私が異世界に転生したのは、まったくもって不本意なことだった。
現実世界ではそこそこ真面目に働き、そこそこ気を遣い、そこそこ恋もした。
でも、人生は「そこそこ」で報われるほど甘くない。
ある日、意地の悪い同僚・沙耶に彼氏を奪われたあげく、
「やっぱあんたって都合のいい女だよね〜」
と笑われた。
その瞬間、何かがぷつんと切れて、目が覚めたら──
豪華なシャンデリアが煌めく部屋におり、姿見に映る私の姿は腰まで届く金髪の、「悪役令嬢」になっていた。
「ふふふ……私、悪役令嬢になったのね。ならばもう、優しくなんかしない!」
これまでの人生、気を遣ってばかりだった。
優しくしても見返りなんてない。
いつもいいように利用されてばかりだった。
沙耶には彼氏を取られてしまったし……
だったら今度こそ、私が“悪役”として、自由にわがままに、好き勝手に生きてやる!
そう誓ったのではあるが……
「マリア嬢、ありがとうございます! 落とした財布を拾ってくださって……!」
「いえ、こんなものは当たり前のことでしてよ?」
悪役令嬢っぽく喋ってみたけど……悪役になれていないような……
たしかに財布は拾った。
でもそれは、道端にぽつんと落ちていたから拾っただけ。
ついでに持ち主に届けてあげただけ。
それだけなのに、なぜか町中に「令嬢、困窮市民を救う」の噂が広がってしまい、私の名声がうなぎ上りとなってしまった。
おかしい。私って、悪役令嬢に転生したはずなのに……
「ふふ、今日は悪役、やってやるわよ……!」
令嬢マリア・フォン・アーデルハイトは、誰もいない中庭で拳を握りしめていた。
背景に鳴り響くのは、鳥のさえずりと、噴水のやけに平和な水音である。
悪役令嬢ファーストミッション:花壇爆破
物理的に爆破するのではない。
悪役令嬢には、それ相応の“品格”というものがあるからだ。
今日は中庭で開かれる園芸部主催の「花卉鑑賞会」を妨害する。
方法は単純。
事前に調合した「枯らしのエッセンス」を、花壇の根本に少しだけ撒くだけ。
植物たちはしおれ、観賞会は大混乱……。これぞ、小悪党の真骨頂!
「よし、準備は完璧。あとは誰にも見つからないように──」
そのときだった。
風がふわりと舞い、マリアのスカートがひるがえる。
と同時に、携えていた小瓶が転がり落ちた。
「……あっ」
ころころころ。
瓶は花壇の端をすり抜け、咲き誇る青い花の根元にぴたりと倒れた。そして──
ぶわぁああっっ!
みるみるうちに大輪の花が咲いたのだった。
「なっ……!?」
しかも、それだけではない。
横にあった、弱りきっていた蔓バラまでぴんと葉を立て元気になった。
「ま、まさか……間違えて、“栄養活性化エッセンス”の方を……?」
そう、二瓶を調合していたのだ。
一本は悪事用。
もう一本は「自分でも花を育てよう」と思って作った善意のエッセンス。
その善意の方が、完璧に炸裂してしまったのである。
「わぁ……! 見てください! 中庭の花壇、昨日まで枯れかけていたのに……!」
「マリア様が……こっそり手入れしてくださっていたのですね……!」
園芸部の女子生徒たちが、ぽわぽわした瞳でこちらを見ている。
うっとりと感謝の目で。
「え、いや、これは、その……毒を撒こうと……じゃなくて……」
必死に取り繕おうとするが、すでに善意の偶像は形成されつつあった。
「マリア様こそ、王国の聖花よ……!」
「やはり、選ばれし人は違うのですね……!」
「マリア様を、次の園芸大会の名誉会長に推薦いたしましょう!」
その後、マリアは園芸部の名誉顧問に任命され、校内報に「慈愛の貴婦人」として掲載されることとなった。
もちろん、当の本人は、頭を抱えて机に突っ伏していた。
「どうしてよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
* * *
「今日こそ、完璧な悪役ムーブを決めてやるわ……!」
マリア・フォン・アーデルハイトは、絢爛な舞踏会場の片隅で葡萄酒のグラスを手にしていた。
ドレスの袖には、こっそりと魔法で仕込んだ小さな「傾き魔法石」が縫い込まれている。
目標は、社交界で目立ち始めた令嬢、セシリア・アルトリエ。
この世界の恋愛イベントにありがちな、“主人公ポジション”の清純派美少女だ。
素朴な笑顔で男たちを虜にしており、なんとなく既視感がある。
そう、前世で彼を奪った沙耶のように。
「セシリア嬢の純白ドレスを、赤ワインで汚す……悪役令嬢ならこれくらいしないとね」
準備は万全。あとは、彼女が通りかかるのを待てばよい。
そして、機会は訪れた。
「えいっ!」
ワイングラスを傾ける。
その瞬間、マリアの視界に異変が走った。
セシリアの後ろにいた侍女が、突然胸元を押さえて倒れ込んだのだ。
「!?」
ぐらり、と傾く侍女。
反射的にマリアは、ワイングラスを投げ出し、侍女を受け止めた。
がしゃん!
