第一部「失踪の痕」
雨が止んだばかりのアスファルトに、ぼんやりとした月光が滲んでいた。夜の街は、濡れた土と枯れ葉の匂いを孕み、かすかに胸の奥を冷たく撫でるようだった。
八坂晴人は、古びたアパートの一室に立ち尽くしていた。姉、詩織の部屋。白いレースのカーテンが夜風に揺れ、その影が壁に儚い波紋を作っていた。
机の端に置かれた手帳が、月光に照らされて鈍く光る。「弟へ」と震えた筆跡で書かれたその表紙には、乾いた血痕がぽつりと残っていた。
晴人の指先が震える。喉の奥が粘りつき、呼吸が不規則になる。それを押さえるように、胸元の万年筆を握りしめた。大学に進学したとき、詩織が笑いながら渡してくれた大切なものだった。
「あなたなら、このペンで世界を変えられるよ」
そう言った姉の声が、記憶の底で微かに揺れる。詩織はいつもそうだった。晴人がどんなに自信をなくしても、どんなに不安に苛まれても、彼女の言葉はいつでも彼を肯定し、支え続けた。まるで、彼女自身が彼にとっての世界そのものであるかのように。
手帳を開くと、ページの端に黒ずんだ斑点が散っていた。「夜籠村」「供物」「祀り」――不自然に震えた文字が、異様な恐怖を孕んでいるようだった。墨と鉄錆が混じったような、生々しい匂いが鼻腔をくすぐる。
思わず膝を折り、背中を壁に預ける。額から冷たい汗が伝い、首筋にしがみつく。幼い頃、雨の日に姉が手を引いてくれた記憶が蘇る。あの頃の詩織は、自分よりもずっと小さかったはずなのに、その手はどんな時も晴人を強く引き上げてくれた。ずぶ濡れになりながらも、晴人を必死に抱きしめる姉の体温。その腕の中にいれば、世界中の嵐も、暗闇も、すべてが遠ざかる気がした。
「……詩織……」
喉の奥から、ちぎれるような声が漏れる。思い出したくない弱さが、胸の内に泡のように生まれる。
――逃げろ。
そんな声が微かに脳裏をよぎった。それは、この手帳に書かれた言葉が持つ不気味さから来る本能的な警告だった。けれど、それはすぐに姉の笑顔に塗り潰された。彼女の笑顔は、晴人にとっての世界の光だった。その光が失われた世界で、どうやって生きていけばいいのか、彼には想像もつかなかった。
「俺には……もう、詩織しかいないんだ……」
喉元まで出かけた言葉は、息とともに掻き消えた。姉のいない未来は、黒い穴のように底が見えない。
「ここで引き返せば、まだ間に合うかもしれない。けれど――その未来に、詩織はいない。」
声にならない叫びが、骨の中で軋んだ。
そのとき、机の下から一枚のパンフレットが滑り出た。古ぼけた観光パンフレット。「古来の信仰が息づく、最後の神秘――夜籠村へようこそ」表紙には、赤黒いインクで「祝福」と乱雑に書かれている。その文字は、血で書かれたかのようで、晴人の心臓を鷲掴みにした。
裏には細い手書きの地図。「影に呼ばれし者は、夜籠の門をくぐる」掠れた文字が、血のように滲んで見えた。村の地図の脇には、かすれた文字で「月蝕の日、供物が捧げられる」と書き加えられていた。
晴人は呼吸を乱しながらも、それを手帳に挟み込む。指先に生ぬるい汗が滲む。遠くで、すすり泣くような風の音がした。まるで姉が、どこか暗闇で一人泣いているかのように、その風は彼の心を揺さぶった。
気がつくと、白い小さな人形を手に取っていた。詩織が幼い頃に作った「お守り人形」。ぎこちない縫い目と、ペンで描かれたシンプルな顔が、薄暗い部屋の中で不気味なほど鮮明に見えた。
「弟がずっと無事でいられますように」
あの日、笑顔でそう言った詩織の声が、鼓膜に深く食い込んで離れなかった。あの頃の詩織は、まるで自分自身が世界を守るかのように、いつも晴人の盾になろうとした。
夜が更け、雨音が完全に消える。曇った窓ガラスに、自分の顔がぼんやりと映る。その瞳は、どこか姉の影を映しているように見えた。目の下の隈は深く、顔色は土気色で、そこに映る自分はまるで別人のようだった。
