朝の光が林間を淡いオレンジ色に染め上げる頃、俺は「今日も一日、頑張るか!」と気合いを込めてログハウスの扉を勢いよく開け放った。いつものように、鳥のさえずりが心地よい、平和な朝――のはずだった。
窓から差し込む木漏れ日が、室内の舞う埃をキラキラと輝かせ、天井から吊るした干しハーブがそよ風に揺れている。だが、俺の視線の先には、先刻までがらんとしていたはずの床に、目を疑うような光景が広がっていた。
「よーし、ここが私の新しい職場兼、運命の拠点ってことで!」
能天気な声と共に、テーブルには分厚い書物と、見たこともない魔法具が山積みになり、床には見慣れた顔――エルド・マクシミリアンが、まるで長年住み慣れた我が家の住人のように、くつろぎきった姿勢で胡坐をかいていた。
「ちょ、おまっ……エルド!? お前、なんで当たり前みたいにいるんだよ!?(ここは俺とルナの愛の巣なのに……)」
「住む気満々やん……」
俺と、俺の隣で目を真ん丸にしているルナの声が、見事にハモった。しかし、エルドはそんな俺たちの驚きなどどこ吹く風とばかりに、無邪気にはしゃぐばかりだ。
「だってぇ、この家、空気が最高なんですよ? 魔力の流れがスムーズで、執筆オーラが気持ちよくて、インスピレーションがガンガン湧いてくるんですもの!」
そう言いながら、エルドが手にしているのは、小型の魔導器具と、大量の魔導用紙の束。彼の頬は期待に紅潮し、逸る口調でまくし立てる様子は、まるで子供がおもちゃを自慢するかのようだ。猫耳がぴょこんと揺れるルナも、呆れ顔を隠しきれない。
「気持ち良いって、俺は岩盤浴か何かか! ここは俺の家だぞ!」
「いや本当に『筆の魔力』ってあるんですって! うちの研究所でも『執筆魔導』は禁書級の禁術でしたし、その中でもリュウさんの家は特にすごいって話で!」
「さらっとヤバいこと言うな!! 禁術ってなんだよ!」
こうして、唐突に、だが問答無用で、ログハウスは瞬く間に三人暮らしの共同生活空間へと様変わりした。狭い玄関には所狭しと書架がぎっしり並び、リビングのテーブルは魔法器具と訳の解らない薬品で埋め尽くされ、果ては寝室でさえ、足の踏み場がないほどにエルドの荷物が侵食していた。
「なあルナ……俺の寝床、最近端っこすぎないか? 壁に埋まっちまいそうだぞ……」
「エルドが大きく使っとるけんね。というか、なんでうちのモフモフベッドにエルドが寝とると? あれはルナ専用の安眠スポットたい!」
ルナの飼い猫顔負けの、ツンと澄ました声での不満に、エルドは申し訳なさそうに、だが全く悪びれた様子もなく頷いた。
「え? だって、あのモフモフしたクッション……最高なんですよー? 一晩中スヤスヤでした!」
「……リュウ、増築せんといかんばい。このままじゃ、うちの居場所もなくなるばい」
ルナの一言に、俺は迷いなく深く頷いた。もはやこの状況を打破するにはそれしかない。俺は思考を巡らせ、すぐさまペンを手に取って、脳内に描いた理想のログハウス像を、紙の上に走らせた。
《ログハウスの東側に、魔力循環システム付きの魔導露天風呂と、書斎兼研究室を備えた二階建て別棟が出現し、寝室もそれぞれに、三人が快適に暮らせる広々とした居住スペースへと進化した》
書き終えた瞬間、外壁がまるで生きているかのように大きく軋む音を立てた。ログハウス全体が変形ロボットのようにゴゴゴゴゴ……と唸り、まるで呼吸をするかのように膨張していく。そして、最後に「バァーン!」と、まるで何かが完成したかのような大きな音を響かせ、生まれ変わった。
「な、なんじゃこりゃああああああ!」
驚きでエルドが外に飛び出すと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。ログハウスの東側に、木材と石でできた重厚な二階建ての別棟が、堂々とそびえ立っているではないか。屋根になびく煙突からは、硫黄の独特な香りと、甘いハーブの香りが混じり合った湯気がふんわりと漂っている。
