殺人のない、平常な水曜日が訪れようとしていた。
当然休校もなく、朝から校門には次々と生徒が吸い込まれて行く。
暁月もその人波に乗って登校し、教室に入った。自席について辺りを見渡せば、流々も夾助も、春海もいる。一見すれば、一週間前に戻ったようだった。
けれど暁月は、一週間前とは違う世界を覗いてしまった。この一週間で失われるはずだった三人が、生きたまま仄暗い世界に落ちているのを知っていた。
世界史の教師が語る歴史も、一週間ですっかり様変わりしている。
「第二次世界大戦は終わり、現代が始まります」
一発の銃声で始まった戦争の世紀は終わり、今生きている人々が知っている世界が始まるという。
ただ、あまりテストに出ないので、ここからの歴史はあまり教師も力が入らないらしい。三年生のクラスでは受験の方が大事で、生徒たちもけだるいまなざしで手元の単語帳を見ていた。
暁月は窓の外の曇天が、まもなく雨になることを知っている。だからというわけではないが、空は泣く前の子どものようにも見えていた。
世界史の先生は、授業が終わると皆を見回して言った。
「午後は三者面談です。時間になったら面談室に入ってください」
ふと暁月は、本来面談室はそういう用途で使われていたのを思い出した。高宮がやって来てから、カウンセリングの部屋という印象に変わったのだった。
一応父にプリントは渡したが、父は来ないだろうと決めてかかっていた。だから午後に面談室へ一人で入っても、時間が来たからという自動的な行動でしかなかった。
「志望校は先生にお話したとおりです。家から通える距離の、模擬テストでもA評価がキープ出来ているところで……」
暁月は担任に、淡々と進路を話した。担任は一人で三者面談の席にいる暁月に、いつも通り気の毒そうな顔はしたものの、ひととおりの話を聞いてくれた。
担任は面談の終わりに、暁月を労うように言った。
「成田君の成績なら大丈夫でしょう。これまで通りの努力を、積み重ねていってください」
それは平凡な生徒に対する、ある種の最大限の賛辞だったのだろう。
……そう、これが僕だ。暁月は静かに沈んでいくような気持ちで、面談室を後にした。
けれど部屋を出たところで、暁月は父と遭遇した。
面談の時間は過ぎている。そして父は、面談室に向かっているのでもなかった。
そこにいたのは父と高宮だった。廊下の端で、高宮は波の無い声で言った。
「離してもらえませんか?」
それは父が高宮の肩をつかんで立っているからだった。いつも無気力な父なのに、今は食い入るように高宮を見ていた。
はっと暁月は息を呑む。父のまとう空気が平常でなかったから。
父はどす黒い憎悪をまとって、高宮に言葉の刃を放つ。
「瑞希。まだ生きていたのか。……俺が、殺したのに」
父の狂ったような言葉を聞いたとき、暁月は蓋をした記憶がうごめいたのを感じた。
瑞希……は、兄の名前。でも兄は病気で亡くなったはず。目の前にいる高宮は、まさか兄のはずがない。
……本当にそうだったか? そういう当たり前のようだった理屈が、地面から崩れ落ちていくようにわからなくなる。
暁月が考えている時間はなかった。父は血走った目で高宮をにらみつけて、低くうめくように告げた。
「俺が、何度でも地獄へ帰してやる……!」
父の手に握られた刃物を見た瞬間、暁月の体は自然に動いていた。
「ぐ……っ!」
暁月は力いっぱい父を突き飛ばしていた。そのまま父にのしかかって、刃物を奪い取る。
それは意思というより、本能の行動に近かった。
……高宮瑞希を傷つける者は許さない。そう、暁月の中に棲んでいる何かが、正気も何もかもを凌駕したような気がした。
気が付けば暁月は父を刺して、その刃を胸から引き抜いていた。
暁月は数度切迫したような呼吸を繰り返して……ふと正常な呼吸に戻る。
刃を持ったまま、暁月は平坦な目で高宮を見た。
「先生は、地獄から来たのですか」
高宮も殺人を目にしたというのに、落ち着いたまなざしで暁月を見返して言う。
「いいえ。もっと遠いところから来ました」
「遠いところ?」
「時間も死も追いつけないところ。そこにはあなたのお兄様もいます」
高宮は微笑んでうなずく。
「私はいろんな預かり物をして旅をしています。人の澱を貫く刃も……あなたのお兄様の人格も、私の供連れのひとつ」
高宮はふと優しく暁月をみつめて言った。
「その刃を渡すべき人に、ようやく会えました。……あなたはとても危険でとても純粋な、愛の澱を持つ子。刃の所有者にふさわしい子です」
高宮はそっと暁月に手を差し伸べて問う。
「暁月くん。私に愛されてみませんか?」
初めて名前を呼ばれて、暁月はこんな状況だというのに胸がぎゅっと絞られるような気持ちになった。
「私と共に時間の中を往きましょう。何度も繰り返す時間の中で、確かなものを二人で探しましょう」
高宮は美しい黒の瞳で暁月を捕らえる。
「答えが是なら……私のことを、抱いてください」
暁月はその瞳をみつめ返して、ひととき正常だった自分を思った。
平凡で、まさか人を傷つけることなど考えなかった真っ当な自分。高宮はそんな暁月を殺人者にしただけでなく、一緒に遠いところへ行こうと誘う。
そんな狂った選択……は、とても魅力的だった。
「……はい。先生が僕の世界を壊してくれた」
暁月は腕を伸ばすと、自分にできる限りの優しい力加減で、高宮を抱きしめた。
リーン……。いつかの時計の音が聞こえる。
暁月の足元は消えて、まぶしい闇の世界が一面に広がった。
行き先が一週間前ではないことは、もうわかっている。一週間後でも、一年後でも……百年先でも、ないかもしれない。
ここから先は高宮瑞希が誘う、どこまでも混沌とした時間の海。
瑞希は聖者か、あるいは悪魔のように微笑んで言う。
「愛していますよ、暁月くん」
暁月は瑞希に身を絡めながら、気が付けば笑い声をこぼしていた。
その日、ひとつの時間でひとつの殺人が起き、ひとりの少年が消えた。
その殺人は、永遠に解明されることはないけれど。
……今もどこかの世界で、少年は恋人となった人と旅を続けている。