第一部「調査の渦」
夜明け前の灰色の空が、街の高層ビル群をぼんやりと照らしていた。薄く濁った光が、都市のガラス窓に滲む。それは、夜の闇に隠された真実を、まだ映し出せない世界のようだった。
都市伝説ライターの楓は、小さなワンルームの一室で、古びたノートパソコンの画面を凝視していた。埃っぽい空気とインスタントコーヒーの匂いが充満する部屋で、彼女の指先は、キーボードの上で微かに震えている。画面には「夜籠村 失踪事件」と検索ワードが表示されていた。
画面の中には、いくつかのSNSの書き込み、匿名掲示板のフォーラム投稿、そして彼女が追う失踪者の最後の投稿が並んでいた。
「おいで……ここが、あなたの帰る場所……」
その言葉は、まるでかつて誰かが楓に直接語りかけたかのように、胸を奇妙にざわつかせた。それは、忘れかけていた、しかし決して消えることのない微かな残響として、耳の奥にこびりついていた。
過去の調査記録を開きながら、楓の指先は無意識に胸元の小さなペンダントを握りしめた。それは、失踪した同僚――伊吹が、最後の取材旅行に出る前、楓の誕生日に贈ってくれたものだった。
伊吹は、楓にとって唯一無二の理解者だった。互いの奇妙な好奇心と、真実を追い求める情熱を誰よりも深く共有できる存在。彼がいなければ、この孤独な都市伝説の調査など、とうに諦めていたはずだ。
その彼が、まるで最初からそうなる運命だったかのように、何の痕跡も残さず消え去った。彼が残した最後の音声データには、荒い呼吸音、かすれた笑い声、そして、微かに「祝福」という単語が混じっていた。その「祝福」という言葉が、楓の心を深く抉った。祝福とは一体何か。伊吹は何に「祝福」されたというのか。
楓は深く息を吐き、机の上の黒いファイルを開いた。そこには、伊吹が夜籠村に関する調査で集めた資料が乱雑に散乱している。夜籠村に伝わる古文書のコピー、古びた祭祀記録、供物儀式に関するぼやけた写真。ページの端には、伊吹の筆跡で、血のように滲んだ赤インクで「影送りの巫女」と記されていた。その文字は、彼の最後の研究テーマだった。伊吹は、夜籠村の因習と「影送り」と呼ばれる存在に、異常なほど執着していた。
「伊吹……あなたは一体、何を見つけたの……?」
楓は決意を固めるように小さく頷き、荷物をまとめ始めた。防水加工されたバックパックには、小型のカメラ、高感度録音機材、予備バッテリー、そして防水ノートが次々と詰め込まれていく。彼女の瞳は、都市の夜景を映しながら、すでに夜籠村の奥底、伊吹が消えた闇の核心を見つめているかのようだった。恐怖はなかった。ただ、真実を、伊吹を見つけ出すという、研ぎ澄まされた一点の集中だけが宿っていた。彼女は、伊吹が辿った道を、その足跡を、寸分違わず辿り尽くす覚悟を決めていた。
列車とバスを乗り継ぎ、街の喧騒から遠く離れた山奥へ。舗装されていない獣道を進むと、夜籠村の入り口を示す、歪んだ鳥居が見えてきた。それは、前作で晴人が辿った鳥居と同じだった。朱色の塗装はほとんど剥げ落ち、風雨に晒された木の肌が、月明かりの下で不気味に浮かび上がる。鳥居の中央に吊るされた白い御幣が、夜風に擦れる音が、楓の耳に不気味に響く。霧が深く立ち込め、周囲の木々はまるで生き物のように蠢いていた。湿度を帯びた空気が肺を満たし、身震いするほどの寒気が背筋を走る。
「伊吹……必ず、見つけ出す……」
声にならない囁きを胸に、楓は一歩、村の中へ足を踏み入れた。その瞬間、頭の奥で微かな鈴の音が鳴った気がした。それは、遠い昔から響き続けているかのような、古びた音色だった。
