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第2話 あやかし封じの九重さん

 視線に気づかない振りをして、操一は湯気の立つブラックコーヒーを黒コートの女のもとへ運んだ。


「──ありがとうございます」


 女はカップを手に取り、口元に運んだ。改めて顔をよく見れば、年齢は二十代半ばか、それよりやや上。黒曜石のような漆黒の瞳が、どこか印象的だった。微かに波打つ黒髪を高い位置でまとめ、体を包むロングコートは地味な黒一色。華美なものは何一つないのに、凛とした立ち姿は見た目よりもずっと年齢を重ねているように見える。


「……なにか探し物でもしているんですか?」


 操一は立ったままそう聞いた。ぶしつけな質問だとは思ったが、やはり一人でここへ来たのがどうも気になる。それに……キッチンでコーヒーを作っている最中にじっと見ていた目。カフェに来る以外の用事があると踏んだのだ。


 女は意外そうな顔をして、操一の顔を見上げた。長い髪の毛を耳に掛ける。


「どうして、そう思ったんですか?」


「なんとなく……かな。この店にはよく探し物をしにくる客も多い」


 これは本当のことだ。人生の探し物──などという抽象的な目的の人間もいるが、ヒナがよく誰もいないところに手を振るように、人ではない者が迷い込むこともある。


「そうですか。確かに……探し物はあります──」


 そのとき。ぱきん、と微かな音を立てて、陶器の表面に細かい亀裂が入った。


 女は驚いたように目を伏せ、カップをそっと戻す。何かの予兆のような、不穏な空気が漂う。


「……申し訳ありません。今、新しいものを用意します」


「いえ、おいしかったです」


 言葉は穏やかだが、感情はほとんど感じられなかった。棒読みの台詞のような違和感。女は、操一の後ろ、カウンターの陰をじっと見つめている。──いや、というよりも様子を窺っているように操一には感じられた。


 その先では、カウンターから小さな顔をのぞかせて、ヒナがこっちを見ていた。


(──マズい)


 女の態度に強い違和感を感じ、操一が振り向こうとした、その瞬間だった。


「やはり。……店主。ここには普通ではないモノの気配が多すぎますね」


 女はそう言いながら、黒いコートの内側から小さな木札を取り出し、テーブルに静かに置いた。焼き焦げたような縁取り、細かい文字が彫られ、どこか禍々しいオーラのようなものを発している。


 木札には古代文字とも思える判読不能な符号が細かく彫られていた。表面には、炭のように黒ずんだ焦げ跡。操一はそれに見覚えがあった。


「気づいているはず。あなたは、隠している──」


 木札が微かに震えたかと思うと、ふわりと店内の空気が変わった。急に温度が上がったような、胸の奥がざわつく感覚。


(これは──古い呪術。……確か、人ならざる者の正体を暴き出す……)


 記憶を辿るよりも早く、その現象は起きる。カウンターの向こうで、ヒナが膝を抱えてうずくまっていた。


「ヒナ!」


 操一が駆け寄ると同時に、店の空間が一変する。


 まるで紙がめくれるように、空間の一部が薄く光を帯びて剥がれ、半透明のスクリーンが現れた。そこに淡く映し出されたのは──雪原。


 操一も黒コートの女も、固唾を飲んでその映像に見入っていた。


 暗い空、舞い落ちる雪。足元の雪を踏む音。やがて画面の奥に、赤い着物の女性が背を向けて立っているのが見える。


 誰かの視点で、ゆっくりとその女性に近づいていく。その誰かは女に気がついたのか走り出した。声は聞こえない。ただ、荒い息遣いと足音だけが響く。


(これは……まさか、いつものヒナの夢……?)


 操一は、胸に抱きかかえた娘の額に手を当てた。高熱が出たように熱い。荒い息遣いは、映像とリンクしているように思えた。


(目が開かない。ヒナは……やはり寝ているのか?)