破片とワインが宙を舞うも、セシリアの純白のドレスは奇跡的に無傷。
代わりに、マリアのドレスは見るも無残にワインに染まっていた。
会場が静まり返る中、セシリアが震える声で言った。
「マリア様……わ、私のために……!」
「ち、ちが……」
周囲からは歓声が上がった。
「さすがはマリア様ですね!」
「ドレスを犠牲にしてまで他人を守るなんて、やっぱり聖女の再来よ!」
そして翌日、王立新聞の見出しはこうであった。
「救世の白薔薇マリア、清らかなる愛の行為」
* * *
翌週、学園中がまだ「マリア・フォン・アーデルハイト様すごい!」の余韻にひたる中、マリアはひとり、校舎裏で落ち葉を蹴っていた。
「どうして……どうしてこうなるのよ……! もっとこう、ドン引きされたり、嫌われたり、孤独になったりするつもりだったのに……!」
手には、防衛局から届いた“若年訓練候補生登録書”が握られている。
あまりに好意的すぎる推薦文に、嫌でも現実を思い知らされる。
「悪役どころか、ヒロイン枠に片足突っ込んでるじゃない……!」
そのときだった。
「おや、そんな顔をしていると、花たちが泣いてしまうよ?」
マリアの背後から、柔らかな声が降ってきた。
ふと振り向いたその瞬間、マリアの心臓が、音を立てて止まりそうになった。
そこにいたのは──
転生前、彼女がずっと密かに想い続けていた、高瀬悠真に、どこか面影が似ている青年だった。
優しいまなざしと、どこか困ったような笑み。
前世で彼が笑っていたときと、まったく同じ。
「あ、貴方は……」
「初めまして。俺はレオン・シュトラール。王国第七公爵家の次男で……まあ、公爵家の中では落ちこぼれだけど」
優雅に頭を下げる青年の所作まで、あの人と似ている。
マリアの思考はぐらぐらに揺れた。
その直後、彼は微笑んで、こう続けた。
「実は君と同じなんだよ、マリア嬢。俺も“悪役”になりたくて仕方ないんだ」
「……は?」
「ほら、正義とか理想とか、しんどいじゃない? だったら、いっそ“悪い貴族”を演じた方が楽っていうか……憧れるっていうか……」
「…………」
「でもなかなか、悪役って難しくてさ。人に嫌われるの、想像以上にスキルが要る──」
「うるさいっ!!」
怒鳴り声が、校舎裏に響いた。マリアは思わず拳を握って叫んでいた。
「ふざけないで! 何その、ちょっと悪になってみたかったんだよね~みたいな軽いノリ! こっちはね……こっちは……!」
言いかけて、口をつぐむ。
こっちは、恋人を奪われて、信じていた人に裏切られて、心の底から世界を憎んで、悪役になろうと決意したというのに……
そんな私の事情なんて知るはずもないのは分かるけど、でも……でも……「彼」に似た男が、優しい笑みで悪役ごっこをしているだなんて!