遠くから、誰かが彼女を呼ぶ声がする――「おいで……」
その声は、伊吹の声に似ていながら、どこか甘く、そして抗えない力を持っていた。
楓の意識は、その声に導かれるようにして、次第に現実感を失っていく。まるで、深い夢の中を歩いているかのような浮遊感。彼女の足は、意思とは無関係に、その声が響く方向へと進んでいく。森の奥へと続く細い山道。両脇の木々は一層深く、空を覆い隠し、月光すら届かない。
坂道を進むうちに、楓の目の前に白い装束の女性が現れる。その女性は、前作で晴人を祠へ導いた「面の女」とは異なっていた。彼女の存在はどこか凛としながらも、深い悲しみを纏っていた。顔には能面のような白い面をつけているが、その奥から滲み出るような哀愁が、楓の心を揺さぶった。
「ここまで来たのね……選ばれなかった者よ。」
巫女の声は、氷のように澄んでいたが、どこか人間離れした優しさが混ざっていた。その言葉の意味が理解できず、楓は言葉を失い、その場に立ち尽くす。巫女はゆっくりと面を外すと、そこには空白の顔――目も鼻も口もなく、ただ滑らかな白い皮膚だけがあった。その顔は、恐怖というよりも、静かな絶望を体現しているかのようだった。しかし、その空白の顔から発せられる言葉には、確かに意志が宿っていた。
「真実を知りたいのなら、ついてきなさい。」
巫女の背後には、黒い影が渦を巻いている小さな祠が見えた。その祠の入り口からは、淀んだ空気が吐き出されているかのように感じられた。楓は、足が勝手に動く感覚に囚われながら、祠の奥へと進んでいった。もはや、抗う術も、逃げる選択肢も、彼女には残されていなかった。伊吹の痕跡、真実への手がかりが、この祠の奥にある。その確信だけが、彼女を駆り立てていた。
暗闇の中、再び伊吹の声が聞こえる。
「楓……僕は、ここで……祝福を……」
その声は、希望と絶望が入り混じったような響きを持っていた。声の向こうには、古い祠の中心に沈む深い影が待っていた。その影は、彼が辿り着いた「祝福」の、そして「真実」の姿を示しているかのようだった。楓の精神は、既に現実と幻の境界を見失い始めていた。深い闇が彼女の意識を包み込み、耳の奥で、無数の声が囁き始めた。
第二部「影送りの記憶」
黒い影の渦の中、楓は足元の感覚を失いかけていた。体は重く、しかし地に足がつかないような浮遊感に囚われている。吐息は白く、まるで冷たい洞窟の中を歩いているかのようだった。祠の奥に進むほど、現実の輪郭は溶け出し、遠くからは鈴の音と、女のすすり泣きが混ざったような音が響いてくる。それは、この場所で、長い時間をかけて積み重なってきた魂の叫びのようだった。
「楓……楓……」
誰かが呼んでいる。その声は、確かに伊吹の声に似ていた。しかし、同時に、どこか別の、遠い場所から響くような、不気味な響きも含まれていた。その呼び声は、楓の意識を深淵へと引きずり込んでいく。
視界に現れたのは、白い装束の集団だった。彼らは静かに円を描いて踊るように揺れていた。その動きは、まるで死者たちが蘇り、太古の儀式を繰り返しているかのようだった。
彼らの顔は、皆が空白の顔――目も鼻も口もなく、滑らかな白い皮膚だけがそこにあった。その無表情の奥に、無数の苦痛や絶望が隠されているように感じられた。
彼らが立つ円の中心に、古びた祭壇がある。祭壇には、黒く変色した血で描かれた不可解な紋様と、乾いた草花が飾られていた。その全てが、この場所で繰り返されてきた悲劇を物語っている。その中央に立つのは、影送りの巫女。