翌朝。
晴人は最低限の荷物だけをまとめ、手帳と人形、そして万年筆をバッグに詰めた。肌寒い朝風の中、彼の背は細く、異様に頼りなげに見えた。それでも、彼の瞳には、昨夜の迷いとは異なる、硬質な光が宿っていた。
駅へ向かう途中、コンビニの壁新聞の切り抜きが目に留まる。
「若者、山間の村で消息不明――“祝福を受ける”という最後の投稿を残して」
指先が痙攣し、息が詰まった。記事には、行方不明になった若者がSNSに投稿したとされる、不気味なメッセージのスクリーンショットが添えられていた。「夜籠の神よ、我が身を捧げん。祝福の光を我に」。その狂気じみた言葉は、手帳の「供物」「祀り」という文字と不気味に重なり合う。
「やめろ……」
口の中で呟いた声は、誰にも届かず消える。引き返したい。その願いが、黒い血管のように全身を這い回る。こんな異常な状況に、冷静な人間なら誰もが逃げ出すだろう。だが、胸元の手帳に触れた瞬間、すべての願いが壊れた。
「詩織……」
唇を震わせ、彼は歩みを進める。彼の足元に、昨夜の雨が残した水たまりが、灰色の空を映していた。
第二部「封じられた祠」
山道は、湿った土と腐葉土の匂いで満ちていた。一歩踏み出すたびに、靴底がずぶりと沈み、枯葉と泥が混ざり合う音が小さく響く。月光は木々の間を縫い、地面に細い白線のような筋を作っていた。その光はまるで、この先へ進むなと警告しているかのようにも見えた。
「……詩織……」
小さく名前を呼ぶと、森全体がわずかに息を呑んだように思えた。枝が風に揺れ、ざわざわと耳をくすぐる。どこからか、遠くで獣の鳴き声のような、人のすすり泣きのような音が聞こえた気がした。呼吸が詰まりそうだ。それでも、引き返すという選択肢は、もうとうに失われていた。晴人の足は、姉のいる場所へと、まるで磁石に引き寄せられるかのように進む。
坂を登り切ると、急に視界が開けた。そこに、歪んだ鳥居がひっそりと佇んでいた。朱色の塗装は剥がれ、黒ずんだ木の肌が月明かりに浮かぶ。風雨に晒され、ひび割れた表面には、まるで生き物のような複雑な模様が刻まれている。鳥居の中央には、古い麻紐に白紙の御幣が吊るされ、その一つひとつが湿った夜風に震えていた。その白い紙の揺れが、まるで無数の視線でこちらを覗いているように感じられ、背筋に冷たいものが走った。
鳥居の向こうには、苔むした石段がさらに闇の奥へと続いている。一段ごとに湿気を増し、足元が滑りやすい。踏みしめるたびに、ねっとりとした泥の感触が足の裏に伝わる。まるで、その奥で何かが息を潜め、晴人を待っているかのようだ。闇の底から、粘りつくような視線が絡みついてくる錯覚に陥る。
「――来てしまったんだね。」
突然、声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、白い装束をまとった女だった。顔は能面のような白い面で隠されており、夜の闇の中でも不気味な白が際立っている。面の女――その存在だけで、空気が数度冷たくなったように感じられた。彼女の背後にある闇が、一層深く、重くなったように錯覚する。
「あなたが……面の女……?」
声は喉の奥で割れそうになった。恐怖と、わずかな期待がない混ぜになる。この女が、姉の行方を知っているのか。女は面の奥で微笑んでいるような雰囲気を漂わせながら、細い手を胸の前で組む。その仕草は、どこか神聖でありながら、同時に底知れない悪意を秘めているようだった。
「弟を追って、ここまで来るなんて。とても素晴らしい。とても……美しい。」
その言葉に、寒気が走る。彼女の言葉に込められた「美しい」という響きが、晴人の精神を深くえぐる。まるで彼を、価値のある「何か」として品定めしているかのようだった。女の声は澄んでいながら、奥に歪んだ感情の渦が見えるようだった。