レオンは、ふっと真顔になった。
「……俺のことを前から知ってるの?」
「知らないわよ。ただ、“顔”がムカつくだけよ」
「そっか……じゃあさ、これから嫌われる努力、俺と一緒にしてみないか」
「は?」
「“悪役同盟”を結成しよう。手始めに、明日の学園舞踏会、一緒にめちゃくちゃにしてみるっていうのは、どう?」
マリアは、きつく唇を噛んだ。
この男は、彼と同じ顔なのに、何かが違う。
いや、違っていなければならない。
そうじゃなきゃ、私は……また……
「……いいですわよ! やってやろうじゃないですの。悪役ムーブ、ダブルで完璧にキメてやりますことよ!」
「了解しましたよ、相棒」
レオンが手を差し出した。
「相棒……か……」
マリアは、レオンの顔をそれぞれ睨みつけ、それから、ぐっと握り返した。
「いい? レオン。計画はこうよ。舞踏会がクライマックスを迎えた瞬間、天井のシャンデリアに吊るした魔力煙幕を炸裂させる」
「なるほど……混乱のどさくさに紛れて、料理に盛った“舌が紫になる悪戯スパイス”の効果も発揮されるというわけか」
「そう。食べた貴族たちが喋るたびに、ベロが青紫になって大混乱。これでもう“下品な悪役”として名を馳せるのは確実!」
マリアとレオンは、校舎の屋根裏でニヤリと笑い合った。
二人の悪役同盟は、学園の舞踏会を「最低の夜」にするための工作に勤しんだ。
魔力煙幕、悪戯スパイス、時間差発動する照明の点滅、さらには演奏家にすら細工した魔法音叉を使って“破滅の調べ”を奏でさせる。
悪役をやるからには、細部の演出も含めてしっかりとやらないと。
夜が更け、王立学院の大広間には生徒たちの笑い声が満ちていた。
絹のドレスが舞い、音楽が流れ、甘い菓子と葡萄酒が行き交う。
その中で、マリアとレオンは真紅と漆黒の衣装に身を包み、まさに“悪役”のテンプレートのように登場した。
「お嬢様方、紳士諸君。ようこそ、舞踏会へ。」
レオンの滑らかな挨拶に、
「レオン様、ステキ!」
「まるで劇場みたい!」
……おかしい。
なぜか盛り上がっている。
さらに、料理に仕込んだ「紫舌スパイス」も、予想外の展開となった。
「このスパイス……」
「ええっ! 舌が紫に!?」
「でもこれ、楽しくない? ほら見て! みんなの舌が宝石みたい!」
しまいには、「魔法的な演出」として盛り上がり、即席の“紫舌コンテスト”が開催される始末。
さて、仕込みを炸裂させるとするか。
「それでは……シャンデリアよ、今夜の星となれ!」
合図とともに天井から魔力煙幕が爆ぜ、真紅と金の粒子が夜空のように広がる……はずだった。
だが、直前で風魔法がなぜか同時に発動してしまい、煙幕は爆発するどころかふわりと浮かび、幻想的な光を放ちながら大広間に降り注ぐ。
生徒たちは歓声を上げる。
「これは……!」
「まるで星の花吹雪みたい!」
「マリア様とレオン様の演出、ステキだわ!」
マリアとレオンは、会場の片隅で呆然と立ち尽くした。
「……地獄って、こんなに拍手喝采に包まれるものでしたっけ?」
「完全に失敗したわね」
「だけど……」
レオンがぽつりと呟いた。
「君、ほんとに楽しそうに笑うね」
「は……?」
「君が“悪役になりたい”って必死にあがいてるの、俺はすごく綺麗だと思うよ」
マリアの顔が一瞬、赤くなった。
やめて。その顔で、そんなこと言わないで。
わたしが恋をしたのは、前の世界であなたにそっくりな人。でも、その人は……。
心の奥で、忘れかけていた痛みがうずく。
なのに、どうして。
どうして、この人にだけは、ほんの少し──
「君が本当の悪役になれたとき、俺は誰よりも先に、君に拍手してやるよ」
どうして、この人の言葉だけは、ちゃんと胸に届いてしまうのだろう。
舞踏会の夜から三日が過ぎた。
「マリア様とレオン様の演出が最高だった」との声が止む気配もなく、学内報には『闇と光のプリンス&プリンセス、誕生』なる特集記事まで組まれる始末。
わたしは、“闇”のつもりだったのに。
屋上の風の中で、マリアは一人、スカートの裾を押さえて立っていた。
その手には、小さな羊皮紙の封筒。
退学届。学園を去り、悪役として生きるための一歩だ。
「これで、すべて終わらせる」
誰にも看取られず、誰にも惜しまれず、冷たい視線の中で舞台から降りる。
それこそが“悪役令嬢”の美学だと、マリアは思っていた。
「ねぇ、君さ」
背後から聞き慣れた声がかかった。
振り返ると、風に髪をなびかせたレオンがそこに立っていた。
「ほんとに、それでいいのか?」
「……あら、何のことかしら」
「君さ、いろんな顔するけど、一度も“ほんとの顔”を見せてくれたことないような気がして」
マリアは何も言わなかった。
「俺、わかるような気がする。君が何を恐れてるのか」
「…………」
「どこか違う世界でさ、誰かに裏切られたんだろ? 大切なものを奪われて、それでも何もできなかった。そんな自分を憎んだ。それで、悪役になって生きようと決意した。違うか?」
マリアの指先が震えた。
「な、なに言っているの? 勝手に決めつけないでほしいですわ」
「これは何かな?」
レオンはそっと近づいて、マリアの手から羊皮紙を取り上げた。 「退学? 君が? ここで逃げるのか?」
