学校に新しくカウンセラーの先生が来ると聞いたとき、
心の問題を扱う先生。その人は、もしかしたら暁月が子どもの頃に蓋をした感情を暴いてくれるかもしれないと思ったのだった。
「
担任に紹介されて顔を上げた先生は、暁月が思っていた人とは違った。
その人はまだ高校を卒業したばかりのような、若い男性だった。てっきり保健室の先生みたいな、ベテランでどっしりした壮年の女性を思っていたものだから、拍子抜けした。
それで、甘えるには障りがあるような……白い肌と濡れたような黒い瞳が印象的な、どこか艶やかな人だったものだから、暁月には都合が悪かった。
高宮というらしいカウンセラーの先生は、透き通った水の流れのような声色で続ける。
「……心に
澱と聞いて、暁月は一瞬檻と聞き違えた。学校、あるいは社会の壁の中で生きていて、これからもそこで生きていく自分。そんな自分が、檻の中の動物だと言われたようにも思ったのだ。
最初の印象を修正しよう。……あまり好きじゃない先生だ。自分の勝手な聞き違いかもしれないが、暁月はそう思った。
高宮は生徒を誰にも不平等にならないように見渡して言った。
「毎週水曜日の夕方三時半から五時まで、面談室でカウンセリングを実施しています。希望される生徒さんは、面談室の前の用紙に記入して箱に入れてください」
その場は担任の先生に引き継がれて、高宮の話はあっけなく終わった。
暁月は少し落胆した気持ちで、その日の帰路を辿った。
カウンセリングというと精神的に弱い子が受ける印象で、目先の悩みは受験だという標準的な男子高校生の自分が、高宮の世話になるとは思わなかった。
……別に世話になることが目的でもないのに、がっかりするなんて変な話。
見上げれば夕焼けが空を覆っていて、明日はたぶん曇るということ以外、先のことなど見渡せなかった。見渡したいとも思っていなくて、自分の凡人ぶりに嫌気が差していた。
友だちも少しはいるけど、夢中になれるものがあるわけでもなく、やがては卒業して就職する。……自分の中に、澱などない。
ふと高宮が告げた、澱という言葉を心で繰り返した。沈殿物。
いつか水をあふれさせて、取り返しのつかないことを引き起こすもの。
……馬鹿にするな。自分はそんな不適合者じゃない。そう思って、頭からその言葉を黒い消しゴムで消す。
ただ、どこかで会いたくない人ほど会ってしまうと聞いたことがある。
日曜日、暁月は学校の外で高宮に会った。まったく意図したものではなく、偶然だった……と思う。
「こんにちは」
高宮は生徒の顔をひととおり覚えていたらしい。暁月の姿をみとめるなり、朗らかにあいさつをしてきた。
「
そこは教会に隣接する飲食店だった。だから暁月にそう訊ねたのは、まったく的外れでもなかった。
暁月は波の無い声音でそっけなく答える。
「……いいえ。友達はそうですが、僕はここで飲み物を買うだけの目的です」
高宮は暁月の態度を悪く取る様子もなく、そうでしたかと話を切った。
高宮は微笑してさらりと謝罪する。
「休日に声をかけて申し訳ない。どうぞ、ゆっくりしてください。私はすぐ出て行くので」
一瞬の反応だったのに、暁月が高宮によくない感情を持っていることに気づいたらしい。
人の顔色をうかがうのが得意なんだ。カウンセラーだから当然なのかと思う。
暁月はカウンターの高宮から離れてテーブル席についたが、元々店内はそれほど広くない。休日の午前中だから、客は暁月と高宮だけだった。
どこか気まずい沈黙の後、席から声をかけたのは暁月だった。
「……高宮先生は、人の心の暗い部分ばかり見て嫌にならないんですか」
唐突に自分は何を言っているのだろう。暁月は言ってから後悔したが、高宮は別段の不快をにじませることなく返した。
「大丈夫ですよ。幸いすぐに慣れたので、合った職だったようです」
仕事ですからとそっけなく切り捨てることもなく、人のためだからと良い顔をするでもなく。高宮の言葉は柔らかく、穏やかだった。
けれど高宮の次の言葉は、ひやりと暁月の心をすくった。
「……私は、人が死ぬところに呼ばれる宿命みたいなのでね」
暁月は反射的に息を呑んで高宮を見た。一瞬、二人の間に氷のような沈黙が下りた。
性質の悪い冗談を言う人だ。暁月はからかわれたのだと思って、今度こそ話を打ち切ろうと思ったとき。
「暁月! ここにいた!」
店に飛び込んできたのは、今の時間教会でミサに参加しているはずの友だちだった。
暁月は異変に気づいて立ち上がると、彼に問いかける。
「春海、どうかした?」
「あの、あのさ。ごめん、僕も全然落ち着いて言えるかわからないんだけど」
春海は震えながら、恐る恐るその言葉を口にする。
「流々《るる》ちゃんが……刺されて亡くなったんだ」
クラスメイトの名前を耳にしたとき、暁月はそれが現実だと思えなかった。
ドラマの中なら聞いたことがあっても、それは一昨日まで同じ教室にいた子のことだった。
呆然として立ちすくんだ暁月は、そのときカウンターの高宮が微笑んだのを確かに見た。
その微笑みは、美しい所作だった。殺人という異常事態を聞いた反応とは思えないほど、優雅で洗練された一瞬だった。
けれどそれは見間違いだったと思うほどの瞬間的な仕草で、高宮はすぐに教師としての真摯な表情で二人に指示を出した。
「二人とも、今日は帰りなさい。……私は学校に行ってきますね」
高宮はそう言って、足早に店を出て行く。
――私は、人が死ぬところに呼ばれる宿命みたいなのでね。
暁月は立ちすくんだまま、高宮が告げたその言葉を思い出していた。
体の中で鳴りやまない動悸が、切迫する濁流のように感じていた。