「私は、あなたのような人をずっと待っていたの。」
女は音もなく歩み寄ると、手を伸ばした。白い指が、晴人の頬に触れようとする――思わず後退ると、女の手は静かに空を撫でるように止まった。その動きは、まるで彼が逃げることを予期していたかのようだった。
「怖がらなくていいのよ。あなたはとても美しい供物になる。」
面の女はゆっくりと晴人の背後を指差した。その先には、闇に飲まれかけた祠の入り口が薄っすらと見えた。
「行きなさい。あの祠へ。あなたの姉が待っている。」
その声は、命令でありながら、どこか誘惑するような響きを持っていた。姉が待っている、という言葉は、晴人にとって唯一の道標だった。
石段を上るにつれ、重い空気が身体にまとわりついてくる。まるで透明な粘液に包まれたかのように、一歩ごとに体が沈むような錯覚に陥った。頭が熱を帯び、耳鳴りが響き始めた。キィン、という高い音が、遠くから聞こえる鈴の音と混じり合う。血の匂いが鼻腔を刺激し、意識が遠のきそうになる。その匂いは、生臭く、そしてどこか甘い、形容しがたい異臭だった。
階段の最上段には、小さな祠があった。木造の扉はわずかに開いており、その隙間から黒い液体が地面に滴っている。月明かりの下、それは血のようにも見えた。しかし、単なる血ではない。澱んだ、粘り気を帯びた、深淵から湧き出したかのような不気味な液体だった。
「……詩織……」
扉を押し開けると、中には白い布で覆われた人影がいた。細く、弱々しい肩。布の隙間から、濡れた黒髪が垂れ落ちている。その姿は、間違いなく詩織だった。彼女の周りには、腐敗した草花の匂いが微かに漂っている。
「詩織……っ!」
晴人は駆け寄ろうとした。だが、その瞬間、祠の奥に並んだ無数の白装束の人影が動いた。みな面をつけ、血で描かれた紋様を体に刻んでいる。彼らは足音もなく、ただ揺れるように詩織を囲む。その動きは、まるで何かの舞いのようであり、同時に獲物を囲む捕食者のようでもあった。その場の空気が、一瞬で凍り付いたかのような重みに変わる。
詩織の目は開いていた。けれど、その瞳は深い闇のように虚ろで、焦点が合っていない。かつて晴人を見つめた、あの優しい光はそこにはなかった。まるで魂が抜き取られたかのように、空っぽの瞳が、虚空を映している。
「……はる……と……?」
かすかに、詩織が名前を呼んだ。だが、声は途切れがちで、言葉として成立する前に溶けていく。それでも、その声は確かに晴人の名前を呼んだ。その微かな呼び声が、彼をさらに奥へと引きずり込んだ。
晴人は泣き出しそうな顔で、一歩踏み出す。しかし、白装束の人々が滑るように道を塞ぎ、手を伸ばしてくる。晴人の腕を掴むその手は、氷のように冷たかった。まるで死者の手が触れたかのような感触に、晴人の体は硬直する。
「返してくれ……詩織を……!」
声が裂けそうになる。体中の血が逆流するような熱と寒さが、骨の髄を蝕む。全身が粟立ち、吐き気が込み上げる。それでも、彼は詩織の手を掴もうと、必死にもがいた。
「まだ……間に合う……!」
そう叫ぶが、その声は白い面に反響し、どこまでも空虚に消えていく。白装束の人々は、何も言わず、ただ静かに晴人を見下ろしている。その沈黙が、何よりも彼を追い詰めた。
「詩織……逃げよう……!」
詩織は小さく首を振った。その動きは、弱々しく、しかし明確な拒絶を示していた。そして、微かに唇が動いた。
「……おいで、晴人……」
その言葉は、まるで命令のように響いた。それは、幼い頃に姉が与えてくれた、絶対的な安心感と酷似していた。しかし、今はその安心感が、彼を破滅へ導く罠のように感じられた。脳が焼けるような感覚とともに、晴人の足は再び前へと動いた。抗えない。抗う術がない。彼の意思とは関係なく、体は詩織へと引き寄せられていく。
