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夜籠村異譚 ―呼び水の囁き―

第3話:「囁きの再生」

『夜籠村異譚 ―呼び水の囁き―』


第一話「囁きの再生」


薄明かりのモニターが、狭いワンルームの壁にぼんやりと揺れていた。

夜更けの東京、湿気を含んだ夏の風がカーテンを微かに揺らす。

外からは遠い車の走行音だけが聞こえ、この部屋だけが都市の喧騒から切り離されたかのような静寂に包まれていた。


若宮玲央は、配信用PCの前でヘッドホンをつけ、集中するあまり息を詰めていた。


「……ここだな……」


声にならない呟きが、冷めたインスタントコーヒーのマグに跳ね返る。

彼が再生していたファイルは、視聴者から匿名で送られてきた未公開映像データ。

ファイル名は《Yorugomori_raw_03》。夜籠村に関する資料だと説明されていたが、詳細は不明だった。

伊吹が残したとされる前作の「夜籠村」シリーズのファンが作った模倣か、それとも偶然の一致か。玲央はまだ、その真相を測りかねていた。


画面の中、暗い山道を進む撮影者の荒い呼吸音。

夜籠村の入り口にある朽ちた鳥居、祠の前に吊るされた白い御幣、霧に霞む木々――モノクロのノイズ混じりの映像は、何かを「見せたい」ようで、何も見せない。

不気味なほどの静寂が続き、玲央は思わず音量を上げた。


そのときだった。


「おいで……」


一瞬、呼吸が止まる。

ノイズに混ざる微かな声。それは女性とも子供ともつかない、湿った囁きだった。

鼓膜の奥に染み入るようなその声は、ヘッドホン越しに玲央の思考を支配した。

脳の奥を濡れた指で撫でられるような不快感と、同時に抗えない誘惑が襲いかかる。


「おいで……ここが、あなたの帰る場所……」


玲央は慌てて再生バーを戻す。

何度も、何度も、その箇所を繰り返し聞く。

しかし、その声は断片的にしか拾えない。

まるで、聞かせたくない誰かが、巧妙に隠しているかのようだった。


錯覚か、編集のいたずらか――それとも、本物なのか。


心拍が早まる。

額に冷たい汗が滲む。

視界の端で、窓の外に黒い影が動いたような気がして、玲央は思わず振り返った。


だが、部屋には自分しかいない。

都会の夜景が、ただ無言で瞬いているだけだった。

高層ビルの灯りが、遠くで嘲笑っているように見えた。


「……面白い……これ、いける……」


震える指でマウスを握りしめる。

玲央の脳裏には、この「声」を使って配信をバズらせる未来が、瞬時に鮮やかに描かれていた。

これがあれば再生数は爆発的に伸びる。

自分という存在を世界に証明する、最高の“呼び水”だ。


「これで……俺も、上に行ける……もっと、見てもらえる……」


無意識に呟いたその言葉は、どこか哀しく、空虚だった。

誰にも見つけてもらえない孤独を埋めるために、彼はいつだって「声」を求めていた。

ネットの海で、誰かの評価という「声」に飢えていたのだ。


そして、彼自身も気づかないうちに――

その「声」に捕えられていた。

彼が欲した「声」は、彼自身を深淵へ誘う「呼び水」に他ならなかった。



玲央はヘッドホンを外し、荒い呼吸を押さえるように胸に手を当てた。

背後のモニターには、停止したままの映像ファイルが映っている。

そこには、夜籠村の鳥居と、その先に続く黒い森の輪郭が微かに写っていた。


「大丈夫……ただの演出だ……」


声に出すと、少しだけ冷静さを取り戻す。

自分を鼓舞するために何度も首を振った。

だが、その声は、自分に言い聞かせるというより、背後にいる何かに向けた祈りのようにも思えた。


そのとき、スマホが震えた。

見ると、唯一の仲間からのメッセージが届いていた。


「玲央、この前の音声ファイル、ヤバいよ。変な音混ざってる。耳に残って眠れない。もう聞いた?」


玲央は固まった。

あのファイルに触れた仲間も、同じ違和感を感じている――確信が、冷たい針のように胸を刺した。


「……気にしすぎだ。視聴者は、そういうのが好きなんだ……」


言い訳のように呟いた。

しかし、再びスマホが震える。


「なあ、本気で削除した方がいい。なんか……窓の外に白い影がいる。……マジで怖い。」


玲央は無意識に窓へ視線を向けた。

夜の都会の景色――だが、暗いガラスには、自分の顔以外に、白い何かが重なっているように見えた。


それは窓の外ではなく、ガラスの内側に、彼自身の影に滲むように重なっていた。


「……ふざけるなよ……」


カーテンを乱暴に引き、窓を閉める。

しかし、押し殺せない恐怖がじわじわと広がっていく。



玲央は椅子に座り直し、モニターの再生ボタンに指をかけた。

「止めるべきだ」という理性と、「もっと見たい」という衝動がせめぎ合う。

だが、彼の指は、まるで他者の意志に操られているかのように、再生ボタンへと引き寄せられた。


「……開けるしか、ない……」


クリック音が部屋に響いた。


スピーカーからノイズ混じりの唸り声が溢れ出す。

音が膨らみ、部屋全体が黒い海に沈むような感覚が襲う。

壁が歪み、天井が軋む。

現実が、ゆっくりと侵食されていく。


「おいで……ここが、あなたの帰る場所……」


声が、まるで部屋の中から直接囁かれているかのように響いた。

玲央の視界は歪み、壁が波打つように揺れる。

足元から冷たい何かが這い上がり、背骨を撫でる。


「やめろ……やめろ……!」


震える声で叫ぶが、指は勝手に再生ボタンを押し続ける。

画面の中、鳥居の向こうに白い影が現れる。

長い髪が濡れてまとわりつき、既視感を覚える女の輪郭。


「……楓……?」


玲央の口から、無意識にその名が漏れた。

白い影がゆっくり振り向き、微かに笑う。

その笑みは、優しさと絶望が混ざり合った、恐ろしくも甘い笑みだった。


玲央は震え、椅子から転げ落ちる。

だが、視線は画面から離せなかった。


床に這いつくばったまま、耳には再び「祝福」の声が響く。


「祝福を……受け入れて……」


冷たい息が耳元を掠める。

玲央は悲鳴を上げ、首を振るが、その声は虚しく反響するだけだった。



モニターの画面には、最後に白い影が黒い森の中へ溶けるように消えていった。

玲央は呆然と立ち上がり、震える手で機材を掴む。

動画を「完成」として保存し、配信予定リストにセットする。


「……これで……俺は……」


その呟きは途中で途切れる。

玲央の顔には恐怖ではなく、わずかに歪んだ安堵のような微笑みが浮かんでいた。

その奥には、自分がついに「呼び水」として選ばれたという、得体の知れない悦びの光が宿っていた。


「……これで、みんなに……俺の声が届く……俺が、呼び水に……」


モニターの隅に、白い御幣が揺れるような影が映った。

それは、玲央の存在が夜籠村の因習と完全に結びついたことを示す象徴だった。


彼は知らない――

この「呼び水」が、どれだけ多くの声と魂を引き寄せ、再び夜籠村の深淵へ送り込むのかを。

そして、その連鎖が決して終わらないことを。


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