「逃げてるんじゃない。わたしは、“望まれてない”のよ」
「違うな。君はむしろ、望まれている。君がどんな顔をしても、何をしても、俺は……」
そこでレオンは言葉を切り、逡巡するように目を伏せた。
「……俺は、君に惹かれてる」
それは、冗談じゃないとわかる声だった。
マリアは目を見開いた。
「どうして……どうして、そんなこと言うの……」
「君が“悪役になりたい”って必死であがく姿も、全部含めて、俺は好きなんだ」
「わたしは……もう、誰かを好きになったりしたくないのに」
「だったら、変えてみせるさ。君のその“やせ我慢”を、いつか全部、俺が壊してやる」
マリアはもう、何も言えなかった。
そしてそのとき、頬を伝ったのは、ひと粒の涙。
悪役として泣くつもりなんてなかったのに。
「……わたし……あなたに似た人に、裏切られたことがあるの」
「そうだったのか」
「だから……あなたにだけは……近づきたくなかったのに」
「うん」
「なのに……あなたの言葉ばかりが、なんでわたしに届くのよ!」
マリアは、堪えきれずレオンの胸に拳を叩きつけた。
でもその拳は、すぐに弱くなり、彼の胸にそっと触れただけだった。
レオンは静かに、その肩を抱き寄せた。
昨日のことは、夢だったのかもしれない。
マリアは朝焼けの空を見上げながら、そう思っていた。
レオンに抱きしめられたぬくもりも、あの夜に流した涙も。
そして、自分が“悪役”であることを、初めて手放した瞬間も。
「……本当に“好き”になってしまったのね……」
彼にそっくりな顔をした男を、怖れていたはずなのに。
今では、声を思い出すたび、胸が静かに波打つのを感じていた。
* * *
「転校生が来るらしいわよ」
「ええ? この時期に?」
「しかも特待生枠でね。“元・王宮直属の魔導官”ですってよ」
噂は瞬く間に広がった。
学園の空気が、ざわめき始める。
そして、その“転校生”が姿を現した。
「皆様、はじめまして。ミリア=ローゼンヴァルトと申します」
銀の巻き髪に、毒のように澄んだ赤い瞳。
立ち姿は完璧な貴族のそれなのに、その笑みに漂うのは不穏な冷気だった。
彼女は一礼し、くるりとマリアに視線を向けた。
「お噂はかねがね聞いておりますわよ。“偽りの悪役令嬢”様」
空気が凍った。
「あなたに会えるのを、ずっと楽しみにしていましたのよ」
マリアは無意識に息を止めていた。
彼女の声には、“本物”の毒があるように感じられた。
この女、本物だ。
わたしが演じようとしてきた“悪役”なんて、子どものおままごとにすぎなかったのだ。
「この学園には、“舞台”が足りていないのね。誰かが悲劇を演じなければ、物語は進まないでしょう?」
ミリアの言葉には、まるで“戦線布告”のような響きがあった。
「まあ、そうかもしれないですわね」
マリアの声は震えていなかった。
逃げない。泣かない。もう迷わない。
わたしは、かつて“悪役になろうとしてなれなかった”哀れな女。
でも今なら、“誰かのために戦える女”になれるかもしれない。
そう、あの人に背中を預けるなら。
ミリア=ローゼンヴァルトの登場によって、王立学院の空気は変わった。
彼女は完璧だった。
成績は全科目で首位、魔導演習では教師を圧倒し、社交界では公爵令嬢すらたじろぐ話術と笑顔を持つ。
だが、それはすべての表の顔。
裏では、水面下で他人の評判を操作し、恋仲の噂を流し、ちょっとしたミスを“大罪”にまで膨らませる。
そして今、マリアが標的となっていた。
「マリア、最近ちょっと調子に乗ってない?」
「善人ぶってる悪役だあんて、一番タチ悪いわね」
「この前の舞踏会も、裏で何かやらかしてたらしいわよ」
ミリアが撒いた毒は、じわじわと学園を蝕んでいった。
「見ての通りよ。もう、あたしの悪名なんて残ってないのに」
マリアは、レオンと並んで旧図書棟のテラスに座っていた。
下では生徒たちが笑っている。その輪の中に、自分はいない。
「でも、レオン。あなたを巻き込みたくない」
「馬鹿言うなよ」
レオンはマリアの目を見つめながら言った。
「何と言おうと、お前は俺のヒロインだからな。まあ、“悪役”なんて言ってた時点で、十分コメディだったけどな」
「……は?」
「俺、そういうマリアが好きなんだよ。泣いて、怒って、変な作戦立てて、失敗して、でも絶対あきらめないマリアがさ」
マリアの喉が、少し詰まった。
「悪役にすらなれなかったわたしでも?」
「……ああ、好きだ」
こんなに簡単に言うんじゃないわよ、ばか。
涙が出そうになるじゃない。
そして、決戦の舞台は、月下の“模擬裁判祭”。
恒例の演劇式イベントであり、生徒たちが“罪人”と“裁判官”に分かれて模擬裁判を行うというものだった。
今年の被告人としてミリアが推薦したのは、なんとマリアだった。
罪状は、虚偽の善行による名誉詐称。
「名誉詐称って何よ。どうやったら善行で罪になるのよ。仕掛けてきたわね、ミリア」
舞台の中央で、マリアは裁かれる役として立った。
傍聴席には、生徒たちの冷たい目。
「では、証人を呼びます」
ミリアの声とともに現れたのは、まさかの人物だった。
「お久しぶりですね」
あの人?! いや、そんなはずはない。
前の世界で私が好きだったあの人がここに……
これはどういうこと?