下階には、見るからに広々とした大きな岩風呂があり、浴槽の縁には、魔力が宿った自動湯注ぎルーンが淡く光っていた。上階には、壁一面に書棚がびっしりと並び、試験管立てやフラスコが所狭しと置かれた書斎が見える。まさに、エルドの研究室と、俺の作業スペースを兼ねた理想の空間だ。
「温泉付き!? しかもこの浴場、魔力再生効率がえぐいっ! 一日中浸かっていられるばい!」
ルナは目をキラキラさせながら、今にも浴槽に飛び込みそうな勢いだ。一方、エルドは既に露天風呂の湯面に手を浸し、恍惚とした表情で目を閉じている。
「はぁ……最高です、最高すぎます! これは執筆どころか、むしろここで寝泊まりしたくなりますね!」
「増築しても騒がしいのは変わらんとばい! むしろパワーアップしとる!」
俺は、あまりの出来事に目眩を抱え、これが執筆の代償なのか、それともエルドとルナの騒がしさに対する疲労なのか判然としないまま、頭を抱えた。
数日後。俺が新たに書き進める物語に没頭していると、東側の書斎から、エルドの興奮した甲高い声が響き渡った。
「よし……できた! 名付けて『マジックスクロール』第一号、“ファイアボール(小)”!!」
何事かと、俺は急いでエルドのもとへ駆け寄った。どこからともなく、ルナも興味津々といった様子で同席している。
「え、なんか普通な名前……もっとこう、凝ったやつはなかったのか?」
「でも凄いんですって! ここに“火の式”と“拡散のルーン”を組み込んで、呪文の核心だけをギュッと圧縮したんですよ! これ一枚あれば、誰でも手軽に魔法が使えるようになるんです!」
エルドは興奮冷めやらぬ様子で、紙巻きにしたスクロールを俺とルナに見せつけ、鼻息を荒くする。その目は、まさに発明家そのものだ。
「じゃあ、試しに使ってみましょうか? どれほどの威力か、その目で確かめてください」
「お、おう……じゃあ、ちょっと後ろで……」
俺が一歩後退して見守る中、エルドはスクロールを掲げ、まるで舞台俳優のように情熱的に呪文を唱えた。
「リーディング・ファイア!」
その瞬間、エルドが掲げた紙から、ぼうっと橙色の炎が吹き出した。しかし、それは「小」と呼ぶにはあまりにも大きく、まるで火炎放射器のように勢いよく飛び出し、あっという間に壁の小棚を燃やし始めた。
「ちょっ、あっつ!! 何これ、聞いてないばい!」
ルナが驚いて飛び退き、俺は慌てて近くにあったバケツに水を汲みに行った。そして、迷うことなくエルドごと燃え盛る壁に水を浴びせかける。シュボボボ……と大きな音を立てて煙が立ち昇り、エルドはびしょ濡れになりながらも、満面の笑みを浮かべていた。
「大成功です! ちゃんと爆発しました! これで量産もできますね!」
「“ちゃんと”の基準、おかしいだろ!? お前は家を燃やす気か? 大成功って言えるのは、ちゃんと標的に当たって、周りに被害が出ない場合だぞ!」
さらにその翌日。いつものように、例の商人ロブ・ロイが、助手のベルモットと大型の荷台を引いた馬車でやって来た。彼の顔には、いつも以上に満面の笑みが浮かんでいる。
「リュウさん! 聞いてください! 王都の高級レストランで、リュウさんの『幻のジャガイモ』が大ヒットしましたよ! もう注文が殺到しましてね!」
「その呼び名、ちょっと語弊が……ただの美味しいジャガイモなんだが……」
「そこでご提案です! ぜひ近隣都市にも販路を広げましょう! リュウさんの畑はまだまだ余裕ありますよね!? ね!? どんどん作ってくださいよ!」
「……あるにはあるが、急に言われても……」
「配送手段や倉庫も必要ですし、これ全部どうにかなりませんかね!? リュウさんの力なら、きっと!」
「俺は便利屋かよ!? 畑仕事も執筆も忙しいんだぞ!」
「せっかく大型の荷台導入したんですよ、リュウさんのために……いや、これはリュウさんのチート農産物を運ぶためですよ!」