「見なさい。これが、夜籠村が最初に捧げた供物の記憶……」
巫女が手を掲げると、黒い霧のような影が宙に広がり、そこに幼い少女の姿が浮かび上がった。少女の姿は半透明で、かすかに揺らめいている。髪は乱れ、頬はこけ、瞳には光がない。彼女は、まるで苦痛に歪んだ人形のようだった。
声にならない泣き声が、楓の耳元に直接流れ込んでくる。その悲痛な叫びは、楓の胸を深く締め付けた。
「助けて……」
少女は繰り返し口を開き、声にならない言葉を漏らしていた。その姿に楓の心は深く抉られる。足がすくみ、全身が冷たく震える。伊吹が辿り着いた「祝福」の真実が、ここにあるのだ。それは、救いなどではなく、終わりのない苦痛の連鎖だった。
「彼女は、この村の最初の供物。名前を奪われ、魂を縛られ、今もなお“祝福”を求める声を上げ続けている。」
巫女の声は冷たくも、どこか哀しみに満ちていた。その哀しみは、彼女自身もまた、この村の因習に縛られた存在であることを示しているかのようだった。
楓の頭の中で、伊吹の声と少女の泣き声が混ざり合い、現実と幻の境界が崩れていく。彼女の精神は、村の膨大な「記憶」と「悲劇」によって侵食されていく。
目の前の白装束たちが、一斉に楓を見つめる。彼らの空白の顔から、無数の視線が突き刺さる。
「おいで……おいで……」
彼らの声は合唱のように重なり、耳に突き刺さる。それは、歓迎のようであり、同時に、深淵への誘いでもあった。
楓の膝が崩れ落ちる。意識が朦朧とする中で、巫女が一歩近づくと、その空白の顔がゆっくりと形を変え、伊吹の面影が一瞬浮かんだ。
伊吹の優しい笑顔が、空白の顔に重なる。その瞬間、楓の心は激しく揺さぶられた。
「選ばれなかった者よ。あなたにはもう一つの役割がある。」
巫女の手が楓の頭上に触れた瞬間、少女の泣き声は叫びへと変わり、黒い霧が楓の身体に猛烈な勢いで流れ込んでいった。それは、冷たく、しかし抗えない力で、彼女の意識の全てを飲み込もうとする。
視界が暗転し、全身を駆ける冷たい痛み。骨が軋み、肉が引き裂かれるような錯覚が走る。意識の奥底で楓は理解する。
これが、影送りの儀式――そして、夜籠村の真実の「記憶」。伊吹が囚われたもの。そして、彼が求めた「祝福」の、その恐ろしい正体。
「伊吹……!」
叫ぶ声は、誰にも届かず、黒い深淵に吸い込まれていった。楓の意識は、底の見えない闇の奥へと沈んでいく。
そこには、伊吹の笑顔と、少女の泣き声が永遠に響き渡っていた。
第三部「贄の末裔」
意識の奥底で、楓は冷たい湖に沈んでいくような感覚に囚われていた。その湖は、この村で積み重なってきた全ての「贄」の魂と、彼らの記憶が溶け込んだ深淵のようだった。
重い水の中で、伊吹の声と少女の泣き声が何度も反響し、溶け合い、楓の心を締め付ける。もはや、彼女自身の感情と、他者の悲鳴の区別がつかなくなっていた。
目を開けると、そこは黒い液体に満ちた広間だった。その液体は、祠から滴り落ちていたものと同じ、粘り気を帯びた、生温かい深淵の血。中央には祭壇があり、その上に巫女が静かに佇んでいる。彼女の背後には、無数の白装束の影が静かに跪いていた。彼らの白い顔は、今や楓の意識に直接語りかけてくるかのようだった。
「あなたは選ばれなかった。だが……役目を持った。」
巫女が語りかける声は、深い水底から響いてくるようだった。その声には、冷たさの中に、わずかな期待と、そして諦めが混じり合っていた。
楓の前に浮かぶ少女の影は、今も泣き続けている。細い指先が震え、血のような黒い液がぽたぽたと落ちる。その液体は、少女の絶望そのものだった。