レオンも彼に似ているが、今、目の前にいるのは彼の完全なるコピーであり、似ているとかいうレベルを超えている。
声も顔もそっくりな、この世界での彼は、おそらくはミリアが魔法で作り上げ、そして操られているのだろう。
「彼には“あちらの世界の記憶”の一部が流れ込んでいますのよ。あなたが愛した男とそっくりなのは、お察しの通り、偶然じゃありませんのよ」
ミリアは囁くように言った。
「そして、あなたは二度も失うのよ。大切な人を」
マリアの膝が、かすかに揺れた。
そして、皆に向かって言い放った。
「私は“悪役”です。ええ、認めましょうとも」
会場がざわつく。
「善人ぶっていたわけではありません。悪役としては失敗ばかりよ。計画も、策略も、演出も。そして、今は──愛したいと思っている人がいます」
マリアは、真っ直ぐレオンの方を見た。
「誰かを信じるってことを、初めてやってみたいと思います」
レオンは立ち上がり、壇上に歩み出た。
「ああ。今ここで、彼女の証人になってやる」
レオンが証人席に立つと、観客席の空気はがらりと変わった。
かつて「王都の魔導士見習い」として恐れられた男。
学院に戻ってきた今も、その実力とカリスマ性は、誰もが認めるところだったからだ。
「俺が証言する。“マリア・フォン・アーデルハイト”は、確かに悪役だ」
ざわめきの中、レオンは続けた。
「誰かの痛みを笑い飛ばすんじゃなくて、自分の傷を盾にしてでも、他人の心に触れようとするような悪役だ。彼女は人に優しくしようとするたび、怖くて足がすくむような過去がある。それでも前を向こうとする。そんな“悪役”であるマリアは、俺は誇らしいと思う」
マリアは、心臓をぎゅっと掴まれたようだった。
誰かに見透かされるのは、こんなにも、怖くて、温かい。
「そんな理屈、通用しませんわ」
舞台の対岸で、ミリアが冷たく言い放った。
「言葉など、魔法にも歴史にも勝てない幻想。この世界は、心で動いてなんていませんのよ」
ミリアは手をかざした。
瞬間、魔法陣が宙に浮かび、空間がぐらりと揺らぐ。
「これが、“真実”ですわ」
観客席の景色が、ぐにゃりと歪む。
次の瞬間、全員の視界に浮かび上がったのは──現実世界でのマリアだった。
スーツ姿で、曇った窓際に立つ女。無表情でパソコンを叩き、誰にも心を開かず、同僚たちから意地悪されて孤立している彼女。
そして、恋人を奪われたあの日──
「やめて!」
マリアの声が震える。
でも、ミリアは続けた。
「あなたは、“この世界”に来てからも、自分を隠し続けました。悪役を演じることで、弱さを武装し、“自分を守る”ことだけに固執した。そうでしょう?」
マリアは、両手で胸元を押さえる。
言い返せない。すべてが図星だったからだ。
それを見て、レオンが一歩、前に出た。
「だったら、それがどうしたというのだ?」
「え?」
「誰だって、傷を隠して生きているじゃないか。演じながら、笑いながら、嘘つきながら。マリアは、そんな自分をやめようとしてる最中なんだ」
次にレオンは、マリアの方を向いて言った。
「本当の自分ってやつをさ、もし、少しずつ見せてもいいって思ってくれるなら……そのときは……俺が隣にいてもいいか?」
マリアは、涙をこらえなかった。
「……レオン……」
彼の手は、彼女の手を握る。
その瞬間、空間を満たしていた魔法の映像は音もなく霧散した。
ミリアは目を見開いた。
「まさか……わたしの魔法を……打ち消した?」
「魔法よりも強いものってのが、あるらしいぜ」
レオンはそう言って、マリアを守るように立つ。
「それは、言葉」
「それは、愛」
マリアも言葉を重ねた。
ミリアの魔法は、完全に消失した。
ミリアが召喚した、現実世界の彼も、跡形もなく消えてしまっていた。
「……面白い方々ですわね。いいでしょう。少しだけ、認めて差し上げますことよ」
くるりと背を向け去っていくミリア。
マリアの勝利に、見ていた生徒から拍手が巻き起こった。
* * *
「おはよう、マリア」
「お……おはよう、レオン」
それは、日常の朝の挨拶。
だけど、マリアにとっては、今なお赤面必至の特大イベントなのであった。
レオンは変わらない。自然体で、飾らず、笑う。
でも、マリアは変わってしまった。あの模擬裁判の日から。
かつて“悪役”であろうとした自分は、人から優しくされることなど望んでいなかった。
けれども今、こうして毎朝レオンに名前を呼ばれるたび、心はほんのり温かくなるのだった。
