしている。
しかし、王女クラリッサはまるでアルバートを離す気などない様子だ。皇太子アレクシスが入場してきても、軽く会釈を送っただけで、再びアルバートとの踊りに戻ってしまう。まるで自分が選んだ相手はアルバートであると、見せつけるようにも見えた。
――やがて曲が一段落し、フロアにいた男女が互いに礼を交わす。その間を見計らい、エミリアは思いきってアルバートのもとへ近づいた。王女が踊り相手を替える間、せめて一言だけでも話しかけられるかもしれない。アルバートは背中をこちらに向けている。彼が振り返る前に、エミリアは静かに声をかけた。
「アルバート様、ご挨拶が遅れてしまいました。今晩は――」
瞬間、振り向いたアルバートの表情は、驚くほど冷淡だった。以前の優しい微笑みはどこにもなく、まるで他人を見るような目をしている。エミリアが声をつまらせたそのとき、王女クラリッサも小首を傾げながらエミリアを見た。
「まあ、あなたが公爵令嬢のエミリアですの?」
王女の軽薄そうな笑みには、どこか人を見下したような色があった。エミリアの胸に不快感が募るが、ここは王族相手。礼儀を尽くさなければウィンスレット公爵家の恥となる。彼女は丁寧に一礼し、爽やかな微笑みを浮かべた。
「はい、ウィンスレット公爵家の長女、エミリア・ウィンスレットと申します。王女殿下にお目にかかれて光栄ですわ」
「ふぅん……確かに美しい方ね。でも、思っていたほどの迫力はないみたい。アルバート、先ほどは『王女殿下と並ぶとエミリアなど地味に見える』って言っていたわよね?」
唐突に王女が口にした言葉は、まるでエミリアへの挑発そのものだった。さらに、その言葉に堂々とうなずくアルバートの姿に、場の空気が凍る。周囲にいた貴族たちも思わず耳をそばだてる。
「ええ、そうです。エミリアは悪い子ではありませんが、いかんせん平凡ですから。王女殿下のように華やかな女性がやはり相応しいと、改めて感じました」
場の空気がざわめいた。なにしろ婚約者であるアルバートが、エミリアを面と向かって「平凡」呼ばわりしているのだから。しかもその場に王女まで同席している。エミリアは自分の耳を疑った。これが幼い頃からともに育ち、いつか夫婦になるはずだったアルバートの言葉だろうか。衝撃というよりも、あまりのことに悲しみすら湧いてこない。
意を決して、エミリアはアルバートに問いかける。
「アルバート様……。どうしたというのですか? 私が何かをしてしまったのでしょうか?」
「別に何も。おまえはもともと地味で、俺には不釣り合いだったというだけだ。気づくのが遅かっただけだよ。王女殿下のように美しく、尊貴な存在を知ってしまったら……もうおまえのような退屈な女とは一緒にいられない」
憐みすら感じさせるアルバートの視線。ふと見ると、王女クラリッサは楽しそうに口元に扇子をあて、クスクスと笑いをこぼしている。その様子はまるで「エミリアに恥をかかせて楽しんでいる」ようであり、周囲の貴族も何か大きな事件の前触れのように息を呑んで見守っていた。
すると、アルバートは会場を見回し、わざとらしく大きめの声で宣言し始めた。
「聞いてくれ、皆の者! 俺、アルバート・ロンズデールは、この場をもってエミリア・ウィンスレットとの婚約を破棄する!」
大舞踏会の華やかな音楽が一瞬途切れたかのように、会場が静寂に包まれる。直後に起こったのはざわめきの嵐。貴族たちは驚き、あるいは好奇の目を向け、あるいは心配そうにエミリアを見つめている。しかし、何よりもエミリア本人が一番驚いた。まさか、こんなに大勢の前で、正式に婚約破棄を言い渡されるなんて。
「アルバート様、今のは……本気でおっしゃっているのですか?」