「なんだか恩着せがましいな……」
だが、これは確かに“チャンス”だった。俺のチート農産品とエルドの魔法スクロール、そして俺自身の執筆能力を組み合わせれば、ビジネスの可能性は無限に広がる。
「よし、やってみるか。筆で、世界を広げよう」
俺の言葉に、ロブ・ロイが満面の笑みで大きく頷いた。
「また楽しそうなこと言い出したばい……でも、うちも応援しとるけんね! 頑張るばい!」
「私も! 研究のためにどんどん巻き込んでください! リュウさんのチート能力、もっと解析したいんです!」
エルドは目を輝かせ、ルナは小さく、だが力強く頷く。俺は大きく深呼吸をして、未来への期待を込めて、再びペンを走らせた。
このログハウスから、俺の魔法と農業と物語が、もっともっと広い世界へと広がっていく。
「……のんびりとスローライフな日々は、もう来ない気がするばい」
ルナが小さく呟いた。しかし、その瞳には、これから始まるであろう新たな冒険への、隠しきれない期待の光が宿っていた。
それから数日、朝の柔らかな光がログハウスの窓枠を撫でる頃、エルドの甲高い叫び声が響き渡った。
「スクロール、爆売れです!! リュウさん、大儲けですよ!」
俺は慌てて書斎から飛び出し、くすんだカーテンを払いのける。庭先に停めたロブ・ロイの使いの馬車の代わりに、リビングには、両手に書状を振るエルドが興奮した面持ちで立っていた。
「また朝からうるさいたい……うちのしっぽが寝癖ついたやんか……せっかくのモフモフが台無しばい」
ルナが伸びをしながら、不機嫌そうに呟く。真っ白の髪の先で猫耳がぴょこんと跳ね、ほんのり欠伸が出そうな顔だ。
「ほらこれ! 王都から追加注文の書状! それに地方都市の魔導ギルドからも問い合わせが来てます! 『あのスクロール、燃え方がやたらリアルなんだ。まるで本物の魔法を使っているようだ』って大評判ですよ!」
エルドが差し出した手紙には、金色に縁取られた切手と、威厳ある筆跡で「追加五千巻」とだけ記されていた。傍らには、各地のギルドマークがずらりと並んでいる。これは、相当な売れ行きと見た。
「褒められてんのか、それ? 燃え方がリアルって……なんか不安になるんだが」
「マジですって! この《マジックスクロール》は、火の式だけでも五段階の威力調整が可能ですし、雷の槍は騎士団の演習で模擬戦用に正式採用されましたよ! しかも売上の半分は私の研究資金に! まさにWin-Winの関係ですね!」
俺とルナは顔を見合わせ、思わず目を丸くする。まさか、あんな危険なスクロールがここまで実用化されるとは……。
「すっごいことになっとるやん……てか、うちらが稼いでるのって野菜と爆発物ばい? なんか商売の方向性が斜め上に行っとる気がするばい」
「バランス感覚が斬新すぎるな……普通の農家とは一線を画している、とでも言うべきか」
その日の午後。ロブ・ロイの馬車が、いつもの馬鹿でかい荷台を引いた馬車でやって来た。しかし、今回は彼の表情に暗い影があり、どこか元気がない。いつもの陽気な雰囲気はどこへやら、彼は重い足取りでログハウスに入ってきた。
「リュウさん、ちょっと困った話がありましてね……」
彼の言葉に、俺は思わず身構えた。
「嫌な予感しかしない……なんだ、またトラブルか?」
商人は肩を落とし、引き攣った笑みを浮かべながら、ゆっくりと事情を説明し始めた。
「実は最近、『幻のジャガイモ』が王都市場に未認可品として流通し始めているんです。どうやら、誰かがウチの馬車をそっくり模倣して密輸販売しているらしくて……」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの耳がピクリと立ち、俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。俺のチート能力で生み出したジャガイモを、まさか模倣する輩がいるとは……!