「……愛されるって、こんなに恥ずかしいのね」
こっそり呟いた声は、彼に届いていたらしい。
「今なんか言った?」
「い、言ってませんっ!」
あたふたとするマリアを見て、レオンは声を上げて笑った。
昼休み、学園の中庭。
花の咲くアーチの下で、マリアは珍しく一人静かに本を読んでいた。
そこに、コツコツと規則正しく響く足音。
「……やっぱり、ここにいらっしゃったのですね」
声の主は、ミリアだった。
以前のような鋭さはなかった。
代わりに、どこかすべてを見透かしたような目をしていた。
「今日は、喧嘩を売りに来たんじゃありませんのよ」
ミリアは、椅子に腰かける。
「この前の模擬裁判、完全に負けたと思っていました。でも、あの“愛されること”を信じる演説……あれは少し、響きましたわね」
「そ……そうですか……ありがとうございます」
「で、私も少しだけ、“愛される練習”をしてみようかと思いまして」
驚いてマリアは見返した。
それを見て、ミリアはふっと笑った。
「それには、まず……お友達が必要だと思いまして。マリア、わたくしと、お茶をご一緒していただけません?」
「……え?」
「あなた、“敵”としてはとても楽しかったけれど、今度は“味方”として見てみたい気がしますの」
マリアはしばし固まった。
そして、心の中でこうつぶやいた。
「この世界、やっぱりおかしい。けれど、そういう世界って案外……悪くないかも」
マリアは、誘いを受けることにした。
「では、次の金曜日。午後のティーサロンに付き合ってくれますかしら?」
「ええ、光栄ですわ、“マリア様”」
二人は同時にくすりと笑った。
夜、レオンと並んで星空を見ていたマリアは、ぽつりと聞いた。
「ねえ、レオン。わたし、少しは変われたと思う?」
レオンは迷わず言った。
「変わった、っていうより……“戻った”んじゃないか?」
「戻った?」
「前は悪役になろうとしていたけどさ。たぶん、お前の一番根っこにあったのは“誰かを信じたい”って気持ちなんじゃないか?」
「……うん、そうかも」
「それを、ちゃんと信じられるようになった。それが“マリア”の本当の強さだと思うよ」
マリアは小さく微笑んだ。
「信じてみる。自分のことも、人のことも……そして、この世界のことも」
そっと風が吹いた。
遠くで小さな花が揺れていた。
金曜日の午後、ティーサロン「ヴィクトリアの香り」にて。
マリアとミリアは、今やすっかり“奇妙な友人関係”として注目の的になっていた。
「こうしてあなたとお茶をする日が来るとは……我ながら、感慨深いですわね」
ミリアは細長い指でカップを回しながら、ふっと息を吐いた。
「ねえ、ミリア。あなた、本当は“この世界の人間”じゃないんでしょう?」
ピシリ。
カップの磁器が、音もなく軋んだ。
「……どうして、そう思われますの?」
マリアは、自分の紅茶にミルクを垂らしながら言葉を続けた。
「あなたの“言葉の選び方”が、どこか異質だったの。言い回しも、感情の波も、まるで“役”を演じているみたいに整いすぎているのよ」
ミリアの手が止まる。
マリアは思い切って訊いてみた。
「ミリアも……転生者なの?」
しばらくの沈黙のあと、ミリアは小さく微笑んだ。
「……いえ。“転生”ではなく、“召喚”なのですわ」
マリアの瞳が見開かれた。
「あなたたち“転生者”とは異なる立場で、この世界に呼ばれました。目的はただ一つ。この世界の崩壊を防ぐこと」
「世界の崩壊?」
「この世界は、物語の構造そのものによって成り立っているのですわ。だから、物語の“役割”が壊れれば、世界そのものが崩壊してしまう」
「どういうこと?」
「“悪役令嬢”という存在が、自らその役を捨ててしまえば……この世界は、均衡を失うの」
マリアの息が詰まった。
「私、悪役令嬢を辞めてしまいましたが、それって、世界の崩壊につながるの?」
「ええ。あなたは本来、悪役をまっとうしていただくことで、世界の“物語構造”は守られるはずでしたの。けれど……あなたはそれを超えて、物語の“外”へ、自力で出てしまったのですわ」
ミリアはかすかに微笑んだ。
「そして、本来ならそれは、禁じられたこと。だけど、あなたの選択が、物語を救う“別の方法”になるかもしれない。……そう、今は思っています」
マリアは、椅子の背にもたれかかる。
「……わたしがこの世界に、そんなにも影響を与えていたというの?」
「そうですわ。そして今、世界は静かに揺れ始めています」