せめて本心かどうか確かめたい、という思いで彼女は問う。しかし、アルバートの答えは無情だった。
「本気も本気だ。もうおまえとの婚約を続ける理由はない。……それどころか、国王陛下が近々、俺と王女殿下の結婚を承認するだろう。おまえみたいな女が貴族社会の華やかな場にいるのは、もう見飽きた。降りてもらおうか」
あまりの言葉に、エミリアは怒りや悲しみを通り越して、自分がどういう表情をしているのかさえわからなくなっていた。しかし、このまま取り乱してはウィンスレット公爵家の名誉を汚すことになる。公爵家の長女であるという責任感が、ぎりぎりのところで彼女を支えていた。
辺りを見渡すと、遠巻きに見ていた貴族たちの中には、明らかに面白がっている者もいれば、戸惑ってエミリアに同情の視線を向ける者もいる。特にリリアンは怒りで頬を紅潮させ、今にもアルバートへと詰め寄りそうな勢いだったが、エミリアは目で制した。
(こんな場で争えば、余計に笑われるだけ――)
彼女はゆっくりと息を吸い、深呼吸をする。王女の冷笑とアルバートの無情な言葉が突き刺さるようだったが、それでもここは毅然として振る舞うしかない。エミリアは静かに微笑みを作り、その場の人々に向けて軽く会釈をした。
「……かしこまりました。では、その婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ」
驚愕の声があちこちから上がる。何しろ、侮辱されている当人が「喜んで受けます」と口にしたのだ。普通ならば泣き崩れるか、激昂して喚き散らすかしてもおかしくない。だが、エミリアはまるで何も痛痒を感じないかのように、優雅な微笑みを湛えている。
その姿に、アルバートは面白くなさそうに眉をひそめる。王女クラリッサも少しばかり驚いたようだったが、やがて嘲るように口を開いた。
「私としては、もう少し泣き叫んでくれた方が面白かったのだけれど。まあいいわ。あなたはここで身を引くのがお似合いよ、地味な公爵令嬢さん」
クラリッサの言いように、エミリアの心中が掻き乱される。しかし、彼女は微笑みを崩さない。むしろ、これ以上ないほどの優雅さを保ったまま、そっと一礼し、呟いた。
「――王女殿下のような眩しいお方を得られて、アルバート様はさぞお幸せでしょう。どうぞ末永くお幸せに」
その言葉がかえって王女には尺に触ったのだろう。唇を歪め、鼻で笑うようにしていたが、エミリアはそんなことには構わず、踵を返すようにして人込みの中へと歩き出した。その姿は、周囲の貴族たちから見ても「恥をかいた令嬢」というよりは「凛として立ち去る淑女」に見えたに違いない。
だが、立ち去った後、廊下の陰でエミリアは大きく息をつき、震える手をぎゅっと握りしめる。
(――何という仕打ちでしょう。婚約破棄を通達されることは、ある程度予想していた。けれど、ここまで侮辱されるとは思わなかった)
あまりに一方的で、あまりに理不尽。アルバートの態度は、いったいいつからこんなに冷たくなったのか。――少なくとも、子どもの頃はもっと優しかった。彼女が病気で寝込んだときには見舞いに来てくれたし、初めての舞踏会でも恥をかかないようにとステップを教えてくれた。
それが今では、公衆の面前で「地味で退屈な女」呼ばわりだ。それも王女という後ろ盾を得たからこそ、強気になっているのだろう。エミリアは唇を嚙みしめる。――もし、ここで素直に涙を流して取り乱すような態度を示したら、それこそ彼らの思うつぼだった。エミリアの矜持がそれを許さなかった。だが、あのまま何もせずに終わらせる気はない。
「どうして、こんなに胸が痛むのに、涙が出ないのかしら……」
