小樽の冬は、息をするたびに肺が冷える。昨夜降ったドカ雪をカフェの裏手のスペースへ運び終えると、
古い坂の途中にある一軒家からは灰色の海が見渡せた。荒い波が押し寄せては引いていく、冷たい海の上を朝から細雪が舞い降りていた。冬は、日本海の海は暗くなる。見ていると気が重くなるという人もいれば、逆に気持ちが落ち着くという人もいる。
操一にとっては、波も風も立たない──いつもの見慣れた景色だった。
「……これは、しばれるな」
操一は白い息で丸眼鏡を曇らせながら、和モダンな紺藍のフェンスに積もった雪を払い、店の中へ戻っていった。北海道の古都・小樽。現在は、小樽運河を中心に観光都市としての側面を歩むこの街の、中心部からはほど遠い住宅街の一角に、古民家カフェ「ゆめがみ庵」は佇んでいる。
住宅街と言っても、冬ではタクシーも登れないような急坂に面した立地。小樽の人は慣れているが、外から初めて来るお客はたいてい「こんなところに……?」と驚く。
元々坂の多い街。車のある現代からすれば崖とも取られる恐ろしい光景だが、操一は使い道のない2階建ての立派な古民家を購入し、自らカフェの店主となった。──歴史の長い小樽。古い街並みには大正時代や昭和初期に当時の豪商によって建てられた屋敷がまだ残っている。
ギィ、という音を立てて扉を閉めると自身のコートについた雪を払い、操一は店内へと進んだ。古いガラス戸を開けると、すでに暖房の温かさが行き渡っていて強張っていた体の力が抜ける。
使えるものは使う──古民家風カフェの魅力は何と言っても過去に迷い込んだような独特の空間だった。太い木の柱はそのままに、高い天井の広々とした空間にはゆったりとした時間が過ごせるようにと、あえて背の低いテーブルやイスを並べていた。
客席に適当に置かれた調度品や雑誌に本は、大半は元々あったものが使われている。それらに操一の私物、あるいは必要に応じて買い求めたものを足してゆったりとした内装をつくり出していた。もっとも、美的センスは皆無であったため、配置はすべて操一の娘であるヒナに頼んでいた。
今年で7歳になるヒナが、カウンターの内側のキッチンからひょっこりと顔を出した。肩までの長さの黒髪に、すとんとそろえた前髪。墨色の瞳がガラス窓から漏れる光に反射してキラキラと輝いて見える。雪のように色白の肌は、物静かな印象を受けるがにっと広げた口は、今は亡き母親に似て快活だった。
「お疲れ様、お父さん。コーヒー淹れる?」
「……ああ、今日もちょっとまだ腰が痛くてな。悪いけど、お願いしようかな?」
「うん、そうだと思ってもうカップ用意してた! すぐに淹れるね!」
「ありがとう」
娘に気づかれぬように苦笑すると、操一は腰に手を当てながらスマホを手に取り、手近なテーブルへと腰かける。7歳とは思えないほどテキパキと動いてくれるヒナとは対照的に、実におっさんらしい所作を見せてしまったと操一は自嘲するが、実際は20代後半の中肉中背。まだ多少の無茶はきくし、体も動けると思っていた。
少しくせっ毛のある黒髪はしっかりと清潔感が出るように真ん中で分け、おしゃれ風の丸眼鏡の奥には柔らかい黒の瞳が瞬いた。
コーヒーの芳しい香りが強くなり、ヒナのペタペタとした足音が近付いてくる。
「お待たせしました!」
ヒナはまるで接客するように頭を下げると、コーヒーカップを操一の手元に置いた。そして、自分は大好物のミルクココアとお気に入りのマンガを持ってきて操一の向かいに座った。
時折雪風が強く吹く以外は、静かな時間が過ぎていく。
綴木操一に綴木ヒナ。ゆめがみ庵は、以上2名が営むカフェであり住まいである──はずなのだが。
客席の端、陽だまりのできる椅子の上。誰もいないはずのそこに、ヒナはときどき手を振る。操一も気づいているがあえて何も言わない。ただ、視線をそらして静かにコーヒーをすする。
操一には見えないがヒナには見えるらしい不思議な気配。ただ、見えないものの操一にも、人ならざる者の気配を感じることはある。ごくまれに視界の端にひっそりと映ることも。
操一はそれらの気配を、密かに「あやかし」と呼んでいた。
その中でも最近、操一には気になることがあった。
「……今朝も、あの人来てたよ」
ヒナがマンガを読みながらぽつりと呟く。操一は視線を上げた。
「白い服の、女の人? 夢の中に?」
「ううん、窓の外からにこって笑ってた」
「……そっか」
短く返すと、操一はコーヒーを飲む。こんな調子でゆめがみ庵には、見えたり、気配を感じる程度の人ならざる者の来客がある。気づいているのは二人だけで、客は全く気がついていないのだが。
*
ネットニュースに目を通すと、操一はヒナの淹れてくれたコーヒーを飲み干した。カフェとしての顔であるブレンドコーヒーは、全くの操一のオリジナルではない。元々はコーヒー好きのヒナの母親が、「実験台」として操一に飲ませていたものだが、母親が亡くなったあと、操一はそれを試行錯誤して店の味として蘇らせたのだ。
そのときだった。玄関の戸が静かに開く音が聞こえた。扉の鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
先にヒナの声が響く。操一は立ち上がると、落ち着いた声で客を招き入れた。モーニングはやっていない。だから、こんな朝早くから来るお客さんは観光客だろうと当たりをつける。
入ってきたのは、黒いコートに身を包んだ若い女性だった。背中に伸びる長い髪を束ねた女性は、ヒナをじっと見つめた。しっかりと確認するような目つきが細まり、不気味な微笑みが浮かぶ。
まるで雪女のようだ──と操一は思った。あるいはアイヌ語で「ウパシメノコ」。どこか冷たい眼差しだが、目鼻立ちは整っている。
女性は何も言わずコートについた雪を手のひらで払うと、そのまま奥の一人席へと座った。
「……あの人、不思議な人だね」
確かに妙な気配を感じる。見惚れるように女性の姿を目で追うヒナの肩を軽く叩くと、操一は「接客はお父さん一人でやる」と言った。ヒナはうなずくと、キッチンの方へ消えていく。
操一は眼鏡を上げるとメニュー表を取り、黒コートの女性の元へと向かう。雪が降る中、一人で
「……落ち着いたお店ですね」
しかし意外にも女は微笑を浮かべる。ぽつりとそう言うと、店内をじっくりと見渡した。メニュー表を見せると長い人差し指を伸ばし。
「ブレンドコーヒーを。ブラックで」
と注文した。
注文をくり返すと、操一はキッチンへと向かう。隠れていたヒナが小声で「だいじょうぶ?」と呟く。
「ああ、たぶん……」
もしかしたら一人でカフェ巡りをしているだけかもしれない──。一応、お店のSNSはやっているから、たまにそれを見てやってくるお客さんもいるのだ。
(だが……)
コーヒーを淹れながらちらりと女の様子を窺うと、女もこちらを凝視していた。