その言葉とともに、遠く、空がぐらりと鳴った。
「……今の、なに?」
「物語の“外”が干渉してきているのでしょう。あなたが“マリア”として歩んだことが、この世界にとって前例のない“異物”として記録されているのです」
「つまり……私の選択が、物語の破綻を呼んだ?」
ミリアは首を振った。
「いいえ。違いますわ。“再構築”の機会が与えられたのです」
そう言うミリアの瞳には、かつての“悪女”の面影はなかった。
「マリア。あなたはこの世界を救う“選択者”なのよ。これからは、あなたが“物語を創る側”になるのですわ」
外の空には、かすかな亀裂が走っていた。
異変は、ほんの小さな揺れから始まった。
空がささやくようにきしみ、塔の影が溶けるように崩れ、世界の法則は、少しずつ書き換わっていった。
噴水の水が“空白”と呼ばれる白い霧に変わっていたり、教師の記憶が“昨日と違う物語”を語るようになったり……
レオンは言った。
「この世界はもう、物語として自分を保てなくなってきている。誰かが、この物語を書き換えているんだ」
マリアは直感する。それはきっと、“わたし”だ。
悪役をやめたことで、この世界の物語は“予定通り”に進まなくなってしまったのだろう。
でも、それは悪いことなのだろうか?
その夜、マリアは夢を見た。
かつての現実世界の自分。
誰にも心を許せず、誰かに恋をしても、奪われて、黙って笑うしかなかった自分。
「あのときは、“いい人”を演じることが、いちばん安全だった」
夢の中のマリアが語る。
「でも、今はちゃんと怒って、傷ついて、そして、誰かを信じようとしている。あなたは、“物語のヒロイン”になったのよ。自分の物語の」
次の日。
ミリアがマリアの部屋に現れたのは、陽がまだ傾ききらない頃だった。
「ついに“ゲート”が開きましたわ」
彼女の手の中にあったのは、一冊の黒革の本。
「これは、“この世界のすべての物語”を記した原書、『クロニカ・ファータ』と呼ばれるものです」
マリアは受け取り、ページを開いてみると、そこには彼女の名前が物語の登場人物として記されていた。
〈マリア・フォン・アーデルハイト 悪役令嬢。敗北することで物語を終わらせる〉
「わたしは終わらせるための存在、なのね」
「ですが、ここから先のページは、白紙です」
その言葉に、マリアは息をのんだ。
ミリアは続けた。
「あなたがこれから何を選び、誰を愛し、どんな言葉を交わすか。それによって、“新しい物語”が編み上がっていくのですわ。そして、その物語こそがこの世界の新しい骨組みになる」
マリアはゆっくりと本を閉じた。
「……わかったわ。わたしは、物語を越える者になりますわ」
マリアがそう決意した瞬間、空に刻まれていた裂け目が、かすかに閉じたように見えた。
夜。レオンとマリアは塔の上で星を見上げていた。
「なあ、マリア。お前が“悪役”やめるって決めたときさ、怖くなかったか?」
「すごく、怖かった。自分の存在価値がなるなるような気がしたわ」
「それでも前に進んだのは?」
マリアは少し考えて、答えた。
「レオンが、わたしのことを“見てくれた”から、かしら。どんなに間違っていても、演技であっても、あなたは“わたし”を見てくれた」
レオンは優しく笑った。
「これからも俺はマリアを見ているよ」
マリアは、彼の手を握り返した。
その瞬間、空が光り、世界が震えた。
それは、新しい物語の幕が開く音だった。
* * *
マリアとレオンは、学園内の塔を上った。
そして、塔の自習室にミリアから託された本を持ち込み、机に向かった。
マリアの手元には『クロニカ・ファータ』、この物語の原書である。
そして、その最終章は──白紙。
レオンはマリアの傍らに立って、その本を見つめている。
マリアは静かに息を吸い、そして、羽根ペンを取った。
彼女が書いた文字は、こうだった。
「わたしは悪役令嬢をやめた」
その瞬間、部屋の空気がざわめくのをマリアたちは感じた。
世界がその一文を読み上げたかのように、マリアが書いた言葉が天井に浮かび上がってきたのである。
レオンは呟いた。
「……これが、再構築の始まりというわけか」
塔の窓の外に、黒い羽根が舞った。
それは、人のような形をしていた。
どこか機械的であり、整いすぎた顔をしている。
「監視者か」
レオンは、忌々しく呟いた。
「この世界の構造を守る番人。やつらは、破られた筋書きを修正するためなら、“巻き戻し”だって厭わないだろうな」
マリアは顔を上げた。
