朝露が、図書館の屋上を濡らしていた。 緑の蔦に覆われたコンクリートの壁には、ひび割れの隙間から花が咲いている。古代の都市の名残が、まるで植物と溶け合いながら、静かに呼吸していた。
「おはよー……って、わっ! ユリク、もう起きてるの!?」
ルルアは寝ぐせを跳ねさせながら、寝袋から半分体を出したまま叫ぶ。 ユリクはすでに弓の調整を終え、弦の張りを指で確かめていた。
「寝顔がひどすぎて目が覚めた」
「むっ……! この絶滅危惧種的美少女に向かってなんたる侮辱!」
「それは誇ることじゃない。この世界に生き残った女性は、そう多くないからな」
カイナはまだ眠そうに目をこすりながら、図書館の端に寄せた木箱の上に座っていた。 胸には、昨夜拾った本の一冊を抱えている。中の文字はもう読めないが、彼にとっては「夢と同じ匂い」がしたらしい。
「ねえ、ねえ……あのビルの隣、見た?」
ルルアが図書館の縁から下を覗き込む。 そこには、ひび割れたコンクリートの空き地が広がっており、その中心に、崩れかけの建物がぽつりと立っていた。ガラスのドーム屋根の一部が砕け、中には何か黒い影が見えた。
「あれは“音楽堂”か?」
ユリクが目を細める。 彼の記憶の中に、断片的に残っている都市の景色。かつて、音を鳴らすことで人の心を通わせる建物があったと聞いた。
「知ってるの?」
「ああ、行ったことはないが、あそこにはかつて多くの人が集まっていたそうだ」
「行ってみよう! だって今日の目標は、“なんか食べられそうなモノ探し”じゃなかった?」
「おまえの“なんか”の幅が広すぎるんだよ」
「でも、音楽って……おいしいのかもよ?」
ユリクは頭を抱えたが、もう慣れていた。
*
3人は図書館を後にし、隣接する廃墟に足を踏み入れた。 コンクリートに刻まれた割れ目の中から、黄色い花が咲いている。温室だったのか、音楽堂だったのか、建物の用途は定かではない。
中は静かだった。いや、静かすぎた。
「音が……消えてる?」
ルルアが囁く。 たしかに、不思議な感覚だった。さっきまで耳にしていた風の音や鳥の声が、ここに入った瞬間にすっと消えたのだ。まるで空間そのものが、音を吸い込んでいるかのように。
中央には、苔むしたグランドピアノがあった。 脚の一本は崩れ、鍵盤も所々外れている。だが、不思議な存在感があった。
「これ、ピアノ……? 本物?」
ルルアがそっと指を伸ばし、黒い鍵盤を押す。 だが、音はしなかった。ただ、空気がわずかに震えただけ。
「鳴らない……」
「記憶が壊れてる」と、カイナが言った。 その声が、やけに響いた気がして、ルルアもユリクも黙る。
*
ユリクは建物の隅で、古い電源装置のような機械を見つけた。 金属のケースの中に、古代の記憶媒体が残されていた。それはピアノの足元と繋がるように、ワイヤーで接続されている。
「これ……“演奏記録”?」
カイナが機械にそっと手を触れた瞬間、ふわりと空気が変わった。 小さな光が舞い、空間の中央に淡い像が浮かぶ。
《記録再生:西暦3041年——最後の演奏会——》
少女が、壊れかけのピアノの前に立っていた。 黒髪をひとつにまとめ、目を閉じて、無言で鍵盤に触れる。 音はない。けれど、その仕草が美しく、切実で、なぜか心が動かされる。
無音の旋律が、3人の心に届いた。
——世界の終わりに、誰かが残そうとした「音」だった。
*
「……この人、何を弾いてたのかな」 ルルアがぽつりとつぶやく。 鍵盤に手を重ねてみるが、やはり何も鳴らなかった。
「でも、わたし、ちょっとだけわかる気がする。この場所、あったかい。……なんか、“祈ってる”みたいだった」
「争わずに、ただ……何かを残すために」
ユリクが小さく呟く。
その言葉に、カイナがうなずいた。 星の声のように、やさしく。
「ここに、“言葉じゃない記憶”があったんだと思う。 音も、匂いも、誰かの願いも……全部、きっと残せるって思ったんだ」
*
その日、3人はピアノのそばに小さな焚き火を作った。 ルルアが温室跡で見つけた野草を火にかける。ハーブのような香りが漂い、湿った空気にじんわりと広がる。
「今日のごはんは、“音のないピアノスープ”。香りは音楽、味は記憶!」
「味覚のセンスが謎すぎる……」
「でも、あったかいよ。これ、好きかも」
カイナが笑った。ルルアも、うれしそうに笑い返す。
ユリクは、黙って空を見上げた。 ガラスの欠けたドーム越しに、夜の星が覗いている。
「ここに、“争わない人間の最後の願い”があったのかもな。 ……誰にも届かなくても、それでも、残したかったんだろう」
*
夜。 3人は静かに割れた窓からのぞく星空を見ていた。 星の声は何も語らなかったが、代わりに、風が優しく木々を揺らしていた。
カイナがそっと呟く。
「星の声が言ってる……次は、“風の塔”に行けって」
「風の塔? また変な場所かー……そこに美味しいキノコは生えてるのかな?」
「知らん」ユリクが即答する。
「ひどい!」
笑い声が、森に溶けていった。
その足元では、小さな花が静かに咲いていた。 まるで、音のない旋律に呼応するように——。