「やっと……来てくれたのね……」
詩織の顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。それは、かつて晴人を守った優しい姉の微笑みと、どこか異様な歪みが混じった恐ろしいものだった。その笑みは、晴人の心を深く抉った。彼の知る詩織ではない。しかし、彼の心が最も求めていた姉の姿でもあった。
白装束の人々は、詩織を囲みながら、ゆっくりと後ろへ退いていく。面の女は外で静かに佇み、その光景を見守っていた。彼女の指先がわずかに震えていた。その震えは、喜びか、悲しみか、あるいは、何か別の感情なのか。晴人には判別できなかった。
「愛を選ぶなら、あなたも影になりなさい……それが、ここでの唯一の救い。」
女の声が、夜気に滲むように低く響いた。その言葉は、晴人の耳に直接語りかけるかのように、深く、重く響いた。救い、という言葉に、晴人は一瞬だけ希望を見出す。だが、それはあまりにも恐ろしい救いの形だった。
第三部「贄と祝福」
暗闇の底で、無数の声が重なり合っていた。かすれた呟き、呻き、泣き声、そして笑い声――それらが渦を巻き、耳の奥を刺すように響いていた。それは、これまで夜籠村で「贄」となった者たちの、魂の残滓が作り出す混沌のコーラスだった。
「……はる……と……」
詩織の声だけが、微かに、しかし確かに、その混沌の中で浮かんでいた。その声は、闇の中で彼を呼ぶ唯一の灯火であり、同時に、彼を深淵へ引きずり込む鎖でもあった。
晴人の意識は、深い霧のような膜に覆われていた。思考は溶け、痛覚も快楽も混ざり合い、自分がどこにいるのかもわからない。肉体は重く、しかし同時に、何かに浮遊しているような奇妙な感覚に襲われた。ただ一つ、詩織の声だけが、自分を呼ぶ灯のように遠くで瞬いていた。彼の存在は、もはや肉体的な形を保っているのかさえ不明瞭だった。
「……詩織……?」
口の中で、名を呼ぶような音が震えた。だが、それは言葉ではなく、ただの呼気のように虚しく消えた。彼の意志は、肉体から切り離され、魂だけが闇の中を漂っているかのようだった。
視界は暗闇と白い閃光の間を行き来する。無数の白装束が、舞うように周りを回っているのが見えた。彼らの影が、壁に奇妙な形を刻む。その動きは、祝祭であり、葬送でもあるようだった。生命の終わりを寿ぎ、新たな始まりを祝うかのような、おぞましい儀式。
面の女は、祠の外で両腕を広げていた。月光に照らされ、白い面が無表情に輝いている。その姿は、まるで夜の闇そのものが人型をとったかのようだった。彼女の口元が、ゆっくりと動く。
「――これで、すべてが繋がる。あなたは、供物であり祝福。詩織のための、最後の物語。」
面の女の声は、夜気と共鳴し、祠の内部に流れ込んでいった。その声には、厳かな響きと、どこか深い満足感が含まれていた。それを合図に、白装束の者たちが一斉に面を外し始める。
その顔は、すべてが空白だった。目も鼻も口もなく、滑らかな白い面のような皮膚だけがそこにあった。皮膚の表面には、うっすらと青い血管が透けて見え、まるで生きていない人形のようだった。何者でもない存在。何者にもなれなかった存在。供物に選ばれ、名を奪われた者たちの、果ての姿。彼らはもはや人間ではなく、ただ「贄」として捧げられ、この場所に縛り付けられた「影」そのものだった。
白装束たちは、一斉に地面に伏し、無音の賛美を捧げる。
彼らの背中には、黒い血のような紋様が滲み、時折小さく痙攣していた。
それは、苦痛か歓喜かもわからない、生き物のような蠢きだった。
「詩織……」
晴人の指が、かすかに動いた。黒い液体に浸った腕が、音を立てて持ち上がる。その腕は、もはや彼の腕ではなく、闇そのものから生まれたかのような、不定形な影の腕だった。詩織の影のような腕が、それを優しく迎え入れる。