「つまり、わたしの選択を“なかったこと”にできるってこと?」
「おそらく、そうだ。物語が“予測不能”になることを、やつらは恐れている」
塔の外に現れた番人は、五体。
黒いフードに包まれ、仮面を被っている。
その仮面の中央に、それぞれ“物語の属性”を象徴する文様が浮かんでいる。
《悲劇》《恋愛》《冒険》《勝敗》《死》
マリアは、レオンの手を握った。
「……これはきっと、卒業試験みたいなものなのね」
レオンは笑った。
「卒業試験か。お前らしくて、いいな」
番人のひとりが静かに口を開いた。
「役割を放棄した者よ。貴様の選択は、物語を混沌へと導いた。よって、修正が必要である」
マリアは、窓の外に浮かぶ番人たちを睨みつけて言った。
「修正なんてさせませんわ。これは、わたしの物語ですの」
「世界を崩すつもりか」
「崩れた先に新しい物語があるのなら、それでいいんじゃありませんこと?」
戦いではなかった。
それは、対話という名の審判だった。
《悲劇》の番人が問うた。
「なぜ、“悪役令嬢”で居続けなかった?」
マリアは答えた。
「わたしの役は、私が決めますわ」
《恋愛》の番人が問うた。
「なぜ、愛されることを恐れた?」
マリアは答えた。
「壊れるのが……怖かった。でも……今は違う。壊れることすら、わたしの人生の一つ」
《冒険》の番人が問うた。
「なぜ、“筋書きのない未来”を選んだ?」
マリアは答えた。
「それこそが、本当の“物語”だと思いますわ」
最後に、《死》の番人が問うた。
「覚悟はあるのか? 物語を壊すということは、自らの存在の消滅を意味する」
レオンは前に出た。
「マリアだけじゃない。俺も、彼女と一緒に消える覚悟はある」
マリアは、彼の手をしっかり握った。
「大丈夫よ、レオン。これは“終わり”じゃない。“始まり”なの。だって、わたしがそう決めたのですから」
その言葉に、黒い番人たちは沈黙した。
そして、彼らの仮面は、音もなく砕け落ちた。
仮面の下には……何もなかった。
番人たちが霧となって消えると共に、空に開いていた裂け目は音を立てて閉じていった。
『クロニカ・ファータ』の白紙だった最終章に、金の文字が浮かび上がってきた。
「マリア・フォン・アーデルハイトは、世界の再構築を果たした。いや、再構築というより、最初の創造者という表現のほうがふさわしいだろう」
レオンは驚いた。
「創造者だって?」
マリアは微笑む。
「やっと、“悪役令嬢”じゃなくなったのね。これからは、役割を演じるのではなくて、わたしの物語を生きていくのですわ!」
塔の最上階、ふたりの背後では風が鳴っていた。
空は、かつてよりずっと鮮やかに見えた。
塔を包んでいた魔力のオーラは消えていた。
学園の生徒たちは、昨日までの“物語の狂い”を、まるで夢のように語った。
そして、誰もマリアのことを「悪役令嬢」とは呼ばなかった。
『クロニカ・ファータ』は、今もマリアの手元にある。
* * *
日差しが優しく降り注ぐテラスで、マリアは紅茶を淹れていた。
「悪役令嬢やめたて、紅茶飲んでのんびりしてるって、どう思う?」
レオンは笑いながら、向かいの席に座った。
「すげえ、いいと思うよ」
「悪役らしさ、まったくない?」
「ああ。“平和を創った魔王”って感じだな」
「あら。それでも“魔王”なのね」
マリアは笑った。
もう、無理に「悪い人」になろうとする必要はない。
好かれようとすることに怯えることもなく、誰かの物語の都合に合わせることもない。
「レオン」
「ん?」
「……あのね、実はレオンってね……好きだった人に、ちょっと似てるの。ここに来る前の世界の人なんだけどね、わたし、その人に恋をしてて、でもその人は、別の人を選んだの」
「…………」
「でもね。もう、それは終わった物語なの。今の私の物語は、あなたと一緒に紡いでいきたいの……」
レオンは頷き、そして微笑んだ。
「そうか。では、俺もはっきりしないと、な」
「え?」
「マリア、俺はキミを愛している」
紅茶はすっかり冷めていたけれど、マリアの頬は明らかに熱を帯びていた。
* * *
その夜、マリアは『クロニカ・ファータ』に一文、書き加えた。
「そしてマリアは、愛する人と共に、自分の物語を歩みはじめた」
書き終わると、そのページの下の方に、小さな金色の文字が浮かび上がってきた。
〈Fin.〉
けれど、また白紙のページが現れた。
終わりなんてものは、つまるところ、どこにもなかったのである。