「え、うちのジャガイモ、勝手に密輸されとると!? ふざけとるばい!」
「正確には“執筆されたジャガイモ”の模造品っぽいですね。本物と見た目はまったく同じなんですが、味が妙に甘すぎるうえ、魔力反応が奇妙に偏っているそうで……市場ではちょっとした騒ぎになっているんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍るほどの嫌な予感が走った。味の異変、魔力反応の偏り……。完全に、俺の能力を模倣しようとしている奴らがいる、と。そして、それが非常に「ヤバいもの」を生み出している、と直感した。
ロブ・ロイに頼んだ調査の結果、その背後には「模倣魔導師団」と呼ばれる、名前通りの怪しい組織が蠢いていることが判明した。彼らはエルドのスクロール技術と、俺の“執筆チート”を解析し、模造文章によって同等の効果を再現しようとしているらしい。
「つまり、俺の“物語”が盗まれているってことか……」
俺の声は低く、しかしそこには確かな怒りがこもっていた。自分の生み出したものが、悪意のある形で利用されていることに、強い憤りを感じる。
ルナが腰に差した短刀の柄をぎゅっと握りしめ、その目を真っ直ぐに俺を見据える。
「……リュウ、悔しかね? うちも腹立つばい」
「正直、めちゃくちゃ悔しい。俺のジャガイモは、誰かを傷つけるために作ったんじゃない」
エルドも静かに頷き、決意を固めたように拳を握る。
「技術は共有してもいい。でも、物語を盗むのは絶対に許さない。リュウさんの努力と才能の結晶を、そんな風に汚させるわけにはいきません!」
「エルド、たまにはいいこと言うじゃねえか、見直したぞ」
「たまにとは!? 私はいつも真剣ですよ! というか、私のスクロール技術も盗まれてるんですからね!」
その夜、俺は胡散臭い名前の組織を瓦解させる為に、机に向かい、再びペンを走らせた。この怒りを、この不条理を、すべて文字に込めて。
《偽りの魔術は、真の物語の前に必ず崩れ去る。模倣されたジャガイモは腐敗し、人々の手元から消え去るだろう。だが、正当な筆によって紡がれた野菜は、正当なルートで流通し、人々に癒しと力をもたらし続ける》
文字を走らせるたびに、ノートが淡い光を帯び、部屋中に温かい魔力が満ちていった。俺のチート能力も、この怒りに応えるかのように、レベルアップしているようだ。
数日後、王都市場にはまるで幻でも見たかのような光景が広がっていた。偽ジャガイモの山は一斉に腐敗し始め、色褪せた肌がしおれ、ついには跡形もなく消え去った。それを買い占めていた模倣魔導師団のメンバーも、自らの過剰な魔力暴走に耐えられず、組織は王都を追われることとなった。
一方で、本物の“幻のジャガイモ”は、甘みとコクを保ちながら、魔力反応も正常そのもの。そして、俺の署名入り証明書が、「真作認証」として市中の帳簿に刻まれたことで、その価値はさらに高まった。
「これで、また一歩、世界が正しく整ったな。俺の力で、少しは役に立てたってことか」
俺は静かに呟き、隣で輝くルナとエルドに微笑みかけた。
「世界とはまた大きく出ましたね、リュウさん。でも、あながち間違いじゃないかも!」
「ふふ、うちの芋、やっぱ最高ばい! これからもどんどん作って儲けるばい!」
ルナが得意げに胸を張る。
「ルナ、それ“うちの”って言い切っていいのか? 俺が書いたんだぞ」
「リュウのものは、うちのものたい! 共同生活してるんやけん、当然ばい!」
「…………最強ジャイアニズムだなそれ」
エルドはそんな二人を見ながら、新たなスクロールを手に取った。その顔は、もう次の研究のことで頭がいっぱいといった様子だ。
「さて、次は“瞬間洗浄スクロール”でも作るかぁ……昨日、リュウさんが鍋を焦がしてましたしね! あれがあれば、もう大丈夫!」
「おい、やめろ! それは俺の名誉のために作るな! そんなものは個人的な黒歴史に留めておけ!」
三人の賑やかな笑い声が、大きくなったログハウスにこだまし、今日もまた、平和で騒がしい一日が過ぎていくのだった。