「村を見守る者となるか、それとも、記憶を持って外へ戻り、次の贄を呼ぶ者となるか。」
巫女の言葉は、楓に二つの選択肢を突きつけた。一つは、この村の一部となり、永遠にここで「影」として生き続けること。もう一つは、この恐ろしい真実を抱え、外の世界へ戻り、再びこの村へ犠牲を送り込む「呼び水」となること。
どちらを選んでも、伊吹が辿り着いた絶望の連鎖から逃れる術はない。
楓の脳裏に、伊吹の笑顔がよぎる。その微笑みは、悲しみと安堵が混ざり合ったような、歪んだものだった。彼は、この場所で、ある種の「救い」を見つけたのだろうか。それとも、絶望の果てに、狂気として受け入れただけなのだろうか。
「伊吹……帰りたい……でも……あなたに会えるなら……」
楓の心は裂けそうだった。外の世界への渇望と、伊吹への再会を望む気持ち。涙が頬を伝い、冷たい血の中に溶けた。その一瞬、彼女は確かに「選べた」はずだった。しかし、村の因習と伊吹の声が、彼女の自由を根こそぎ奪っていく。彼女の選択は、最初からこの深淵へと導かれる運命だったのかもしれない。
「楓……来て……一緒に……」
その声は、かつて愛しかった人の声と同じだった。しかし、今はその声に、抗えない引力と、永遠の寂しさが宿っていた。
楓は拳を握り締め、苦しげに息を吐く。白装束たちがゆっくりと近づいてくる。彼らの顔は空白のまま、だがその空白には無数の亡霊のような表情が滲んで見える。彼らが、楓に選択を迫っているかのようだった。
巫女が右手を差し出す。左手には、黒い儀式の面。それは、巫女自身がつけていた白い面とは異なり、闇そのものを象どったかのような、深淵の色をしていた。
楓は一瞬目を閉じ、深く息を吸い込む。彼女に残された選択は、もはや自由な意志によるものではなかった。伊吹の辿った道、そしてこの村の終わらない因習。彼女がどちらを選んでも、世界はもう元には戻らない。ならば。
「……分かった……私が、贄の末裔となる。」
その瞬間、巫女の空白の顔がわずかに微笑んだように見えた。それは、彼女の宿命を受け入れた者への、悲しい賛同の微笑みだった。
黒い面が楓の手に渡されると、全身に冷たい痛みが走る。楓の皮膚が黒く変色し、血管が闇色に滲んでいく。彼女の身体は、人間としての輪郭を失い、影と一体化していくような感覚に襲われた。
「ようこそ……夜籠村の新たな影送りよ。」
白装束たちが一斉に頭を垂れ、沈黙の賛美が空間を満たす。その沈黙は、彼女の新たな誕生を祝う、不気味な歌声のようだった。
楓の視界は徐々に歪み、彼女の存在は影と一体化していった。もはや、彼女は「人間」ではない。伊吹を追ってこの地へ来た楓は、確かにここで消え去ったのだ。
黒い面の裏で、楓は小さく微笑む。その微笑みは、かつて伊吹に向けた優しい笑顔の名残を帯びていた。それは、狂気にも似た安堵の表情だった。
「伊吹……もう、寂しくない……」
新たな「影送りの巫女」となった楓は、黒い面をつけたまま、村の奥深く、闇の淵へと姿を消した。
彼女の足音は、もはや森の湿った土に吸い込まれて、音を立てることはなかった。夜籠村の森は、何事もなかったかのように月光を浴び、白い御幣が静かに揺れていた。
そして、夜籠村の奥では、新たな「声」がまた一つ、生まれようとしていた。それは、外界から次の「贄」を呼び込むための、終わりのない囁き。繰り返される悲劇の連鎖が、今日も静かに続いていく。
「……おいで……ここが、あなたの帰る場所……」
──完──