彼女はただ静かに、自嘲気味につぶやいた。その言葉の裏には、怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻いていた。アルバートとの思い出は決して虚偽ではない。少なくともエミリアにとっては、大切な記憶だった。しかし、それももう過去のものだと否応なしに突きつけられた今――彼女の心には大きな穴が開いてしまったのだ。
けれど、ここで立ち止まってはいけない。公爵令嬢としての誇りも、ウィンスレット家の名誉もある。エミリアは自分のプライドをかき集めるようにして胸を張った。彼女にはまだ「戦う手段」があるのだ。少なくとも、公爵令嬢が簡単に踏みにじられるほど、この王国の貴族社会は甘くない。
実際、エミリアは王女クラリッサに引けを取らないほどの美貌と資質を持ち、さらには多くの貴族から一目置かれる「教養と品性」を備えている。いくらアルバートに侮辱されようとも、それは決して彼女の真価を貶めることにはならない。むしろ、エミリアが本気で社交界を渡り合おうとすれば、アルバートなど足元にも及ばないほどの人脈と政治力を発揮できる――それを本人が活用するか否かだけの問題だった。
王女クラリッサのように派手な権勢を振りかざすつもりはない。だが、エミリアはこうも思う。
(もし、私が本当に怒ったら……彼らは、きっと後悔するでしょうね)
しかし、今のエミリアには、すぐに堂々と復讐する気力はなかった。長年慕っていた相手に、あれほどの言葉を突きつけられたのだ。自分の中の恋心が完全に死んだわけではない。それがかえって怒りを持続させるエネルギーになるかもしれないが、まずはこの傷を癒やす時間が必要だろう。
――そこへ、急ぎ足で廊下に飛び出してきた人物がいた。侯爵令嬢のリリアンだった。彼女はエミリアの無事を確かめるように駆け寄り、エミリアの手を握る。
「エミリア様、大丈夫ですか!? 私、あの場のあまりの酷さに耐えられなくて……あなたのことが心配で飛んできちゃいました」
リリアンの目には涙が浮かんでいる。親友としての純粋な同情と、怒りがごちゃ混ぜになった表情だった。エミリアはリリアンを安心させるように、ゆっくりと首を横に振る。
「ありがとう、リリアン。でも、私は大丈夫。……あそこでも見せたでしょう? 私、意外と打たれ強いの」
そう言いながら微笑んだものの、リリアンに隠しきれるほど上手くは笑えなかったかもしれない。彼女はそんなエミリアの心情を察し、さらに強く手を握り返してくる。
「許せませんわ、アルバート様も王女殿下も! どうしてあんなに酷いことが言えるのかしら! せめてもう少し人目のないところで話すとか、やりようはいくらでもあったはずですのに! ……ウィンスレット公爵閣下はご存じなのですか? いえ、きっとまだ知らないのでしょうけれど……」
リリアンの早口の言葉が、エミリアの胸を痛ませる。彼女としても、まさかこんな形で家名に泥を塗られ、恥をかかされるとは思ってもみなかった。父や母が知ったら、どれほど怒り、嘆くことだろう。しかし、それでも公爵家としていきなり王女やロンズデール公爵家を糾弾するわけにはいかない。その背後にある政治的な力関係が、あまりにも大きいからだ。
「……父には、私の方から話します。リリアン、今は何も言わないで。ね?」
「わかりましたわ。……でも、苦しかったら遠慮なく私を頼ってくださいまし。私はいつでもエミリア様の味方ですから」
リリアンの素直な友情に、エミリアは改めて救われる思いだった。公爵令嬢ともなると、周囲には腹の探り合いをする者も少なくない。そんな中で、リリアンだけはいつも変わらずに親身になってくれる。まるで妹のように、心配をしてくれる存在は貴重だった。
