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9 先生に誘われる

 月曜日の昼休み、暁月はまた面談室にいた。

 カウンセリングが受けたいと言った暁月に、高宮はゆったりと応じた。ただ一言、少し意外そうに言うのを忘れなかった。

「あなたは時間も順番も守る子だと思っていましたが、違うんですね」

「いつかの時間の僕はそうだったかもしれません。でも今の僕は違う」

 暁月がそっけなく言うと、高宮は楽しげにうなずき返した。

「初めて会ったときの不気味なくらいのいい子より、よほど自然でいいと思いますよ。……どうぞ、お掛けください」

 高宮に椅子を勧められて、暁月は彼の前に腰を下ろした。

 窓の外には重く雲が垂れこめていて、光は見えない。それと同じで、最初の殺人は起きなかったのに、暁月の心は少しも晴れなかった。

 暁月はにらむような目で高宮を見据えて言う。

「先生は僕を一番の悪と言いました。でも悪と言うなら、僕は悪魔みたいな人間を一人知っています。僕より、よほどあの男を刺した方がいいんじゃないですか」

 暁月は挑発的に言ったのに、高宮はやはり教師だった。どこか高い目線から暁月を見ているように、穏やかに返す。

「私はどの生徒も皆一様に、愛おしく可愛い。彼もとても可愛く思っています」

 つと息を呑んだ暁月に、高宮は作り物めいた綺麗な微笑みを浮かべる。

「正義を騙るその醜悪ささえ、応援したくなるのです。教師の業でしょうか。……でも、今は」

 高宮は暁月の目を覗き込むように見て言う。

「一見悪とは程遠いのに、その内に何か潜んでいるようなあなたから……目が離せないのです。だからあなたにカウンセリングをする機会ができて、とてもうれしい」

 暁月は高宮の瞳に吸い込まれるような錯覚を抱いて、びくりと身を震わせた。

「さて、あなたの心に触れるにはどうしたらいいか……」

 高宮は細い指を頬に当てて思案顔になる。その仕草はどこかで見た覚えがあった。……宗教画で神が人を思うときのような、冷たい慈悲の顔だった。

 高宮はひとときの思案から戻って来ると、優しく告げた。

「あなた以外の心の澱を、お見せしましょうか」

 暁月は黒く澄んだ瞳にみつめられるうち、彼の手招く世界に落ちていくような錯覚を覚えていた。





 薄暗闇の中に、濃厚な酒気が立ち込める。

 高宮が暁月を誘ったのは教会の隣の店だった。けれど夜のそこは、暁月の知る世界とは違っていた。

 割れるような音楽が反響し、誰かの持ち込んだ煙草の匂いが鼻につく。

 暁月は高宮の半歩後ろを歩きながら眉をひそめる。

「本当に教会が経営している店ですか?」

「お酒は本来教会の専売特許ですよ。安らぎを提供するのも教会の仕事です」

 先を行く高宮はちらと暁月を横目で振り返って言う。暁月はなお周囲をいぶかしんでつぶやく。

「でもここはまるで……」

 ……アンダーグラウンド。暁月がそう口にしようとしたとき、見慣れた男子生徒の姿をみつける。

 暁月は顔が歪まないように耐えるので必死だった。

「……春海」

 それは前の時間で暁月に劇薬を持った男の姿だったから。

 暁月は一息分だけ考えると、恐怖と嫌悪感を悟られないように問いかける。

「こんなところで何してるんだ?」

 ただ感情は追いつかず、暁月は奇妙な無表情に変わっていた。そんな暁月に、春海は酒の入ったグラスを傾けて応じる。

「ちょっとだけ、悪いことしてる。暁月も混じろうよ」

「僕は……遠慮する」

 暁月はこの時間の春海も、どこか狂った色を持っていると気づいた。

 一つ誤れば前の時間のときのように、春海は悪魔の顔に変わるかもしれない。その警戒で、握った手のひらに汗をかくのを感じる。

 そうでなくとも、ここは未成年が出入りして良い場でないのは確かだった。

 けれど立ち去ろうと高宮を振り向くと、そこに彼の姿はなかった。

 暁月は一つ息をついて周囲をよくみつめる。この時間では、まだ春海は悪魔に変わっていない。それより高宮に甘えそうになった自分の方が嫌だった。

 自分を落ち着かせた効用はあったようだった。暁月は春海の隣に座る、もう一人の男子生徒に気づく。

 春海は猫のように目を細めて隣を示す。

「暁月も慰めてあげたら? 彼の悩み、興味深いよ」

 春海の隣には、夾助が座っていた。暁月に気づいていないように、グラスを手に虚空を眺めている。

 夾助もまた、飲酒とこの場の薄闇に染まっているようだった。ただ酔って前後を失くしているというより、深く自分の中の世界に入り込んでいる風に見えた。

 春海はどこか楽しそうに言う。

「……流々ちゃんと死にたかったのに、できなくなっちゃったんだって。あんまりに流々ちゃんが、娼婦みたいになっちゃったから」

 夾助はそれを聞いたのか、自分の中の言葉に応えるつもりだったのか、重い口を開く。

「流々はもう、俺の知ってる流々じゃない」

 夾助は独り言のように言葉をつなげた。

「悪魔みたいに俺を誘ってくるんだ。俺に自分から乗って、気持ちいいことをしようって。……俺は」

 ぼそぼそとつぶやいていた夾助は、ふいに言葉をやめる。

 夾助は自分の中の感情をつかんだように、表情を変えた。

「俺は待ってる」

 そのとき、暁月は夾助が別人になったような心持ちがした。

 夾助はうっそりとした笑みを浮かべて言う。

「吸血鬼に血を吸われるみたいに、流々に殺されるときを。必ずそのときが来る気がする。……想像するだけで、幸せなんだ」

 暁月が息を呑んだとき、春海の口元が弧を描いた。

 春海は優しく夾助の肩に手を触れて言った。

「素敵だね。僕も楽しみに待ってるよ。……そんな夾助くんが、好きだから」

 春海はざわつくような笑い方をして、目を細めて夾助を横目で見た。

 割れるような音楽は、胸をひっかくような残響をもって辺りを支配していた。

 その中で暁月は、平常の域を外れた二人をどこか冷静に眺めている自分に気づいた。

 今まで、殺人が起きるたびに一つの関係が断ち切られた。

 この時間では、誰も刺されて死なないかもしれない。……その代わり、今までで一番歪んだ関係の連鎖が続く。

 手招く流々に、そんな彼女に囚われた夾助。そして時間を違えるごとに愛する相手を違える春海は、そんな夾助を愛した。

 ……この関係におそらく出口は、ない。

 暁月がそう思った月曜日も、やはり殺人は起きなかった。

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