 赤い着物の女性が近付く。その姿が誰であるか気がつき、操一は息をのんだ。


 着物の女が振り返ろうとしたそのとき──。


「ヒナ!!! 戻ってこい!!」


 必死な操一の呼び声に、光は一気にかき消えた。スクリーンが霧のように消えて、現実の店内が戻ってくる。


「……っつ、あれ……?」


 小さく声を上げると、ヒナが震えながら目を開けた。操一はその額に浮かんだ汗を手のひらでそっと拭う。


 イスを引く音がして、黒コートの女が立ち上がった。


「……やはり。人ならざる者の──あやかしの力」


 操一は驚いた顔をして女に顔を向けた。ヒナの正体・・に気づかれてしまったからだ。


「その子は──」


「少し黙っていてくれないか。この子を部屋で休ませる。話は、それからだ」


 これ以上女がしゃべる前に、操一はヒナをそっと抱きかかえて二階の自宅へと階段を上がっていった。


 操一が2階へ行っている間、女は目を細めると再び木札に触れた。



 しばらくして、操一は店へと戻ってきた。操一は、じっと椅子に座ったままの女にコーヒーを差し出した。


「……これは?」


「さっきの分だ。カップは割れてしまったからな。一応、あなたはまだお客さんだから」


「……失礼します」


 女は遠慮がちにコーヒーを飲んだ。それを見て、操一も自身に淹れたコーヒーをすする。


「……それで、どういう了見でこんな札を? 『あやかし封じの九重ここのえ』さん」


 わずかに声にトゲをにじませて操一が言うと、女の眉がわずかに動いた。


「私のことを知っている……んですか?」


「その木札。亡くなった妻が、研究の中で話していたことがある。隠れている、あるいは化けている人ならざる者の正体を暴き出す術。平安より以前の古くからある古呪術。使い手は歴史あるあやかし封じの家系が一つ、九重家しかない、とかなんとか……」


 操一はコーヒーを飲みながら淡々と話した。しかし、女を見据える瞳は疑念と警戒を怠ってはいない。


「……九重……九重ここのえ真澄ますみ、と言います。店主さん、そこまで知っているなら話が早い。あの子──あの娘は、人ではありません」


「違う。俺の子どもだ」


 カップを置くと、操一は眼鏡を上げる。即座に返答した操一の目には揺らぎはなかった。


 真澄はふっとため息をつくと、コーヒーに口をつけた。今度は、亀裂は入らなかった。


「あなたもご存知のように、九重家は、平安時代の昔からあやかし封じを家業にしてきた家系。あやかしの中には、人に仇なす者もいます。あの子の能力は、おそらくは『夢織』。生きているものに夢を見せる力──その夢が現実に侵食することもある」


「……とんでもない昔話だな。都市伝説に近い」


「そう思ってもらっても構いません。私たちは普段、あやかし以外で人と関わることなどないので。けれど、私は現実に生きています」


 淡々とした声にかすかな悲しみが混じる。


「……人の生きる今の世にも、あやかしが隠れて生きていることは知っている。だが、あの子──ヒナは何も悪いことはしていない」


 操一はコーヒーを飲むと、ふっと自嘲気味に微笑んだ。


「……まるで化物を飼っている者の台詞のようだけど、これは確かだ。なんなら保障する。ヒナはこれからも何もしない。俺が何もさせない。……それとも、関係なく九重家の者は、あやかしだったら見境なく封じようというんですか?」


「……私から言えるのは、あやかしは危険だということ」


 両者のにらみ合いが続き、先に動いたのは真澄だった。真澄は冷めたコーヒーをゆっくりと飲み干すと立ち上がった。


「……今日のところは帰ります。あの子の力、もう少し見極めたい」


 真澄は木札をつかむと、黒いコートを翻し、店の出入口へと向かった。


 玄関が閉じる音が聞こえ、操一はふっと息を漏らす。


「……あやかし──か」


(ここならずっと、平穏無事に暮らせると思ったんだけどな……)


 操一は不意に窓の外を見た。眼鏡のレンズに確かに何者かの黒い影が映っているように見えたが、しかし今は誰もいない。


 窓から見える外にはまた、雪が降り始めていた。 

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