「おかえり、晴人……」
詩織の声が、微笑むように柔らかく響いた。その声は、かつて晴人を守り、抱きしめてくれた優しい声と寸分違わなかった。けれど、その奥に潜む冷たい深淵に、晴人の心はゆっくりと溶かされていった。安心感と、絶対的な恐怖が混じり合う、耐え難い感覚。
「……ありがとう……これで、ようやく……」
詩織の瞳に、淡い光が戻る。その光は、わずかな間だけ、かつての姉の面影を取り戻した。その瞳は、晴人を優しく見つめ、そして、深く、満足そうに瞬いた。それは、彼女がどれほどこの瞬間を待ち望んでいたかを示す光だった。
「一緒に……帰ろう……」
詩織が差し出した手を、晴人は掴んだ。その感触は、暖かいはずなのに、どこまでも冷たく、どこまでも深かった。まるで、氷でできた手と、無限の闇でできた手が触れ合ったかのようだった。彼らが「帰る」場所は、この世のどこでもない、彼らだけの深淵だということが、晴人の漠然とした意識の奥で理解された。
面の女はゆっくりと両手を合わせ、低い声で祝詞を唱え始めた。その声は、古代の呪文のように響き、空間そのものを震わせる。周囲の白装束たちは静かに跪き、無言の賛美を捧げる。彼らの白い顔は、狂気と諦念が入り混じったような表情を浮かべているように見えた。
月が空高く昇り、完全な円を描いた瞬間、祠の内部に濃い影が渦を巻き始める。空間がねじれ、黒い血が沸き立ち、白い霧が滲むように広がっていく。祠の中は、光と闇、生と死が混ざり合う、不可解なエネルギーに満たされる。
「これが……祝福……」
晴人は、自分の輪郭が溶ける感覚を覚えた。骨が砕け、血が黒い液体へと変わり、皮膚が影に溶けていく。痛みはすでにない。ただ、自分の存在が、この世界から、そして記憶から消えていくような、甘美で恐ろしい感覚だけがあった。
「おいで、晴人……ずっと、一緒に……」
詩織の声が、耳の奥に染み込む。それは、もう抵抗の余地を許さない甘美な呪縛だった。愛しい姉の声は、彼を深淵へと誘う最も強力な呼び声だった。彼にとって、姉と共にいられるならば、それがたとえどんな形であっても、この世界から消え去ることであっても、抗う理由など何もなかった。
晴人は、最後に微かに笑った。姉と再びひとつになれる、その幸福だけを信じて。彼の顔に浮かんだのは、苦しみではなく、紛れもない至福の表情だった。
「……ありがとう……」
その瞬間、詩織の背後に無数の影が微かにうごめき、いくつもの顔のない白い面が、月明かりの中で歪んだ笑みを浮かべたように見えた。
最期の言葉は、月に向かって零れた。それは、姉への感謝か、あるいは、自らの選択への肯定か。その言葉は、彼の存在が完全に消え去る直前に、闇の中に吸い込まれていった。
祠の中には、黒い液体の湖が広がり、中央に詩織の白い人影が浮かんでいた。その胸には、晴人の面影を模した小さな黒い影が寄り添っていた。それは、晴人の魂が詩織の一部となり、永遠に結びついたことを示していた。
面の女は、静かに頭を垂れた。彼女の役目は、これで果たされたのだ。
「これが、夜籠の祝福。これが、贄の物語。」
白装束たちは、一斉に地面に伏し、無音の賛美を捧げる。彼らの沈黙は、この村の深き信仰と、繰り返されてきた悲劇の重みを物語っていた。
月は高く、森を照らす白い目のように光り続けていた。闇と光の境界は溶け、森そのものが呼吸を始める。夜籠村のすべてが、この「祝福」を静かに受け入れているかのようだった。
そして――
風が木々を揺らし、遠くで小さな鳥の声が響く――
それは、どこか壊れた笛のように歪み、耳に刺さるような音だった。
まるで、村が何事もなかったふりをして夜を装う、その冷たい笑みのように。
まるで、何事もなかったかのように、ただの夜がそこにあった。
しかし、その夜の闇の奥には、新たな影が確かに刻み込まれていた。