エミリアはリリアンに小さく微笑みかけ、「ありがとう」とだけ伝えた。リリアンは安心したようにうなずき、エミリアの背中をそっと撫でてくれる。けれど、その言葉や優しさがどれほどありがたくても、今のエミリアの心は深く傷ついていた。
(婚約破棄、ね。それも王女殿下との結婚が近々発表されるという。――そんな筋書き、初めから決まっていたのかしら)
きっとアルバートは、王女を手に入れるためにずっと策を練っていたに違いない。エミリアの婚約者という肩書きを利用して王族に近づき、いざ王女の信用を得たら、あとは不要になったエミリアを捨てる。そんな計算をしていたと思うと、これまで彼を信じていた自分が馬鹿らしくなる。だが、その悔しさ以上に、今は――ただ空しさが胸に広がるばかりだった。
やがて舞踏会の会場からは、また曲が響き始める。遠くから聞こえる陽気な旋律が、エミリアには皮肉に感じられた。さすがに今戻る気力はなかった。リリアンはエミリアの様子を窺い、「もう退出しましょう」と提案する。
エミリアもそれに同意し、そっとため息をつく。貴族としての義務を考えれば、最後まで場にいるべきなのだが、もはやこれだけの醜態を晒された後に戻る理由もない。むしろ、これ以上噂の的になるような時間を過ごすよりは、さっさと立ち去ったほうがいい。
「……そうね。リリアン、ごめんなさい。せっかくの舞踏会なのに、私に付き合わせてしまって」
「そんなこと、おっしゃらないでください。エミリア様の方が何倍も辛いのだから」
そう言ってリリアンは、ほとんど泣きそうな顔でエミリアを気遣ってくれる。エミリアはそれに軽く微笑み返すしかなかった。もう言葉もあまり出てこない。彼女たちはそうして密かに馬車を呼び、ウィンスレット公爵家へと戻ることにした。
――こうして、「婚約破棄」と「屈辱」の一夜は幕を下ろした。だが、この事件はエミリアにとって何の終わりでもなく、むしろ始まりに過ぎなかったのである。
その夜、彼女は寝室の扉を閉めるなり、初めて声を上げて泣いた。それは悔しさと悲しさ、そして怒りが入り混じった涙。侮辱だけならばまだしも、ずっと信頼してきた相手に裏切られた悲しみは想像を絶する。真夜中の静寂を破るように、枕に顔を埋めながら声を殺し、ただ一人泣き続ける。
長い時間をかけて涙が枯れたころ、エミリアは思い浮かべる。自分が今後、どういう道を選んで生きていくべきか。王女に奪われた婚約者を取り戻す?――否、それはもはや考えられない。あの場での彼の傲慢な態度は、エミリアの中にあった愛情を深く傷つけ、粉々に打ち砕いた。
(もう、あんな人はどうでもいい。でも、それだけでは済まされない。私の尊厳を踏みにじったこと――後悔させてみせるわ)
決して感情任せに叫ぶような復讐心ではない。けれど、彼女の中にゆっくりと燃え始めた炎は、もう簡単には消えないだろう。もし彼らが、自分の都合でエミリアを捨てておきながらさらに幸せになろうなどと考えているのなら、そんな甘い考えは打ち砕いてやる。それが、公爵令嬢エミリア・ウィンスレットの誇りにかけた戦い。
その一方で、彼女は気づいていない。近いうちに、ある人物が彼女に手を差し伸べることを。――あの夜会へ遅れて姿を見せた、皇太子アレクシスの存在を。婚約破棄を宣言された屈辱の夜は、エミリアが己の運命を大きく変えるきっかけとなったに違いない。彼女の“逆転”はまだ始まったばかりなのだ。
婚約破棄と屈辱の夜考えは打ち砕いてやる。それが、公爵令嬢エミリア・ウィンスレットの誇りにかけた戦い。
その一方で、彼女は気づいていない。近いうちに、ある人物が彼女に手を差し伸べることを。――あの夜会へ遅れて姿を見せた、皇太子アレクシスの存在を。婚約破棄を宣言された屈辱の夜は、エミリアが己の運命を大きく変えるきっかけとなったに違いない。彼女の“逆転”はまだ始まったばかりなのだ。